神事
17
「イルミナー祭り」の中日、日没にあわせて神事がはじまった。
その時刻が近づくにつれ、島特有の強い風が吹きはじめた。空がみるみる重たい灰色になり、沖あいの波が荒々しいしぶきをみせた。うねりはしだいに大きくなった。
見物人の一人が「今年はやりおおせんかもしれんなあ」と連れと話しているのをトキオは耳にした。シンボルのまわりでは、二艘の小舟が大きく上下に揺れながら万一の事態にそなえている。
文字通り島中の人が集まったと思われるほどの多くの眼がビーチや桟橋から見守るなか、今年二十歳になった神谷己一という若者が、束ねたしめ縄を背おい、この日のために桟橋の端からさらに五メートルほど先に設置された浮き台に立った。それからひと息、厚い胸が大きく膨らんだかとおもうと、青年は両脚をそろえた美しいフォームをみせて音もなく海に吸い込まれていった。観客のあいだから思わずどよめきがあがった。
それから、青年が歯を食いしばり、いくども波をかぶり、荒波に押しもどされながら、テンシバルのシンボルにしめ縄を掛けるさまを、島の皆は食い入るように見た。ようやく青年がしめ縄を掛けわたし、かたずを呑んで見守っていた人々から安堵のため息がもれたとき、燃えるようにゆらめいていた太陽が、オレンジ色の最後のひとすじを残して海に沈んだ。
神谷青年は桟橋からもはっきりわかるほど血の気が失せてぐったりとなり、いくつもの手でボートに引き揚げられた。人々のなかから静かな拍手がわきおこり、いつまでもいつまでも続いた。
トキオの眼から知らずに涙がこぼれた。リカも楓子もフミヤも泣いていた。吉田先生も残照に赤く染まった顔をしきりにこすった。
日没後のビーチは、そのあと陽気なお祭りさわぎになった。休んで生気を取りもどした青年が、ビーチにしつらえられた舞台に上がると、ピーピーいう口ぶえと拍手喝采がわき起こった。みんなが青年に握手を求め、肩をたたき、身体の一部でもいいから触ろうと殺到した。神聖な祭祀をなしとげた青年の身体には、神の一部がやどると信じられているのだ。
桟橋の豆電球にいっせいに灯りがつけられた。さっきまでの荒れ模様がうそのような穏やかな海面に桟橋が映り、この世のものとは思えない幻想的な世界が浮かび上がった。
それをうっとり眺めていたトキオの頭の中に海底洞窟が出現し、ゆらゆらする海藻にかこまれた入り口がはっきりみえた。いつか自分も祖父と同じように、あそこを通ってどこか知らない世界に行くことがあるのではないか――。
ビーチにはますますたくさんの人が集まってきた。島中の家がいまごろ空き家になっているにちがいない。トキオたちは人々の流れにさからってバス停方向に歩き始めた。夜には風吹亭は大勢の客でごった返すはずだった。
人ごみをぬけると急に静かになり、四人の後ろを歩くふたり連れの会話が耳に入ってきた。
「おい。思い出さないか」
「ああ。そうだなあ」
「ありゃ、何年前だ?」
「もう三十年はたつかな」ふたりとも年老いた声だ。
「あんときも荒海だった」
「いやいや、こんなもんじゃない。中止するところだったさ」
「ああ、そうだった。それで揉めたんだ。けど、奴さんどうしてもやると言いはって――」
「結局やりとげちまった」
「死人がでなかっただけでも儲けもんの海でな」
「たいしたもんだよ。昔は死人がでるのがあたりまえだったというがな」
「なんて名だったかな」
「――たしか山城、いや、玉城、ともかくそんな……」
二人はそこで道を曲がったらしく、声は途切れた。
リカがトキオのシャツの裾をひっぱった。薄闇のなかでもリカの大きな眼が光っているのがわかる。トキオも確信した。二人連れが話していた三十年前のその青年は、クマさん、いや、大城浩一にちがいなかった。
その夜、風吹亭にどっと客が押しよせた。
トキオもリカも、そして、なんと吉田先生までもが店に残って手伝った。先生は居酒屋でのバイト経験を生かしててきぱき注文をさばき、相上から「先生、転職しなよ」とおだてられた。フミヤはめずらしくライバル意識を燃やしたらしく、先生のことをチラチラ見ながらやたらに大きな声を出したりして、司馬からうるさいと叱られた。
翌日、吉田先生が迎えにきたとき、トキオもリカも起きたばかりでまだ頭がぼんやりしていた。さすがに店の手伝いは早めに切り上げさせられたが、ゆうべはそのあと遅くまで、ふたりで作戦会議をしたのだった。
テーマはもちろん、クマさんから話を聞き出す方法について。
先生は大きなリュックを背負っていた。夕方、イトコ島へ渡る船が出るので、それに乗って東京に帰るという。例のことも忘れてないぞ、と先生はふたりにささやいた。
「イルミナー祭り」の最終日は、ビーチに作られた舞台に島の人たちがてんでにのぼって、歌ったり踊ったりする無秩序で楽しい大さわぎだった。屋台にはたくさんの人だかりがし、子どもは口のまわりをベトベトにして串に刺したあぶり肉にかぶりつき、大人は大きな仮小屋の下でぬるくなったビールをちびちび飲んでいる。
先生が桟橋のほうを指さした。そこには、大きめのカヌーのようなカラフルな船が横付けされていた。船は十人も乗ればいっぱいになるほどで、船体は目がさめるような黄色と黒のうずまき模様にペイントされていた。
「――何百年も前、イルミナー祭りが始まったころ、これとまったくおなじ船がもう一艘あった。そして、新しいしめ縄がかけられたあとで、二艘の船がテンシバルのシンボルを、それぞれ時計回りと反時計回りに進みながら酒を注ぎ、海の神に感謝をささげた」
吉田先生がそう話すのをトキオとリカはおどろいて見上げた。なに、下宿先のおばさんから教わったのさと先生は種明かしをした。
船が一艘だけになってしまったせいかどうかはわからないが、今はもうこの行事は行われていない。その代わり体験乗船ができる。今日は絶好のお天気になり、涼しくて気持ちよい風が吹き海も穏やかだ。桟橋には上船を待つ三十人ほどの行列ができていた。
「三人で乗ってみるか?」
トキオとリカは顔を見合わせた。もちろん乗りたい。だがそれはヒミコとの約束を破ることにはならないだろうか。
「おかあさんのことなら心配いらない。許可はもらってある」
「えっ! ほんと!?」
「相上さんが今日の海はおだやかだからぜったい大丈夫とおっしゃってさ」
「わあ! 先生、すごいや」
それから三人は行列の最後尾についた。係の人が一人一人にオレンジ色の救命胴衣を手わたす。きのう神谷青年が立っていた浮き台が桟橋に付けられていて、三人はゆれる浮き台から危なっかしく小舟に乗りうつった。
先頭にいる麦わら帽子をかぶった案内役のおじさんが、乗船客に櫂の扱いかたを即興で教える。海に出たらおじさんのかけ声にあわせて、みんなで櫂を動かすのだ。
舟はおだやかな海をすべるようにテンシバルのシンボルに近づいていく。きのう、あれほど青年を苦しめた荒波は影をひそめ、青い海がきらきら光っている。シンボルのすぐ近くに来ると、案内役が陶製の酒器を取りだし、まねごとではありますがいまから清めの酒を注ぎますと叫んだ。吉田先生はあわててポケットからカメラを取りだしてカシャカシャとシャッターを押した。
「トキオくん、みて」リカがトキオの耳元で大きな声を出す。二人の頭上まで伸びているシンボル葉は、よくみるとかすかに発光し、緑色の葉にまじって、ピンクや茶色や青色のものもある。
吉田先生がふたりに気づいた。
「どうした?」
「先生、あれを見てください」
トキオが上を指さす。リカが続ける。
「葉っぱが光っているんです」
「そうかぁ?」先生は目の上に手をかざし、眼を細めて見上げた。「まぶしくてよくわからないな」
「先生、写真を撮っておいてもらえますか」
「お、よし。まかせろ」
そのとき、船の後ろに乗っていた方の案内役が舵を操り、船はテンシバルのシンボルをゆっくり廻りはじめた。このまえ司馬と来たときは、シンボルの向こう側までは行っていない。
トキオもリカもカヌーのへりを両手でしっかり掴み、シンボルをできるだけ近くで見ようと身を乗り出した。真新しいしめ縄がかかっているほかは、特にかわったことはないようだ。トキオはいますぐ海に飛びこんで、テンシバルのシンボルが立っているといわれる陸地をさがしてみたい衝動にかられた。リカも同じ気持ちだろうかと隣をみる。リカは真剣なまなざしで海面に目をこらしていた。
案内役のおじさんが船をとめてのんびりした調子で解説する。
「このあたりは潮の流れが読めないところでね。わしら漁師も、イルミナーの祭りのとき以外は、めったに近寄ったりしないところなのさ。今日みたいなおだやかなのはめずらしいよ。お客さんたち運がいいね。あ、ほれ、そこのおじょうちゃん。だめさあ。そんなことしたら落ちるよ!」
おじょうちゃんと呼ばれたリカは、船のへりからほぼ半身をのりだして、必死に腕を伸ばしている。気づいた吉田先生が懸命にリカの身体をつかんで引き戻した。まっ黒に日焼けした案内人は口をあんぐりあけて絶句し、それから人のよさそうな顔にせいいっぱいのこわい顔を作った。
「気をつけてくださいよ。言ったでしょう。ここらの海は怖いんだ。そこのお連れのかた、しっかりみててもらわんと困ります。海を甘く見たら神様からしっぺ返しがくるよ」
ほかの客もみなリカのほうをふりかえって見ていた。吉田先生は「たいへん申しわけございませんでした!」と大声で頭をさげ、リカにも頭をさげさせた。
舟が桟橋に戻ると、待ちくたびれていたつぎの客たちがすぐに乗り込んだ。案内人のおじさんも交代になった。
先生はリカとトキオをつれて、急ぎ足でおじさんのあとを追い、あらためて謝罪した。おじさんは日焼けした顔にまっ白な歯をみせた。
「いや、きつく言ってこっちもわるかったさ。けどさ、ここらでは何人か行方不明になったりしたもんだからね。わしらも、すこうしばかり神経をとがらせてるってわけさ。さっきも言ったとおり、こんなおだやかな日はめずらしいさ。今年は三年ぶりに船を出せたんだ」
「ごめんなさい。あんまり青くてきれいな海だったから、ちょっとさわってみたくなったの。ご迷惑をかけるつもりじゃなかったんです。ほんとうに申しわけありませんでした」
リカがしおらしく言った。おじさんの頬が一気にゆるんだ。なにかたくらんでるな、とトキオは思った。
「――あの、おじさん、さっきおっしゃった行方不明者のことなんですけど。できれば、もうすこし教えてもらえませんか。じつは私たち、夏休みの共同研究で島の歴史を調べているんです」
案内人はびっくりした。トキオもリカの大胆な発言に驚いて、おじさんの反応をうかがった。おじさんは人のよさそうな顔に今度は疑いの色をはっきりとうかべてリカを見た。リカはおもいっきり無邪気な顔で見返した。が、案内人のおじさんは不愉快な思い出をふり払うように首をふり、そういうことはわからないさと言ってずんずんと歩いていってしまった。
もう吉田先生の乗る船の時間がせまっていた。三人は急いで通りに出てバスに乗った。船着き場までの間、リカはずっとだまりこくっていた。トキオは島の小学校に来るまえに通っていた東京の学校のことなど、とりとめのない話を先生とした。そのうち、トキオはいつのまにか眠ってしまった。