失踪宣言
14
リカと約束はしたものの、トキオにはうまくいく自信がまったくなかった。これはかなり神経をつかう仕事だ。祖父のことを知りたいといえば、ヒミコはなぜと訊くに決まっている。そうしたら論文をみつけたことを言わざるを得ない。隠しごとはすぐ見やぶられるから。そのとき、母はどんな反応を示すだろう。
母には何か言いたくないことがあるに違いないとトキオは考えていた。それはおそらくトキオの父と祖父に関することだろう。
うちは秘密ばっかりだ――トキオはため息をついた。
母は東京にいたころと違って今はすごく元気だ。それをこわすようなことはできれば言いたくない。トキオは吉舎永悟の論文なんて見つけなければよかったとさえ思えてきた。
帰るとヒミコは夕食を作っていた。
キッチンのテーブルの上には、ステンレスのボウルいっぱいのこまかく刻んだキャベツの山。そしてひき肉の大きなパックが三つ。――ということは、トキオの好物のメンチカツだ。
ヒミコのメンチカツはキャベツの割合が多くて軽い。トキオは五個はペロリと平らげる。ヒミコはいつも三十個作って風吹亭に届けることにしていた。
よし、とトキオは腕まくりをした。作業しながら切りだす方がいいだろう。
トキオはヒミコと背中合わせになって、テーブルの上に小麦粉、卵、それに生パン粉の準備をした。ヒミコがだ円形に型をつけたネタをステンレスのバットに並べていく。トキオがそれに衣をつける。テンポよく作業がはじまったころ、トキオはできるだけさり気なく切りだした。
「あのさ、おじいちゃんってかなりの歴史好きだったんだよね。だからママにヒミコってつけたんだよね」
「うん? そうだよ。それがどうしたの」ヒミコは手を止めずに答える。
「いま、リカちゃんと島の歴史をしらべててさ。それでさ――」トキオは言いよどんだ。郷土史全集のことをどうやって切りだせばいいだろう。「おじいちゃんはどんな研究をしてたのかな、なんて」
「へえ。トキオもそんなことを知りたくなったんだ」
「そりゃ知りたいよ。だっておじいちゃんのこと、ぼくは何にも知らないんだよ。ママはあまり話してくれなかったからさ。ぼくさ、ほんとうはいろいろ知りたいんだ。おじいちゃんのこと」
トキオは非難めいた口調にならないように気をつけながら、それでも熱心に言った。ヒミコはそれからたっぷり三つ分、黙ってひき肉をまるめた。
「――トキオの言うとおりだね。よし、話してあげる。ええとね、まず、おじいちゃんは大学の先生だった」
「えっ! そうだったの!」
トキオは勝手に、単なる郷土史好きのおじいさんを想像していた。考えてみれば、しろうとだったら、論文なんて書かないか。けど、あの本に大学の先生だなんて書いてあったかな。
「ビックリした? 大学教授。その世界ではわりと有名だったんだよ。テレビなんかにも出たりしてさ」
「すごい」
「日本の古代史が専門でね。旧家の倉から古文書がでたなんて連絡がはいると、すっ飛んでいって何日も解読に没頭してさ。そういうときは幸せそうだったな」
「へええ!」
「だけどね――」ヒミコはキャベツとひき肉を力をこめて混ぜた。「途中からおかしな方向に行っちゃったんだよね」
「おかしなって?」
「行方不明になった歴史上の人物の研究をはじめたの」
トキオはどきりとした。行方不明の人の研究? それはまさにあの論文のことではないか。トキオはできるだけ無邪気に言った。
「すごくおもしろそうだね」
「そう? うん。たしかに一般人にはおもしろいテーマだったかもしれないわね。さいしょは偶然からはじめたらしいけど、だんだんのめり込んじゃってさ。そうなるともう、学問の世界じゃ変わり者扱い。それまでの研究もみんな色めがねでみられたりして」
そういうものなのか――。けど、これでつながってきた。吉舎永悟の研究テーマには、テンシバルビーチで起きた事件や海底洞窟の秘密はぴったりだったにちがいない。トキオは知らないうちに手をとめて考えこんでいた。
「で――」気がつくと、ヒミコはメンチカツの生地がついた手をペーパーでぬぐい、トキオを正面からじっと見つめていた。「いったいあなたたち、なにを見つけたの?」
トキオは首をすくめた。やっぱり気づかれた! こうなったら小細工はやめるにかぎる。
トキオは、リカと共同研究をするうちに、図書室にあった郷土史全集で吉舎永悟の論文をみつけたことを白状した。そこにどんなことが書かれていたかも。ただし、〔帰還者〕のひとりがクマさんかもしれないと思っていることや、リカといっしょに海底洞窟の秘密を探ろうと考えていることは言わないでおいた。
ヒミコは驚いたようだった。郷土史全集の論文のことは全く知らなかったのだ。
「へえ――活字になっていたなんてね。あれはおそらくおじいちゃんが最後に書いていたものなの。未完成だとばかり思ってた。たぶん、亡くなったあとで出版されたんだね。わたし、あれ以来、だれとも付き合いをしないでいたから」
「あれ以来っておじいちゃんが亡くなってからってこと?」
「トキオにもちゃんと話さなくちゃいけないね。いつかそうしようとは思っていたけど、今がそのときみたい。じゃあ、ともかく、すわりましょ。メンチカツは後まわし」
トキオは手を洗い、パン粉や卵やバットなんかをわきに寄せてテーブルについた。ヒミコも作りかけの生地を冷蔵庫にしまい、トキオの向かいにすわった。
「どこから話そうかな。まずさいしょに、トキオのおじいちゃん、吉舎永悟は、十三年前にこの島で亡くなったんだよ」
トキオは息をのんだ。
「ううん。正確に言えば、この島で消えてしまったの」
「消えた?」
「テンシバルビーチ。あの桟橋。覚えてるでしょ。いまから十三年前、あの桟橋の端っこに帽子とルーペとショルダーバッグだけが残ってて父の姿はなかった。そして、高校を卒業したばかりの私はそれを父のものだと確認するために、東京から独りでここまで来たんだ。私がたった一人の家族だったから。母はとっくに亡くなっていたからね。島の人も熱心に捜してくれてさ。林の中も海も、島中どこもかしこも。だけど、手がかりはぜんぜんなかった。テンシバルの桟橋から足を滑らせたのか、あの海底洞窟に呑みこまれたのか……。ともかく父は、こつぜんと消えてしまった。あのころ、新聞にも大きく出たし、大学の研究者仲間や、付き合いのほとんどなかった親戚なんかも、一人残された私のことを気遣って、助けになろうとしてくれたのよ。だけど私は、父があんなばかな研究なんか始めなければこんな事にならなかったのにって――そういう思いがすごくあったから、父にすごく腹を立てていたわけ。それまで私も大学で考古学を勉強したいという夢があったんだ。意外でしょ? 猛然と勉強してた、父がいなくなるまでは。だけどね――」
ヒミコは顎を手で支え、暗くなり始めた窓の外を見た。
「あの事故いらい、父の研究とか、自分の勉強とか、何もかも意味がないと思っちゃった。要するにグレちゃったわけ。それに――」ヒミコは眼を上げてトキオを見つめた。そしてかすかに頭をふった。「しばらくのあいだ、父は行方不明という扱いだった。だけど、七年後に失踪宣言が確定したんだ」
「しっそうせんげん?」
「失踪宣言が出ると、その人は亡くなったということになるんだよね。私はぜんぜん納得できなかったけど」
「それじゃ、ママはおじいちゃんはまだどこかで生きていると思ってるの?」
トキオは熱心にささやいた。ヒミコは「フフ」と笑い、うでをのばしてトキオの頭をクシャクシャと撫でた。
「じつは私もずっとそんな期待をしてたんだ。でもさ、トキオとここで暮らし始めたら、この島のどこかの海に吉舎永悟は眠っているんだなぁって、そう思えるようになってきちゃった」