クマさんは誰なのか
13
クマさんに話を聴きにいくことについて、リカとトキオはさんざん悩んだ。なにしろ、あのクマさんだ。海で流された話などもちだしたらどんな反応が返ってくるか――。
実は今朝、リカはクマさんが風吹亭に炭を持ってきた場面に遭遇した。トキオが話してた通りのっそりした熊みたいな人が大きな炭俵を背負って裏庭に立っていたのである。
クマさんはやがて菜園のそばにムシロをしいて炭をひろげ、相上と値段の相談をはじめた。相上のほうはいつもの穏やかな調子だったが、クマさんはムスッとして相上を血走った目でにらんでいた。
ついにクマさんはいきおいよく立ち上がった。「だめだ。納得できねえ!」すごみのある声だった。「そんな値じゃ、こっちからお断りだ」
「だけどさ、クマさん、今日のはいつもとは出来がぜんぜんちがうじゃないか。あんただってわかってるだろ。どうした? またアレが来たんじゃないのかい」
クマさんはそれを無視して猛然と炭を片づけはじめた。
ナスとピーマンを収穫しに来たリカは、この一部始終を見てしまったのだ。ふと顔を上げると、菜園のむこうからヒミコがそっと手招きしていた。リカは急ぎ足で渡り廊下を抜け風吹亭の裏口に駆け込んだ。みんなそこで息をひそめていた。
「炭の良し悪しなんて、私にはよくわからないんだけどね、今日のはあんまり良くないないみたいなの」ヒミコがひそひそ声で説明した。「ときどきそういうことがあるみたい。炭焼きの仕事は、天候とか釜の具合とか、ちょっとした火のかげんとか、いろんなことを直感的に判断しなくちゃいけないむずかしい職人技なんだって。普通ならボスはちゃんと良い値段をつけるのよ。まあそれはともかく、このあとクマさんは食事していくからね。いい? 粗相のないように気をつけてよ。とくにフミヤ君。あなたはホールには出ない方がいいわ」
フミヤがゴクリとツバを飲みこむ音が聞こえた。
「わたし、やっぱり気が進まないわ」
クマさんが一言も発しないままランチを食べて帰っていった日の午後、リカはトキオと学校の図書室にいて、共同研究ノートを前にひろげていた。ノートのわきには、郷土史全集第七巻があり、吉舎永悟の『回路としての海底洞窟』のページが開かれている。
ノートにはこう書かれている。
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《調査項目》
1 郷土史全集を読む →第七巻まで完了 →重要項目をもういちど整理すること
2 〔帰還者〕への聞き取り →クマさんのところに行く
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「さきに3番をやったらどうかしら」リカが言った。
「3番なんてないよ」
「だから、それを今から考えるのよ。クマさんのところに行く前にやれることがまだあるはずよ。わたし、今はとてもクマさんに話を聞かせてくださいなんて頼む勇気がない。トキオくんはできる?」
「――」
「ね?」
せっかくホールに出ずにおとなしくしていたフミヤは、クマさんが帰るときに店の外で正面衝突してしまい、またしてもクマさんからどなりつけられたのだ。
二人とも、クマさんがもし〔帰還者〕だとしたら、海底洞窟の秘密を知る重要な証人だということは否定しない。いつかは会いに行かざるをえない、たぶん。
「じゃ、さきに何をする? ぼくはなんにも思いつかないや」
「うーん。ちょっと待ってね。考えるから。――あ、ていうか、わたしたち、まだクマさんのほんとの名前をしらなかったじゃない。まずそれを調べないと」
「うん。そうだった。あの論文にでてきた証人のうちのどれがクマさんかな」
「そうよ。そうよ。それが先だわ。なんで思いつかなかったのかしら。そして、クマさんがどんな話をしていたかをもう一度確認するの。それに、ほかの〔帰還者〕もまだこの島に住んでいるかもしれない。そしたら、その人に話を聞きにいけるわよ」
リカは手を打った。ひょっとしたらクマさんのところに行くまでもなく、情報が手にはいるかもしれないではないか。
そこで二人は『回路としての海底洞窟』の註を全部ていねいに読み直した。そして、吉舎永悟が聞き取りをした人物の名前や住所をノートに書きうつした。証言をしていたのは全部で四人だった。決して多いとはいえない。そのうえ、このうちの一人はすでに亡くなっていた。あとの三人も健在かどうかはわからない。が、おそらく、このなかの一人がクマさんのはずだった。
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共同研究ノートの記録
2 〔帰還者〕への聞き取り →クマさんのところに行く
①肥後 保
職業:漁師。一九七二年帰還(二三歳)。一九七七年五月聞き取り(調査時二八歳)。一九七八年くも膜下出血により二九歳で死去。別の世界で人間ではない生物に出会ったと証言。調査時の住所:**県**郡***。
②平田 五朗
職業:漁師。一九七三年帰還(二五歳)。一九八〇年七月聞き取り(調査時三二歳)。帰還後は漁師を廃業。まったく異なった世界にいたと証言。住所:**県**郡***。
③北村 栄一
職業:フリーアナウンサー。一九七三年帰還(五六歳)。一九八五年八月長野にて聞き取り(調査時六八歳)。東京から客として現れ、平田五朗の漁船で釣りに出たまま消え、半年後に平田とともに帰還。帰還後は長野県に移り住む。平田の証言と食い違う点が多い。アルコール依存症。住所:長野県**郡**村。
④大城 浩一
職業:漁師。一九七四年帰還(二〇歳)。一九八六年十二月聞き取り(調査時三二歳)。帰還後は漁師を廃業。はじめ、なにも覚えていないと言ったが、しだいに証言を始める。しかしその内容は二転三転した。再度の調査が必要。住所:**県**郡***。
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「肥後保さんは亡くなってるし、三番の人はあきらかにちがうわ」リカはくっきりと切れ上がった目を上げた。
「うん、年齢がぜんぜんあわないよ。一九七三年に五六歳だったら今は――。ええと、とにかくすごいおじいさんだ」
「八五よ」リカがさらりといった。「この北村栄一さんは、調査をしたころに重度のアルコール依存症だったのよね。てことは、もう亡くなっている可能性が高いと思う。どっちにしても、長野県じゃ会いに行けない」
「アルコール依存症ってどんな病気?」
「よくはわからないけど、お酒を飲まないではいられないってことだと思う。自分の意志では飲むか飲まないかのコントロールできない状態よ」
「――北村さんは帰ってからそうなっちゃったのかな。てことは、飲まないではいられないほどの体験をしたのかも」
「トキオくん。あなた、そういうところの洞察力がすごい」リカの眼が光った。「きっとそうよ。ほら、このひとたち、みんな還ってきてから仕事を辞めちゃってるでしょ。あっちでの体験がそうさせたのかも」
「うん。そうだね。クマさんはどっちかな。ふたりとも住所はこの島だよ。二番だったら五四歳。四番だったら四八歳でしょ。クマさんもこれくらいの歳じゃないかな」
トキオはがんばって計算した。
「大人の年齢ってすごく分かりにくいのよね。どっちもありそう。それにこの住所、ふたつともクマさんのところとはちがうんじゃない? たしか、クマさんは山の上に住んでいるのよね」
たしかにそうだった。けれど、住所は三十年前のものだから、引っ越した可能性は大いにある。クマさんは還ってきてから炭焼き職人になったのだし。
いきなりトキオが大きな声をだした。
「そうだ! 思い出した。蜂巣さんのおばあちゃんが言ってたんだ。うちのせがれと同級だったって。よくいっしょに遊んでたって」
リカは頷いた。
「わかった。じゃ、わたしが、蜂巣さんのところでそれとなく聞きだしてくる。ちょうどボスに頼まれたことがあるから。まかせて」
「うん。そうしたらクマさんがだれなのかわかる。そしたら、残りの一人もわかる。まずはその人に会いに行こうよ」
「ええ。そうしましょ! 本格的な調査って感じね」
リカは何となくワクワクしてきた。生身の人間に会いに行くなんてドキドキする。
トキオは『回路としての海底洞窟』をもう一度ぱらぱらめくり、めざすページを指さした。
「ここに『これら〔帰還者〕の出現時期に、いちじるしい偏りが見られる点も今後考察すべきであろう』ってあるよね。四人の〔帰還者〕はみんな一九七二年から七四年にかたまってる。もしかしたらいなくなった時期はもっと近いかもしれない」
「わたしも気がついた。そのころ、何か特別な事件がテンシバルビーチで起きていたのじゃないかしら。トキオくん、それも調査項目に加えておいてね」
トキオはノートに「3 一九七三年前後の事件を調べる」と書いた。リカはそれをのぞきこんで満足し、前から不思議に思っていたことを口にした。
「トキオくん、吉舎永悟さんの論文てこれだけかしら。学者ならもっといろいろ書いていると思わない? すくなくとも、研究ノートとかメモとかはあったはずよ。トキオくん、おじいさんのことでもっと知ってることはないの?」
トキオは首を振った。ヒミコが話したがらないせいで、家族については何も知らないに等しいのだ。
リカは、ヒミコさんからもっと話を聞き出してと訴えた。
「わかった。やってみる」トキオはしぶしぶ答えた。