回路としての海底洞窟
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郷土史全集を調べはじめて三日目に、トキオが大発見をした。なんと全集の著者のひとりに祖父、吉舎永悟の名前をみつけたのだ。
物心ついてから、トキオが覚えているのはヒミコと二人きりの生活だった。父親はもちろん親戚にも会ったことがない。はっきり言われたわけではなかったが、トキオは父親のことは亡くなったと思うことにしていた。ただし、「きみはいつかきっとすごい美人になる」という例のセリフの人物はたぶん父ではない。
トキオはヒミコの父親、つまり祖父の吉舎永悟についてもほとんど知らなかった。
「私の名前はあの邪馬台国の卑弥呼から付けられたの。昔はコンプレックスだったよ。けど、いまはいい名前かもしれないと思う。なんせ、日本の女帝だもんね。それにさ、歴史好きの父としては、やっぱりそうしたかったんだろうね。欲を言えば、もう少しだけひねってくれてもよかったけどさ」
以前、ヒミコはそんなふうに話したことがあった。祖父の話が出たのは初めてだったから、トキオはよく覚えている。そして歴史好きが高じて娘に日本史上いちばん有名な女性の名をつけてしまった吉舎永悟という人を想像してみた。
「あ、それでぼくが時生なの?」
「価値あるものは時を超えて生き続けるっていうのが、歴史家吉舎永悟の口ぐせだったからね」
トキオはそれまで自分の家族のことは口にしたことがなかったが、祖父の名前をみつけた興奮でいつもの抑制がふっとんで、リカに話してしまった。リカはこの大発見に飛びあがった。
「へえ! そうなんだ。トキオくんのおじいさんって歴史家だったの。すてきね。時生って名前にもそんな意味があったなんてね。どうりでトキオくん歴史にくわしいわけだわ」
この日、二人が取りかかったのは、全集のさいご、第七巻だった。第六巻まではたいした発見がなかった。
第一巻は島の古代史を扱ったもので、ひとつわかったのは、三世紀くらいにはもうテンシバルのシンボルが神の宿る場として敬われていたこと。そのころは、今のような大きな樹はなくて、小さい陸地がみえていたことだ。
そのあとの巻では、シンボルにまつわるお祭りや、流れの速い海をシンボルまで泳いで渡り、樹にしめ縄を張りめぐらせるために毎年若者が選ばれることなどが出てきた。けれども、海底洞窟や司馬が話してくれたようなおかしな生き物のことはいっさいみつけられなかった。
リカが準備した赤色の付せんは一枚も使われず、トキオの新しいノートも最初のページしか埋まっていない。
そして今日、トキオが第七巻目の目次に「海底洞窟」の文字を発見したのだった。この郷土史全集は、何人かの歴史家たちの共著という形になっていて、一つの項目を一人の著者が担当している。トキオはリカに教えられたとおり、まず著者名を書き留めようとして、吉舎永悟の名前を見つけたのだ。
同姓同名の可能性はきわめて低い。なぜなら「吉舎」という名字がとてもめずらしいのをトキオは知っていた。前の小学校にいたときの担任のことばがよみがえった。
「吉舎というのはめったにない名字だよ、たしか、昔そんな名前の学者がいたと思うけどな。ひょっとしてトキオくんの親戚かな」
そのときは、吉舎永悟が歴史家だなんて知らなかったから気にとめなかったが、いま、こうやって目の前にしてみると、これはまぎれもなく祖父が書いたものだとトキオは確信した。
吉舎永悟の論文のタイトルは、『回路としての海底洞窟』という意味ありげなものだった。書かれたのは一九八八年。トキオが生まれる二年前だ。どういうわけか、郷土史全集の編さんは一九六〇年にいったん終了したのち、第七巻だけが三〇年近くたった一九八九年につけ加えられたようだ。ありがたいことに旧漢字はもう使われていない。
「回路ってどういうことだと思う?」
トキオに頭をくっつけるようにして本をのぞきこんでいたリカがささやいた。
「うん」トキオはゴクリとツバを飲み込んだ。ついに捜しているものに近づいたのだろうか。「期待できそうだね。けど、読んでみなくちゃわからないよ」
「もちろんよ。ね、これ、私たちにとってはすごく意味深なタイトルよね。だって、あのとき、司馬さんが、海底洞窟の奥に空気がある話をしていたでしょ。あれは、海底洞窟の迷路を抜けると、空気のあるところ、つまり、陸地に出るってことじゃないかと思うの。私は最初からそう思ってた。つまり海底洞窟は回路なのよ!」
「リカちゃん、読んでみなくちゃ」トキオはしんぼう強くくり返した。「それに、そんなSFみたいな話じゃないかもしれないからさ。あんまり期待しすぎないほうがいいと思うよ」
「もう、トキオくん、どうしてそんなに冷静でいられるの? これこそ、私たちが探していたものにちがいないわ! それに書いたのはトキオくんのおじいさんなのよ」
「わかってるよ。でも、ともかく、ちゃんと読んでみようよ」
本当はトキオもすごく期待していたのだ。でも、同時になにかたいへんな秘密に近づこうとしているようで怖くもあった。
「わかった。じゃ、これはトキオくんが先に読んで。トキオくんのおじいさんの書いたものなんだから、先に読む権利があるわ。そうだわ、この本、今日借りていきなさいよ。ヒミコさんもきっと喜ぶわよ」
リカがこっちに押し出した本を手に取るのを、トキオはためらった。リカが最大限の自制心を発揮してトキオに本をゆずってくれた気持ちはわかる。けれど、トキオは別のことを考えていた。
――母がいままで祖父の話をあまりしたがらなかったのなぜだろう。海底洞窟についての論文があることを知らなかったのだろうか。もし、知っていたとしたら、テンシバルの海底洞窟の話題が出たときに話してくれたってよかったはずだ。
テンシバルや海底洞窟の秘密をさぐることが、こんなかたちで自分に返ってくるとは思ってもいなかった。母がいつになく神経質になっていたのはこのためだったのだろうか。今日、帰ったら吉舎永悟の論文をみつけたことを言うべきだろうか。いや、言わないほうがいいのかもしれない。どうしてかわからないけど母は傷つくような気がする……。
「貸し出し禁止の本だよ」トキオはやっと言った。
「あら、でも、図書の先生はいいっておっしゃったじゃない。どうせ、だれも読む人がいないんだからかまわないわよって」
「そうだけど、いいんだ」
「そうなの?」
「うん。ここで読む。その方がいいんだ」
リカはトキオがかたくなに言いはるのを見た。
「わかったわ。ここで読みましょう。なんか、びっくりよね。私なら、おじいさんの書いた論文をみつけたりしたら自慢しちゃうけどね。けど、考えてみたら、この論文のタイトルはちょっと問題。だって、海底洞窟のことを調べてるのがヒミコさんにばれちゃうもの。やっぱりここでふたりで読むのがいいわ」そしてつけくわえた。「わたし、このことヒミコさんには言わないからね」
吉舎永悟の論文は、郷土史全集に載っているほかの人の書いたものとはだいぶちがっていた。まず、学者が使いそうな難しい表現がほとんどなかった。まるで、今日、トキオが読むのを予期していたかのように。吉舎永悟は書き手としてかなりの才能をもっていたにちがいなく、文章は生き生きと取材対象の人物の体験談を伝えていた。そのおかげで年若い二人にもまるで冒険小説のようにすらすら読み進むことができたのだ。
吉舎永悟は『回路としての海底洞窟』の結論の部分で次のように書いていた。
***
海底洞窟を進むと空気のある場所に出るとの言い伝えが島には古くから存在した。最初にそれらしき事が記録されたのは一二世紀である。(ここで吉舎永悟は注釈を入れ、島の神社にのこる古い文献の名前を示していた。おなじように、論文にはいちいちその根拠となる史料や、話を聞いた人物の名と住所、年月日が記してあった)。
ただし、空気のある場所というのが具体的に何を示すかは不明なままである。
自分は十年以上にわたり季節を変えてこの島を訪れ、あたう限りの文献資料や生き証人たち(私はこれを〔帰還者〕と呼ぶことにする)の記録を集めてきた。そして、古来、この海底洞窟の「回路」を通って、空気のある場所に至った者が存在した可能性が高いとの結論に達した。
別個に聞き取り調査した人々の話や、異なる時代と場所で記された史料に、奇妙に一致する点があることも注目に値する。
ただし、空気のある場所に行った(と推測される)まま、二度と戻らなかった者たちが圧倒的多数であって、〔帰還者〕から収集した証拠の絶対数も少ないため、現段階ではいかなる断定も避けなければならない。また、これら〔帰還者〕の出現時期に、いちじるしい偏りが見られる点も、今後考察すべきであろう。
このようなことをこの種の論文で述べることには躊躇いを禁じ得ないが、私見を申せば、これらの往来者は何らかの強い力――意志といいかえてもよい――により別世界に運ばれたとの印象がぬぐいきれない。
なぜなら〔帰還者〕たちはいずれも、自らの意図とは無関係に海底洞窟に引き込まれたからである。さらにかれらに共通してみられる特徴は、〔帰還〕後にそれ以前の性格を消失し、あたかも全くの別人になったかのようにその後の人生を無気力に送ったことである。
いずれにせよ、今後の研究において不可欠なのは、海底洞窟そのものの調査である。これについては、準備が整いしだい、実施するつもりである。
***
いつのまにか長い夏の陽がかたむき、図書室の窓が燃えるように赤かった。
ふたりとも、さいごの部分が気になった。それから? 吉舎永悟は海底洞窟の調査をしたのだろうか。
第七巻に収録されていた論文は、吉舎永悟のものをふくめてわずか三本だけであり、ほかの研究者が書いたものに、海底洞窟や吉舎の意見に触れたものはなかった。というより、全七巻の郷土史全集のなかで、吉舎永悟の論文だけが異彩を放っていた。
「リカちゃん」トキオはゆっくり言った。「だれかのことを思い出さない?」
リカは切れ長の眼を大きく見ひらいてトキオをまじまじと見た。やがてその目におどろきの色が浮かんだ。
「クマさん?」リカが喘ぐように言った。
トキオは論文のページをもういちど指でたどった。
"それ以前の性格を消失し、あたかも全くの別人になったかのようにその後の人生を無気力に送ったことである”
トキオは声に出して読んだ。
「そうだよ。クマさんは〔帰還者〕なんだ」