離島のオアシス風吹亭
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十五年間、ヒミコを生かしてきたのは、あるひとつのことばだった。
どうしてそんなものがひとりの人間を支えることができたのか、正直いってトキオには理解できない。けど、理解できないのはトキオがまだガキだからかもしれない。
真っ暗な海の上を、木の葉のような頼りない小舟で漂っているように感じられる夜、ヒミコはトキオを引きよせて昔語りをする。
"きみはいつかきっとすごい美人になる"
トキオはこう思う。どっかの頭悪そうなやつが言いそうなセリフだ。薄っぺらいしありきたり過ぎる。
そもそも、三十近い男が十六歳の女の子を相手に言ったのだ。ああキモチワルイ。なのに、そんなやつの言葉を大事にかかえて十五年も生きてきたなんて、母もそうとうおめでたい。母のなかに成長していないみたいなところがあるのはこのせいじゃないかと、十二歳のトキオは、しばし、じっくり考える。
しかし、ある種のことばは、それを発した人の意図をはるかに超えて力を持つ。よしんばそれが誤解であったとしても。
だから、これだけはトキオも認めないわけにはいかない。そのおかげでいま、トキオもヒミコもこうして生きている。
***
トキオが学校から戻ると、キッチンテーブルの上に皮をむいたタマネギと皮をむきかけのジャガイモがころがり、その傍らでヒミコが空をみつめて考えこんでいた。
おととい、お店に入ったフミヤくん。ゆうべ何かあったらしい。かれが早くお店になじむよう気を配るのがヒミコの役目なのだ。
トキオはカバンを奥の和室に放り込み、石鹸でていねいに手を洗ってくると、残りのジャガイモの皮をむき、まだ宙をにらんでいるヒミコに目をやった。ヒミコはカレーになるとなぜかニンジンを三本もいれる。三本は多すぎると抗議しても取りあわない。ニンジンとリンゴさえ食べていれば人は健康を維持できるというのがヒミコの持論なのだ。
トキオは冷蔵庫からニンジンを一本出してピーラーで剥き、ヒミコに背を向けて急いで乱切りにした。ついでにタマネギとジャガイモも刻んでしまった。
それからもういちど冷蔵庫をのぞいて、豚肉を探した。ヒミコのカレーに入っているのは、ひらひらのうすい豚肉だ。はじめて給食で角切り肉が入ったカレーを見たときは内心ちょっとびびった。
「おかえり。そこのビニール袋を出して」
ヒミコがやっとこっちの世界にもどってきた。ニンジンの量が少ないことには気づかないようだ。ついでに今日が一学期の終業式だってことも忘れているにちがいない。でなきゃ、通知表をだしなさいと言うに決まっているから。
トキオは冷蔵庫からチャック付きの袋を探しだした。クリーム色の液体の中に骨付きの肉が沈んでいる。
「何の肉かわかる?」
「鶏?」
「あたり」
「これは? 牛乳?」トキオは目の高さに袋を持ち上げ、グニャグニャと揉んでみた。
「ヨーグルトだよ」
「へえ」
「ヨーグルトとカレーパウダーとニンニクとリンゴ。それにコリアンダーにターメリックにガラムマサラ。あとは……忘れた。オイルも入ってる。こうやってしばらく漬けておくと肉が柔らかくなって、インドっぽい味になるらしいんだよね」
「ボス?」
「まあね」
トキオはボスの相上を尊敬している。相上は島のレストラン「風吹亭」のオーナーで、母のヒミコはそこで働いているのだ。
風吹亭は朝の六時から開いている。相上はまず港で仕入れをする。ビールケースを運び、店の掃除やトイレ掃除も自分でする。「店長」とか「マスター」とか「社長」と呼ぶ人もいるが、本人は「相上さんて呼んでよ」と言う。けどあるとき、ヒミコが「ボス」と言い出したのをきっかけに、いまではみんなが「ボス」と呼ぶようになった。
島はいちおう観光地ということになっている。
周囲はトキオでさえ息をのむ珊瑚礁の海で、一部のダイバーたちに秘境といわれている。ただひとつ困ったことに、島には強い風が吹く。とくに秋の終わりから冬にかけては風の渦が島をすっぽり覆い、島に近づくことも出て行くこともできなくなる。だからこの島でダイビングするのは、そうとうな上級者でないと危険なのだ。
そのおかげでちょうどいい人数の、しかも上等のお客さんがくるんだ、うまくできてるだろ? ボスはトキオに胸を張る。
それでもシーズンになれば、どこからか湧いてきたように観光客が現れる。かれらは素晴らしいビーチのほかは小さな港とおんぼろホテルしかない島にとまどい、やがて風吹亭をみつけてホッとしたように入ってくる。
風吹亭ではメニューは決まっていない。
いい魚があれば刺身定食になるし、新しい卵が手に入ったときは、フレンチトーストが出てくる。島の養蜂家がつくった蜂蜜をかけ、フルーツを山盛りに添えたモーニングはすごく豪華だ。コーヒーもおいしい。
ボスはお客さんが今まさに食べたいものをピタリと出してくれる天才だとトキオはひそかに思っている。
客はときどき、目の前に並べられた料理をみて涙ぐむ。トキオは子どもだけれど、その気持ちがなんとなくわかる。
風吹亭のいちばんのおすすめは魚料理だ。刺身の盛りつけは芸術的だし、もし客が天ぷらが食べたいなぁとつぶやけば、相上はどこの料亭にも負けない見事な衣をまとったものを出す。季節はずれに雑煮が食べたくなった人が現れても相上はちっとも慌てない。焼き網を取り出して平然と餅を焼き始める。東京から来た鶴みたいにやせ細ったおじいさんが、こんなうまい蕎麦を食べたのは何十年ぶりだよと感激して帰っていったこともあった。
島の人も、ランチに来たり、仕事のあいまに顔を出してボスと雑談したりする。コーヒーカップを手に風の吹くテラスで何時間も本を読んでいる人もいる。
いま風吹亭で働いているのは四人。
おとといまでは「元」暴走族で「現」ミュージシャン兼バーテンダーの司馬ちゃんと、楓子ちゃんという無愛想だけどとびきり美しい女の子と、トキオの母ヒミコの三人だった。そこにおとといの晩、おずおずと店のドアを開けて入ってきたのがフミヤなのだ。
実はフミヤはその日の朝の六時にも来てモーニングを食べていった。
焼き鮭、だし巻き卵、いんげんのおひたし、切り干し大根、野菜の炊き合わせ、大根とニンジンのぬか漬け、わかめと豆腐の味噌汁という栄養たっぷりの定食をきれいに食べおえたあと、フミヤはながいことじっとうつむいていた。ヒミコはそんな彼をそっとしておいた。風吹亭では珍しい風景ではないからだ。
夜になってフミヤが再び姿を見せた。赤い電灯に照らされた店内には葉巻の煙がただよい、司馬ちゃんの三線にあわせて、いつものように島の人たちが両手を揺らしながらほろ酔い気分で踊っていた。
相上はカウンターの奥からフミヤをすばやくみつけて手を上げた。相上にはかれがなぜ来たのかわかっていた。なぜって、風吹亭のトイレにはこんな貼り紙がしてあるのだ。
『ワケあり人大歓迎! いっしょに働きまんか。