6話
瞳を閉じて、思考を空っぽにする。
もうなにも考えたくはない。
大人しく全てを受け入れて、楽になればいい。
ただただその時が訪れるのを待っていた最中。
淀んだ部屋の中に、小さな風が吹いた。
「ねぇ、起きて?」
「め、メリア? なんで君がこんな場所に……。」
一瞬、幻を見ているのではと思った。
しかし目の前にいるのは、紛れもなく婚約者のメリアだった。
魔術師ではないメリアには実験室を訪れる理由はないはずだ。
それ以前に、メリアには実験室に入る権限がない。
それなのに、なぜがこの場所に居るのか。
突然の出来事に思わず困惑するが、すぐにその理由をメリアが語った。
「ゼノック様にお願いして、特別に入れてもらったの。会えるのは今日が最後だって聞いたから」
「そっか。ごめん、メリア。君を散々待たせておいて、こんな形で終わるなんて」
一年間で父の魔法を継承すると啖呵を切っておきながら、結局なこんな最悪の形で終わってしまった。
婚約者であるメリアが落胆するのも無理はない。
そう思っていたが、メリアは小さく首を横に振った。
「べつに貴方を責める気はないのよ」
「で、でも僕は約束を守れなかった……。」
「いいの」
「アルハートの名前も、失ってしまうと思う」
「それも知ってる」
「それでも、会いに来てくれたんだね」
「えぇ、もちろん」
小さなころからの思い出が蘇る。
将来を期待されていなかった僕は、家の繋がりを持つための道具としてメリアを宛がわれた。
お互いに不安があったはずだ。それなのにメリアは母を亡くした直後の僕を勇気づけ、元気づけてくれた。
持ち前の温かい明るさには、ずっと助けられてきた。
あの継承を強いられた日々を耐えられたのも、メリアのお陰だと言ってもいい。
彼女の為ならば、どれだけでも頑張れたのだ。
そして彼女は今も、僕を待ってくれている。
「そっか。君は……君だけは、僕を待っていてくれたんだね。メリア」
「待ってる? いえ、別に待ってないわ。元婚約者として、別れの挨拶を告げに来ただけよ?」
時間が、止まった気がした。
メリアの言葉を理解するのに、少なくない時間を要していた。
困惑する思考の中で、どうにか言語化できたのは月並みな言葉だった。
「なにを……いって……。」
「聞いてない? 私ね、ゼノック様と結婚することになったのよ? アルタリオが勉強で忙しい間、ゼノック様は私をすごく可愛がってくれたの。その間にね、アルタリオよりゼノック様の方が好きになっちゃった。ゼノック様も私の家に掛け合ってくれて、アルハート家の次期党首様と結婚するならって、私の親も凄く喜んでくれたの! 私も本当に好きな人と結婚できるし、みんな幸せになるの。これってとっても素敵な事だと思わない?」
メリアの話は、確かに耳に入ってきていた。
しかしそれを認める事ができずにいた。
発せられる言葉の意味を理解する前に、矢継ぎ早にメリアが続ける。
「そうだ。今日ここに来たのはね、これを返しに来たの」
「これ、は……。」
「もうゼノック様から新しいのを貰ったから、これはもういらないの。だからね、返すわ」
小さな金属音と共に、細かな装飾が地面に散らばった。
それは僕がメリアに初めて送った、髪飾りだった。
お互いに打ち解けあって初めて送り合った、思い出の品だ。
受け取ったメリアが涙を目にして喜んでいる姿は、美しい思い出として鮮明に残っている。
しかしそのメリアは、なんの躊躇いも無く髪飾りをボクの足元に投げてよこした。
装飾が外れて地面に散らばっても、メリアは何の反応も示さない。
目の前にいる人物が、この髪飾りを送ったメリアと同じだという事を、どうしても受け入れられなかった。
「僕を嫌いになったなら、そう言えばいいだろ」
「嫌いになった? 最初から貴方のことが好きだなんて、一度も言った覚えはないけど。私達は親同士が決めた相手なのに、まさか私の好意を本気にしてたの? あんなの、アルハート家に媚びを売るための演技だったのに」
「もう十分だろ! さっさと出ていってくれよ!」
「でも感謝していることもあるのよ? アルタリオが無能だったお陰で、私は本当に好きな人と結婚できるようになったの」
目の前にいる存在が、酷く恐ろしく思えた。
ダーゲストやゼノックとはまた違う性質の恐ろしさだ。
母を失った孤独や過酷な訓練を乗り越えられたのは、メリアのお陰だった。
それなのに、笑顔も笑い声も、全てまやかしだったのだ。
そしてその事に関して、メリア自身はなにも感じていない。
その証拠にメリアは純粋無垢な微笑みを浮かべて、部屋をくるくると周る。
「楽しみだわ! ゼノック様と結婚すれば私は当主の第一夫人なの。本当に好きになった人と、幸せな家庭を築くなんて、これ以上幸せなことは無いわ。貴方みたいにつまらなくて才能もない相手に、必死に愛嬌を振りまき続けた甲斐があったみたい」
「……。」
「それじゃあね、アルタリオ。これまでの事はもう忘れてね。私もすぐに貴方のことは忘れるから」
言いたいだけ言い残し、メリアは嵐の様に去っていく。
残されたのは、床に散らばった髪飾り。
そして打ち砕かれた過去の思い出だけだった。
◆
気が付けば、小さな窓から見える空が白み始めていた。
半地下にある実験室の気温は低く、ゼノックの水魔法が残る室内は、身を割くほどの冷気に包まれていた。
思い返せば、母が亡くなった日も、こんな冷え込む日だったと覚えている。
快活だった母が目に見えて弱っていく様を見て、えも言えぬもどかしさに襲われていた。
自分になにかできることはないか。自分はなぜ何もできないのだろうか。
なぜ、こんな広い屋敷に住んでいるのに誰も助けてくれないのか。
幼い自分には理解できない事ばかりで、しかしそれがある意味で救いでもあった。
最後まで母は笑っていたが、それが精一杯の強がりだったと今なら理解できる。
それ以来、自分の置かれた境遇を理解し、少しでもアルハート家の人間として相応しいふるまいを使用と決めた。
魔法の才能があるかもしれないと分かったとき、母の評価を覆せるのではないかと期待した。
しかし結局は、無駄だった。
母が唯一残してくれたこの家での居場所さえ、失ってしまったのだから。
「いや、そうか」
魔法だ。魔法さえ使えれば、全ては変わっていたのだ。
僕が……アルハート家に相応しい魔法を使えていたら。
いや、違う。
そうではない。
そうではないだろう。
なにを勘違いしている。
なぜ母が死んだのか。
なぜ僕がこうなったのか。
その原因は全て、魔法にある。
魔法にあるが、問題はそこではない。
問題は魔法を操る、魔術師にあるのだ。
暖かな火を灯す魔法が、人を焼き殺すように。
田畑を潤す水の魔法が、人に苦痛を与える凶器となるように。
魔法が悪なのではない。
魔法を使う魔術師が悪なのだ。
魔術師という存在が魔法を使い、不条理を生み出しているに過ぎない。
「そんな奴らに、殺されてたまるか」
魔法を使えば救えた命があった。
手の内から零れてしまった大切な命が。
目の前で力なく笑って、失われた命が。
変えなければならない。
この世界の不条理を消し去るには、この世界の理を変革しなければならない。
ならばこんな場所で、クソったれな魔術師の実験台になっている暇などない。
殺されている暇など、何処にもないのだ。
足元に転がるのは、かつての思い出の残骸。
幸せの象徴だった、髪飾り。
それをゆっくりと拾い上げ、鍵穴へとねじ込む。
過去を捨て、今を捨て、未来を切り開く。
だがまずは、生き延びる事が先決だった。