75:モネの事情
フランシスコがリッチーを倒した後、剣士の里に辿り着く前のこと。
「アイギス。アイギス」
聖女の居住する聖花園、その花園で優雅に紅茶を楽しんでいたが、不意に聖女モネは自らの守護騎士、アイギスの名を呼んだ。
そのモネの美しくも愛らしい様子に頬を緩め、アイギスは問い返した。
「どうしました?モネ様」
「あなた寝取られって概念知ってますか?」
アイギスはモネの想定外の言葉に一瞬思考停止するも、強靭な精神力で不自然な間を作らずに返答することができた。
「なんですか。その邪悪な響きのする言葉は。」
アイギスの敬愛する主はまれに突飛な事を言う。アイギスは寝取られの意味を知っていたが、敢えて知らないフリをした。
「今、ふとその言葉が浮かんだんです。なにかの啓示かもしれません。」
「それは…、きっとろくでもない事でしょうね。」
アイギスは呆れ顔にならぬよう努めて笑顔で返事を返す。
「というわけで剣士の里へ向かいますよ!」
モネは守護騎士の内心も知らず、唐突な我儘を口にした。
「何が、というわけ、ですか!?」
「フランシスコが寝取られないように剣士の里に向かいます!直接、私自らの手で止めます!」
「モネ様。まさかとは思っていましたが、そこまであの男のことを…。」
まさかそこまであの男のことを思っていたとは。
アイギスは自らの主を心から敬愛している。複雑な心境だが、乙女の純情な感情は尊重したい。
「私、前々から修羅場というものを経験してみたかったのです。」
純愛とは趣の異なる理由にアイギスは考えることをやめた。
所詮、自分のような守護騎士風情に神の恩寵あらたかな聖女様の思考を理解することなど不可能だったのだ。
とりあえず現実的な問題点を提示する。
「そうはいっても、流石に聖女様がここを離れるのは…。このような情勢ですし。」
先の豊穣祭の聖堂襲撃により民心が荒廃している。安んじるのは聖女にしかできない勤めだった。
「影武者を置いていけばいいのです。なんのために影武者がいるとおもっているのですか!」
「少なくとも寝取られを阻止するためではないと思いますが。」
聖女にしか出来ない勤めだが、ぶっちゃけ聖女の肩書きさえあれば、あとは高台のうえから微笑みとともに、民衆に手を振り、神の祝福のあらんことを祈るだけのお仕事だ。影武者でなんら問題はない。
「枢機卿方のお許しが得られるでしょうか。」
「許しなど必要ありませんよ。枢機卿方も今の情勢で私の機嫌を損ねることは避けたいはずです。正面切って許可を求めれば 拒否されるでしょうが、問題さえ起こさなければ勝手にやってくれというのが彼らの本心です。問題が起きたときの責任は当然追求されますが、今の情勢で私にどんな罰を下せるというのでしょう。それに、フランシスコが報告してきた純神体なる新たな神聖術の可能性についても確認しなければなりませんし、迷宮の聖域化には私も一枚噛んでいます。結果を直接聞きに行く権利が私にはあります。」
フランシスコは四大魔のうち二人の討伐。神話級の闇の眷属、リッチーの討滅。迷宮の聖域化。そして純神体という技の発明という多くの偉業を成し遂げた。
ヴァジュラ魔像が破壊され、ヴァジュラ魔教徒の力が更に強まったことを差し引いてもなお大きな成果だ。
しかし、純神体については新たな力の使い方として期待が寄せられたものの再現できる者がおらず、教会上層部としてももどかしい想いを抱えていた。ヴァジュラマ教徒の力が強まっている今、アスワン教徒の強化は最優先事項だ。
とはいえ、わざわざその報告を聖女が聞きに行く必要はないと思われるが…。
「最終的には私の恩寵が剣士の里に行くよう示したとでも言えば誰も文句は言えませんよ。」
「神の授けられた恩寵で嘘をつくのは…。」
「神の寵愛を受けている私の勘が、どうして恩寵や神の啓示じゃないと言い切れましょうか!断じて嘘ではありません。」
ああ言えばこういう。口の減らないモネにアイギスは別の問題点を指摘する。
「剣士の里まで距離がありますよ。」
「こんなこともあろうかと準備していたものがあります。」
聖女は得意げに豊かな胸を張った。その様子も可憐だったが、アイギスには素直にその様子を愛でることはできなかった。
とある裕福な港湾都市の教会。その教会には風を操る恩寵を持つレミスが配属されている。
レミスは新大陸に行き、任務を達成して帰って来てから変わった。
レミスはフランシスコに出会って考えを改めたのだ。改心したともいう。
ただ、それが周囲にとって良い結果になるとは限らない。
改心とは、悪かったことを悟って心を改めることだ。
レミスに取って悪かったことはもっとわがまま出来たのにしなかったこと。心を改めて、自分をどうにかできる権力者が現れるまでもっと心のまま行動するよう心を改めたのだ。
今まではなんだかんだ、多少は上司の言うことも聞いていた。しかし今はまるで歯牙にもかけていない。
レミスがいる教会の神官程度の権限ではレミスをどうこうすることなどできないことに気づいたのだ。そして自身の代わりになる者がいないことにも。
その考えはフランシスコの生き様が教えてくれた。
「レミス。いい加減にしなさい。」
「なんですか?海岸の聖女と呼ばれる私になにか言いたいことが?内容次第では心労で体調を崩してしまうかもしれません。」
風を操る恩寵を授かっているレミスには船乗り達から多くの依頼が来る。教会がそれを斡旋している。しかし、レミスはそれを断ってもいいんだぞと暗に言っているのだ。
体調を理由に断られてしまえば、慈悲深く敬虔な信徒である上司にはレミスに無理強いすることは出来ない。実に質の悪い女である。
昔は自身が聖女と呼ばれる等恐れ多く恥ずかしいことだと思っていた。しかし今は違う。
自身を彩る装飾品の一つだ。教会公認の聖女モネ・ルノワールと同じ称号で讃えられることに良心の呵責はもはやない。そもそも自称しているわけでもない。船乗りたちがいつしか勝手に呼び始めた称号だ。自身の仕事の成果だ。誰に文句を言われるものでもないはずだ。
力さえあれば多くのことが許される。
世の中は弱肉強食。強い者が偉いのだ。
強さの尺度は多岐に渡るが、現状においては富と能力だ。そしてレミスはそのどちらに置いてもこの教会の誰よりも秀でている。フランシスコを新大陸から連れ戻した功績もあり、上司、同僚はもはや口出しできない。
自身の価値を高めるため、商人の船に乗る仕事の頻度を下げ、そして乗船する際の値段を引き上げた。自由な時間と利益も増えている。
前にもまして傍若無人。
今も暇な時間を優雅にお菓子とお茶を飲んで過ごしている。勤勉清貧を旨とする教会の教えに真っ向から反しているといえる。
しかし、誰も文句が言えない。
フランシスコでも来ない限りレミスの天下は終わらない。
そう思っていた。
「レミスさんはおいでですか。」
教会の扉がギギギと音を立てて開かれた。
以前拝見したことがある。完璧な美貌。聖女モネ・ルノワール。
扉を開けた聖騎士アイギスも聖女の傍らに侍る。
聖女のようと呼ばれているとイキっていたら、本物の聖女が来てしまった。
「レミスさん。貴方にお仕事をお願いするために参りました。」
それはレミスの天下の終わりを告げる言葉だった。
「遠方までついて来ていただくことになりますが、引き受けていただけますか。」
聖女様の有無も言わさぬ迫力に、依頼内容もろくに確認せず、レミスは頷いた。
強者に従うのが世の理。
反抗など無意味とレミスは知っている。
レミスの所属している教会の上司・同僚はレミスが出ていくことに両手を上げて喜んだ。風紀を乱すやつがいなくなる。
そんな同僚たちの様子に少し腹が立ったが、自業自得である。それに聖女とお近づきになれるのだ。別に悪い話じゃない。
レミスはそう思った。しかし…。
「フランシスコの下へ向かいます。」
「うげっ」
聖女モネの告げた目的に不穏なものを感じる。
「それで、なぜ私をご指名なのでしょうか。」
レミスがモネに当然の疑問を口にする。
「レミスさんの恩寵を知ってからこんなものを作らせていました。帆のついた馬車、もしくは車輪のついた船。陸帆船といいます。」
車輪のついた流線型の箱に大きな帆が貼られている。レミスの場所までは別の馬車に牽引させてきた。
陸を風の推進力によって進む陸上船だ。風を操るレミスの力があれば馬車より早く移動することができる。
レミスは新たな発明品に驚き、そして自身の利用価値の上昇に喜んだ。だが今後聖女や重鎮のアッシーとして酷使される可能性に気づいて落ち込んだ。
表情をくるくると変えるレミスを無視して聖女は高らかに言った。
「これで向かいますよ。いざ剣士の里へ!」
かくしてモネは通常より大幅に速い速度で剣士の里にたどり着いた。そして情報収集を行い、フランシスコの居所を突き止めた。
宿の外にまで興奮したアーカード、ヴィクトリアとフランシスコ達の声がとぎれとぎれに聞こえてきていた。結婚についての話もだ。レミスを宿の外に置き去りにして、アイギスとともに宿に入る。
宿の主には宿代を大きく超える迷惑料を押し付け、衝動のままに、中に踏み入った。
「その結婚、待ったー!」
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