黒の大厄災
魔物や魔獣は人間を襲わない。
彼等達は人間の立ち入らない森の奥深くや静かな海に住み、通常人間の前には姿すら現さない。
しかし、今から300年前のある日、突如魔獣の大群が村や町を襲い始めた。
太陽は陰り、日中でも夜と変わらない闇が国中を覆いつくす中、多くの黒い魔獣達が残虐の限りを尽くしていった。
逃げ惑う人間や家畜を容赦無く食らい尽くす赤い目をした黒い獣達。
その突然の襲来に、人間達は成す術も無くただただ身を潜め、嵐が過ぎるのを待つ事しか出来なかった。
これは後に「黒の大厄災」と呼ばれる、この国の総人口を半分近くまで減らした厄災の始まりの日である。
この大厄災から国を救ったのは1人の魔術師だった。
混沌の中心である1匹の魔物を自らの力で封印し、国に安寧をもたらした。
彼の名はゲルド。
後に国から英雄の称号を賜る。
ゲルドは亡くなるまでに『黒の大厄災』を元にした1つの童話を書き残した。
『哀れな吸血鬼』
その物語は、彼の偉業と共に後世に語り継がれていくことになる。
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氷と雪に閉ざされた最果ての北の村。
吹雪の中、大きな荷物を担いで分厚いフードを被り、鼻と口を布で覆った1人の小柄な人物がこの村を訪れた。
名はダリア。
物心ついた時には孤児として王都の教会に住んでおり、14歳になったのをきっかけに薬師として生計を立てるべく独り立ちした。
そんなダリアが王都から遠く離れた極寒の北の大地であるこの村に訪れた理由。
それは、ここにしか咲かない貴重な薔薇を手に入れる為だった。
『青い薔薇』
一度その花弁を口に含めば、ありとあらゆる呪いや怪我、病を立ちどころに治す事が出来ると言われている。
童話にも登場するほど有名なその薔薇は、国中の老若男女誰もが知っているが、誰も見たことが無い『幻の花』と呼ばれていた。
過去、この国の王でさえもその薔薇欲しさに懸賞金を掛けたのたが、結局見つける事は出来なかったらしい。
旅の途中で薬草を摘み、調合した薬を売りながら路銀を稼ぐ。
王都を出発して2年余り。
ダリアはようやくお目当ての村まで辿り着いたのだった。
吹雪のせいか、外に出ている村人の姿は無い。
「珍しい、旅のもんかい?」
村の入口付近に建っている小屋の中から男の声がした。
門番だろう。
確かにこんな吹雪の中、外に立っては凍えてしまう。
少しすると、ガタガタという音と共に小屋の窓が10センチ程開き、人当りの良さそうな青年がその隙間から顔を見せた。
「はい。この村には宿はありますか?天候にもよりますが、一泊お願いしたいのですが」
ダリアは、久しぶりに出した声が想像以上に掠れている事に気付いた。
人と話すのは何日ぶりだろうか。
「ああ、この道をまっすぐ行った先に2階建ての赤いレンガの建物がある。そこがこの村唯一の宿だ」
「ありがとうございます」
ダリアは小さくお辞儀をしてから宿屋に向かって歩きだす。
吹雪のせいか、民家の窓は全て戸板で塞がれていた。
隣町、と言っても5日程離れた町で聞いた話によると、ここはムジ村と呼ばれており、人口100人にも満たない小さな集落らしい。
ダリアは幸運にもすぐに宿屋を見つけ、悴んで感覚の殆ど無い手で扉を開けた。
「こんにちは」
外とは比べものにならない温かな空気に包まれ、ほっと息を吐いたダリアは、入口に敷いてある藁でブーツの裏にこびり付いた雪を擦って落とし、肩に積もった雪を払った。
パチパチパチパチ
暖炉があるのだろう薪の弾ける音以外、シンと静まり返った室内。
「すみません」
ダリアは再び声を出すが、やはりどこからも返答が無く、辺りを見回しても人の気配が全くしない。
ダリアは辺りを見回した後、受付カウンターらしき所まで歩くと、置いてある鈴をちりんと鳴らした。
「ん~何だ~」
遠くで男性の声が聞こえる。
しばらくすると、カウンターの裏から立派な白い髭を蓄えた男性が眠そうな目を擦りながら出てきた。
彼はカウンター越しにダリアを見ると、
「ありゃ、珍しい。客かい!?」
驚いたように頭をかいた。
どうやら寝起きらしい。
「はい。一泊お願いしたいのですが、空いてますか?」
ダリアは丁寧な口調で宿の主人らしき男性に尋ねた。
「空いてるも何もすっからかんさ。どんな部屋でも泊まれるぜ」
その言葉にダリアはほっと安堵の息を漏らした。
「夕飯は5時から8時までだ、湯とタオルはその時に渡す」
「分かりました」
部屋の鍵を受け取りながらダリアは主人に尋ねた。
「おじさん、この村は人が少ないのか?」
天候のせいもあるだろうが、出歩いている村人をダリアは誰一人見ていない。
唯一会ったのは、門番の青年のみだ。
「お前さん、この辺りは初めてか?」
カウンターに片肘を付いてけ、だるそうにしていた店主はダリアをみて眉を潜めた。
「ああ、そうだが・・・」
「いいか、今日の夜は絶対に外には出るなよ、間違っても窓なんか開けるんじゃないぞ、何があってもだ」
宿の主人は小声でそう告げた。
「え?」
「今日は満月だ、あいつ等がやってくる」
「あいつら?」
「夜になれば分かるさ、子供は早く寝ちまうに限る」
そう言うと、店主はそそくさとカウンターの後ろに引っ込んでしまった。
「?」
ダリアは首を傾げながらも、一応助言は守ろうと思った。
郷に入っては郷に従えだ。
多くの土地を旅してきたダリアにとって、それは生き抜く知恵でもあった。
ダリアは宿の1階で早めの夕食を終えた後、湯を貰い、早々に2階の自室に引っ込んだ。
しっかりとドアに鍵を掛け、窓にカーテンを引くと、貰った湯に既に用意しておいた薬草を混ぜる。
ダリアは服を脱ぐと、湯に浸したタオルを軽く絞り体を拭いていく。
「はぁ~~~」
ここしばらく野宿が多かったダリアには最高のご褒美だ。
思わず口から長い息が漏れた。
暗くなってきた室内は、ランタンの明かりだけがダリアを照らしている。
フードの下に隠していた茶色い髪は腰まで長く、服を全て脱いだ体は柔らかな曲線を描いていた。
ダリアは16歳の女性であった。
しかし1人旅はとにかく危険だ。
それが女性なら尚の事。
そこでダリアは少年の格好をして旅をしているのだった。
ダリアは多少剣の心得がある。
彼女の育った孤児院のモットーは、『自分の身は自分で守れ』。
元冒険者だった神父は、子供達に男女分け隔てなく剣術を教えてくれた。
そのお陰で、多少危ない目に会いはしたが、何とかここまで旅を続けていられたのだ。
身体を拭き終わったダリアは、最後に湯の張った樽に足を浸ける。
思っていた以上に疲れている事に気付いたダリアは、しっかりと足裏をマッサージした後、手早く着替え、ベッドに横になり目を閉じた。
部屋で眠るのは5日ぶりだ。
たとえ魔物除けの薬草を持っていても、野宿生活が続くと精神的にまいる。
明日はラキア山脈に登らなければ。
ダリアはウトウトしながら明日の予定を考えていると、旅の疲れのせいか、あっという間に深い眠りに落ちて行った。