番外編6 私の作り出した幻1(カイル視点)
時系列的には初夜の前になります。
よろしくお願いします。
全てがゆっくりに見えた。
彼女がバランスを崩して後ろに倒れていくのを止めようと、私は必死に手を伸ばす。だが、伸ばした手は振り払われ、彼女は薄っすら笑ったように見えた。
私がそこまで彼女を追い詰めてしまったのか。
彼女は階段を転げるように落ちていき、床が血に染まった。徐々に顔色が悪くなる彼女に私は必死で呼びかける。
お願いだ、行かないでくれ、愛しているんだ。
──何を言っているの? 貴方のせいでしょう?
目を閉じたままの彼女がそう言って私を詰る。そして最後に告げる。
──もう手遅れよ。
「やめてくれー!」
私は叫ぶと同時に勢いよく身を起こした。激しい動悸が止まらない。
今のは夢だ。夢に違いない。そうわかっていても不安に駆られ、私はベッドから出ると、急いで隣室へ向かう。
ベッドに近づき、横になっている彼女を見る。閉じた目が夢と重なって私は彼女の呼吸を確かめる。規則的な呼吸音に安心し、ベッドに腰掛けた。
「ヴィー……」
彼女の髪に手を伸ばし、指で梳く。ふと彼女が身じろぎし、手を止めた。ゆっくりと目を開いた彼女に笑いかける。
「おはよう」
「……ん、あ、カイル、様……」
まだぼうっとしているのか、ヴィーは焦点の定まらない目で私を見ている。いつもはきりっとした彼女が今は幼く見えて可愛らしい。
身を屈めて彼女のおでこに口付ける。ぱちぱちと瞬きをして、ようやくヴィーは覚醒したようだ。
「……カイル様、どうしたのですか?」
目を擦りながらヴィーは身を起こした。
ああ、彼女は生きて動いている。私は安堵の息を漏らす。
彼女も夜会の夜の悪夢を見るように、私は自分の愚かさを思い知った日を、繰り返し夢に見るようになった。しかもタチが悪いのが、夢では彼女が二度と目を覚まさないのだ。
私はヴィーの脈動を確かめるように、彼女の顔に手を当てて滑らせる。細い首筋に指が触れ、規則的な動きを指先が感じ取った。
ヴィーはくすぐったいのか身を捩る。
そうして私の顔を心配そうに覗き込んできた。
「カイル様、顔色が悪いですよ。体調でも悪いのですか?」
「いや、大丈夫だよ。君の体調はどうだい?」
「私も大丈夫です。それ毎日聞きますよね。そんなに心配しなくても、もう私は元気ですよ」
ヴィーは苦笑している。
それでも私は確認せずにはいられなかった。一ヶ月も目を覚まさなかった彼女が、徐々に痩せ細っていく過程を目の当たりにしたのだ。あのまま彼女が命を落としていたら、私は悔やんでも悔やみきれなかった。
私はふと考えてしまった。
あのままだと私は人殺しになるところだった。だからこそ彼女が生きていることに安堵しているのではないか、と。
愛する彼女が生き延びたことだけでなく、私は自分の罪が軽くなったことにほっとしているのだ。私はなんて汚い人間なんだろうか。
こんな私を知れば彼女は軽蔑するに違いない。私は彼女に自分の本心を隠すことにした。醜い自分の保身のために。そうして私は罪悪感から目を逸らしたのだった。
◇
しばらくは穏やかな日々が続いていたように思う。いや、こう言うと語弊がある。
相変わらずヴィーは心的外傷に苦しんでいた。悪夢を見て魘されたり、男を怖がったり、夜会に出席する時はいつも緊張していることを私は知っている。
それでも私に泣き言を言わず、侯爵夫人として毅然と立っている。
それに比べて私はどうなのか。
侯爵ということで未だにすり寄ってくる女性は少なくない。既婚者で子どもがいるとしても、それでもいいとさえ言う始末。
彼女たちがあの日のルイーザと重なって吐き気がした。私はどうしてあんな見え透いた媚びが見抜けなかったのだろうか。今は会話さえする気も起きない。それでも社交の一環だと割り切らなくてはならないのだ。
そしてそんな彼女たちに囲まれる私を見て、ヴィーはまた心を痛めるのだ。自分は綺麗ではないからと。
そんな訳がない。傷を負っても尚、立ち上がる彼女は美しい。私はそんな彼女だからこそ惹かれたのだ。
反対に、汚い心を隠してヴィーに愛を囁く自分の方が醜く、彼女に相応しくないように思う。
最近ではそんな私の心が悪夢を見せ続けているのかもしれないとさえ思うようになった。
徐々に私の眠りは浅くなり、精神的に疲弊していった。
そんな日が続いていたからだろうか。
彼女が階段を降りているのを見て、私はそれが夢か現実かわからなくなっていたようだ。またあの日を繰り返しているのだと思い、私の顔から血の気が引いた。思わず、階段の下から彼女の名前を呼んだ。
「ヴィー!」
そして彼女は階段の途中で止まった。
頭の中を走馬灯のようにあの日の出来事が駆け巡る。こうして私が呼び止めたからヴィーは落ちた──。
「……駄目だ。私はまた繰り返すのか……」
目の前の彼女があの日の彼女と重なる。そうして笑いながら落ちるのだ。
違う。笑っていたのは夢の彼女だ。現実の彼女はどうだった──?
夢と現実が交錯して私はその場に立ち竦んでしまった。
だが、目の前のヴィーは階段を駆け下りると私の元へやってきた。
「カイル様、顔色が良くないですよ。どうしたのですか?」
「……君が、また落ちるんじゃないかと……」
頭が働かないせいで、自分が何を言っているかもわからなかった。
「……本当に大丈夫ですか? 目の下の隈も酷くなっていますし。あまり眠れていないのですか?」
「……それは君の方だろう……」
話していると目眩がして、ふらついた私をヴィーが支えてくれた。
「休んだ方がいいです。話はその後で聞きますから」
そうして私はヴィーに支えられながら寝室へ向かった。
読んでいただき、ありがとうございました。