零話
2019/09/27 本日初投稿です。
更新ペースはゆっくり目で当面は50部10万文字を目標に進めさせていただきます。
放課後の教室という誰しも一度は妄想の舞台にするであろうシチュエーションに、自然と心臓の鼓動が早まるのを感じた。しかし、それは想像していたものとは大きく異なり、改めて自分の置かれている立場を認識したところで額から頬へと流れる汗を肩口で無造作に拭った。
目の前にいる人物が、片手で弄ぶようにチキチキと先端を出し入れする鈍色のそれを、現実から逃避するように少し客観的に見つめる。
「――ねえ、徹くん。どうしてその女と一緒にいるの?」
少女は、表情だけはにこやかにそう問いかけてきた。
「――あら、なにか臭わないかしら? まるで頭に蛆の湧いた人でもいるみたい。 ねえ、徹?」
「と、とりあえず、それ一旦仕舞おう」
「おかしいな。私、徹くんに質問したつもりなんだけれど、お返事もらってないよね」
虚ろな瞳の少女は教室に入ってきた時と変わらない姿勢で入口に立ち、いつ取り出しかわからないカッターナイフを片手に淡々と話しかけてくる。
「わ、わかった! 実は――」
うっかりと最後の授業で寝てしまい、放課後の教室で一人取り残されていたと思っていたが隣の席に座っていたクラスメイトの少女はどうやら俺が起きるのを待っていてくれたらしかった。
あとは帰宅するだけなのだが、一緒に帰りたかったらしい隣の席の少女と少し談笑していたところに彼女がやって来たのだ。
理由を問われ、大したことのない経緯のはずが何故か弁明のように説明している間、彼女はやや首を傾げたまま瞬きもせずにこちらを見つめていた。
「……そう。確かに徹くん、最近忙しそうだったものね。 でも授業中に居眠りは感心しないなあ」
ひとまず納得してくれたのか、気がつけば手に持っていたものは無くなっており、普段通りの雰囲気で話をする彼女に少し安心してしまった。
「ごめんごめん、次からは気をつけるよ委員長」
そう口にしてから失言だったと気が付くまでは一瞬だった。微笑んだ表情のまま固まった少女は、薄めていた瞳をすっと開く。
コツコツとゆったりと歩き始め、手を伸ばせば届く距離で彼女は立ち止まった。
身長差で見下ろすようになってはいるが、吸い込まれそうな程に真っ黒な双眸に射抜かれて思わず体が硬直する。
「……どうして」
さして大きくもない、ぼそりと少女の口から零れた言葉は静かな教室によく響いた。
「どうして、いつもみたいに私の名前を呼んでくれないの? 徹くんはみんなとは違うよね? ねえ、どうして?」
人が何にこだわりを持ちどんなものを大切に思うか、それは人それぞれ異なるものだ。俺にとってもそうであるように、もちろん彼女にもそういった何かは存在する。彼女にとっては俺が彼女の名前を呼んであげることがとても大事なようだった。
出会った頃はそんなふうではなかったはずなのだが、気がついた頃には名前で呼ばれないと機嫌を損ねてしまうことがしばしばあった。
「悪い、恵。面と向かってはまだ少し照れくさいんだ。大目に見てくれないか?」
苦し紛れに誤魔化してみたものの、少々旗色が悪い。この程度の方弁では許してはくれないだろうと思った。
「――もおっ! そんなこと言われたら怒れないじゃない! 徹くんって意外と照れ屋さんだったんだね」
ところが、どうやら大丈夫だったらしい。あからさまに態度が急変し、先程までの息苦しい圧迫感が嘘のように消え去っていた。
しかし、忘れてはならない。この場にはもう一人いるのだ。彼女は一連のやり取りの間、不気味と言っては失礼だがそれほど静かに待っていた。
口を挟むことなく隣の席に佇み、横目でちらりと表情を伺っただけでは全く読めない少女に恐れを抱く。
ふと、目が合うとにこりと微笑んでからようやく口を開いた。しかし表情に反して、目は全く笑っていない。
「茶番は終わったのかしら? それなら早く帰るわよ、徹」
茶番、確かに他から見たら一連のやり取りは痴話喧嘩のような、まるで茶番のようだったのだろう。
だが、その実態は内心ヒヤヒヤしながら背筋を伝う汗と、全身を襲う寒気を抱えての綱渡りなのだ。これを茶番と一言でまとめて欲しくはなかった。なかったのだが、そうと言い返せないのは目の前の少女が明らかに不機嫌だったからだ。
片方を立てればもう片方が、これではまるでシーソーのようだ。
「せっかく明日の休日は天気が良ければデートに行く予定なのだから、無駄なことに時間を費やさずに早く帰って体を休めてちょうだい。」
そう、彼女が放課後まで待っていたのは一緒に帰りたかったのと、明日の予定を聞きたかったかららしい。特に予定は無いと告げると、集合場所と時間を告げてきた彼女に返答をした覚えはない。何故ならその前に『恵』が来てしまったからだ。デートだったのはたった今知ったところである。
「ねえ、徹くん、どういうこと?」
あ、と思った時には既に遅かった。
「あら、まだいたの? あなたはもう帰っていいわよ」
「琴葉には聞いてない」
「聞こえなかったかしら? 目障りだから消えてと言ったのだけれど」
こうなってしまっては手が付けられない。彼女たちに対して一対一であれば対処可能であっても、それが二人になってしまっては対応しきれない。
いくらなんでもそんな修羅場をいくつもこなしてきた訳では無いのだ。普通の男子生徒には荷が重すぎた。
彼女たちが実力行使にさえ映らなければ、当人同士の口論に任せようと割り切ることにした。
時間を見ようとスマートフォンを取り出し、授業中に電源を切ったままだったことに気がつく。
彼女たちを見守りながらスマホの電源を入れると、通知が雪崩のように画面を占領し、鳴り止まない通知音が教室に響く。
さすがに驚いたらしい彼女達は、共に動きを止めてこちらを伺っている。
嫌な予感がしてチャットアプリを起動すると、そこには百件近いメッセージが同じ人物から送られてきていた。
「「……誰からの連絡?」」
いつの間にやら真後ろに立ち、左右同時に問いかけられる。ここに来て初めての二対一だ。ライバル同士の共闘は少年漫画であれば熱狂するが、倒される悪役はきっと今の俺と同じ心境なのだろう。
結局この日、情けなくも弁明を重ね、それぞれとデートの約束を取り付けることで今回は不問となった俺が帰宅出来たのは夜の8時を過ぎた頃だった。
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