従僕70
出会った頃のお嬢様は、怖い怖いと直ぐに泣きだしそうになる娘だった。
「あわれ山賊は、次々に首をハネられ倒れていきます」
「うう……こあい」
「飛び出した矢が頬を掠め、血が赤い線となって残ります」
「ぐすっ、こあい」
「妖精さんは微笑みました」
「こあい」
待て。
ちょっとは我慢しろよ。今のどこが怖かったんだよ。
そんなことを考えたのも、一回や百回では足りない程だ。
その度になんとかお嬢様が泣かないようにと物語を作り変えた。なんせ泣き腫らした赤い目のまま帰せば賜る栄誉に響くというのだから。
従順な奴隷としては当然だ。
努力の結果としては――泣く回数に変化は見られなかったが。
そもそも何故泣いたのかもわからないのだ。お嬢様の独特な感性は従僕にはわからない。
それでも懲りずに物語を聞きたがるのだからお嬢様の将来は大物で間違いないだろう、なんて考えていた。だからいつしか従僕のことなんて忘れてくれる、と願っていた。
しかし食事時に祈りを欠かさないジュレールの願いさえ叶えてくれないのだ。祈り歴が浅い俺のことなんて神様は塵芥程度にしか思っていないのだろう。知ってた。
なにせ奴隷なのだから。
その後も、物語が怖いと泣きそうになり、赤い服が怖いと泣きそうになり、雲の形が怖いと泣きそうになり、空が落ちてきそうで怖いと泣きそうになり、お母様が怖いと泣きそうになり、メイドが怖いと泣きそうになり、木の影になっているところが怖いと泣きそうになり、お前の方が怖いわ! と思ったことも数知れず。
賜る栄誉も数知れず。
オーケーわかった。
奴隷流でいくことにしよう。
文字通り身が持たない。
簡単なのは殴りつけて「次に怖がったら、また殴る。いいな?」と言うことだ。しかしこれをやったら最後、首が飛ぶ。
なので別のやり方にした。
いつもの時間、いつもの場所で。
物語に出てくる悪魔が怖いと言うお嬢様に、従僕は畏まる。
「大丈夫でございます、お嬢様」
「……だいじょーぶ?」
「はいお嬢様」
「なんで?」
「もし現実に悪魔が出てこようものなら、従僕が退治してしまいます」
タタルクとかいう名の。
だから怖くても我慢してくれませんか?
するとお嬢様は、よくわかってなさそうな顔でキョトンとした。
「……まくま、へーき?」
「なんてことありません」
間奏でも入れときゃいいんですよ。幕間。
「どあごんは?」
「片手でいけます」
扉にぶつかった時の効果音だろうか。
「マオーも!」
「話になりません」
お嬢様、魔王お嫌いですからね。物語に入れられないという意味で。
「すごーい! すごい、じゅーぼく! じゅーぼくだ!」
ははは。その通りですとも。従僕……数いる従僕達がですよ。個人じゃなく。
実際に、皆だったらなんとかするんじゃないかと思える部分もある。魔王? それは勿論、話にならないだろう。
つまり嘘じゃない。
騙しているだけで。
クルクルと回っていたお嬢様が、地面から覗いていた木の根に踵を引っかけて尻餅をついた。驚いた表情でこちらを見上げてくる。
「あくまの……ノロイ?」
どちらかといえばお前がトロい。
「じゅーぼく、へーきっていってたのになあ……」
言ってない。いや、言ったか……?
しかしお嬢様がご自身で転ぶのまで注意を払えるわけがない。もし気付いたとしても奴隷の身でどうしろと?
グスッと泣き出しそうになるお嬢様に、このままでは上手くいきかけていた口車が失敗してしまうと、つい言葉を続けてしまった。
蛇足ってやつだ。
「大丈夫ございます、お嬢様」
「……?」
「お嬢様に、もし万が一、いや億に一つの危険が迫った時は」
「きは?」
「従僕が盾になりますので」
「……じゅーぼくが?」
その時近くにいる。
「従僕が」
これにお嬢様は泣くことを止めて首を傾げていた。でもいま? あれえ? といった具合に。しばらくして結論が出たのか、力強く頷いた。
「わかた。じゅーぼくがいるから、こあくない。わかた」
おお! ありがとうございます!
そんなやりとりをした後のお嬢様は――――相変わらず怖い怖いとグズり感情のままに泣き従僕の自由時間に物語をせがんだ。騙された従僕の方が鞭に慣れるという結果に落ち着いてしまった。
しかし何も変化がなかったわけではない。
この後のお嬢様は、少し危ないことも平気でやるようになった。
川に流されたり木に登ったり塀から落ちたり。
奴隷小屋を襲撃したり。
更に、行動的になったというだけで。
このことから俺は学んだのだ。
お嬢様に余計な企みをしても、無駄なんだ、と。
巡りめくって自分に返ってくる、と。
ああ、なのに……。
光が落ちてくる。
恐らくは自らを焼いてなお余りある光。
その範囲はこの草原を埋め尽くさんばかりで、そこに飛び出してきたお嬢様も焼いてしまうだろう。
既に魔術は放たれた。
ここからの解除など出来ないだろう。
光が落ちてくる。
酷くゆっくり。
ここから何かできるとは思えない。
本当になんで来たのだろうか。
わざわざ秘密裏に進めていたというのに。
こちらの努力を無にするのが得意なんだから。
光が落ちてくる。
それは破滅をもたらす光。
だというのに……。
お嬢様の表情は『あ、従僕いた』と言わんばかりの普通のものだ。
いつもの、あの茂みを抜けてくる時のものだ。
まるで自分には危険が及ばないと思っているような、どうにかしろと無茶を突きつけてくる時のような。
わかった、わかったよ。
約束したもんな。
近くにいる従僕は、俺だ。
なら約束通り。
この身を盾に。
指、動かない。足、動かない。体、動かない。
全身の細胞が動くことを拒否している。絞り出せる力が無いと言っている。
だからなんだというのか。
体が疲れてようと傷ついてようと動かなかろうと、命令されれば働くのが奴隷なのだ。
血の一滴、肉の一片であろうと主の物なのだ。
だから心で思うのだ。
この、くそ餓鬼め……! と。
体の中に存在する力を足へと送る。
一瞬でいい。一回でいい。あそこまで飛び出して、この身を盾に光を防ぐ。止まってしまった時が徐々に動き始めようとしているのがわかる。集中力が途切れそうなのだ。でもダメだ。まだ足りない。そもそも足を震わせるだけで終わりそうな気さえする。
それじゃダメだ。
もっと速く動く必要がある。
この止まった時の中で動けるほどに。
焦りが集中を乱し、意識が現実へと回帰する。
クリアになった視界には、少し嬉しそうなお嬢様が。
もはやこれは呪いだろう。
まくまのノロイだ。
諦めかけていた意識を研ぎ澄まし体の中を探る。命だろうと魂だろうと代償にしてかまわないので、目の前の悪魔から逃れられないだろうかと。
ふと、体の中心に、僅かに零れ落ちる小さな力に気づく。
本当に僅かだ。
一滴にも満たない、体に溶けて消えていく力が。
しかし奥に眠るその量は……。
拡げろ、と意識した途端に理性が騒ぐ。
本能が拒絶する前に、音が戻ってきた。
何かを考える前に、意識の中にあった小さな小さな穴を無理やり拡げた。
轟音が耳をついた。




