従僕63
ずっと昔から根付いてたものがある。
俺が、奴隷だということ。
それは上に平民、貴族という位が存在すると知ってからも変わりなく。
俺を形作っていた。
奴隷が世界の中心で、奴隷が世界そのものだった。
目に映る全てが『誰か』のために働いていて、それが普通で当たり前な世界だった。だから『誰か』を思い描いたことがなかった。
必要がなかったから。
神様と同じようなものだ。いるとされていても会うことがなく、言葉を交わしたとて理解が及ばない。そんなモノを詳しく知りたいと思わなかった。想像に浮かぶ姿は光の塊のようなものだったり、人の姿をしていても細部はボヤけていたり。
いつからかただの『言葉』として捉えていた。
朝のお祈りを欠かしたことはないが、それだけだ。
信心が足りない、自分でもそう思う。
しかし『誰か』には、やがて色がついた。
色がついて、声がついて、輪郭がついて、性別までついた。
知識として知っている『誰か』は旦那様で貴族様で、生涯関わることのない遥か上に住まう神様だった。
今も覚えている。
茂みの向こうから現れた『誰か』を。
奴隷というのは。
『誰か』の所有物で『誰か』の命令を聞いて『誰か』のために働く。それでいい。それが普通。それが当たり前。毎日ひたすら働いて、仲間から知識を得て、命を満たす。与えられた仕事、与えられた食事、与えられた自由。それに不満はない。
『不満』なんて存在しなかった。『誰か』が現れるまでは。
初めて感じた理不尽に、初めて感じた疲労。
心からくるものに、こんなにも体が影響されるのだと知ったのはいつからか。
こんくそ餓鬼め、なんて何回思ったことか。
大体だ。大体、初めて得る感情というのはお嬢様から始まる。
その度に、眉をひそめて同じ奴隷仲間に相談したことを覚えている。
仕方ないことだと、相手は貴族だからと、我慢するしかないのだと、受け入れるのが定めなのだと、何度となく言われた。
そうなのか、と納得と疑問を繰り返した。
やがて形作られる貴族は当然ながらお嬢様が基本となって俺の中に残った。
好きか嫌いかなら、嫌いだ。
貴族様が嫌いだ。つまり、お嬢様が嫌いだ。
しかし一方で、お嬢様が危ないと心臓と首元が冷える。これは自身の命に直結しているからだと思った。
思っていた。
それなのに……お嬢様がびしょ濡れにされているのを見て……。
自身の心配よりも。
周りの思惑よりも。
真っ先に生まれた感情に蓋をした。
お嬢様を見れば抑えられると思った……変な感情だ。
怒りにも似て濃く、しかし少しの淡さが戸惑いを生む、そんなよくわからない感情だ。
これはオカシい。
別にお嬢様に怪我は無かったのだし、命の危険もなかったのだから、いつも通り『ざまあみろ』ぐらいに思っていればいい筈だ。それで自分にも火の粉が掛かるんじゃないかと心配するのが俺じゃなかったか、と。
よくわからない。
なので聞いてみることにした。
頼りになる仲間に。
アレンに。
まさか馬車を借りられるわけもなく、王都まで走った。途中でマントを巻き付けて森で寝て、そこからは適当に歩いてたどり着いた。
夕刻だったので先に宿屋に行ったら帰ってきてないと言われ、ならば働いているに違いないと冒険者ギルドに行ったなら、丁度良く飛び出してきて誰かとケンカしていた。
変わらないアレンに少しホッとした。
そこでいつも通りに両方ノしてアレンを引っ張っていこうとしたのだが……これは奴隷同士のケンカじゃなく冒険者同士のケンカだと気づいた。
確か……タタルクが言うには……、
『祭りみてーなもんだ』
だったな。参加自由の腕自慢みたいなもんだと。
相手も掛かってこいと言っていたので間違いないだろう。しかし冒険者ではないので、万が一を考えてアレンの声を真似ておいた。いざという時は、アレンがやったということで。
しかし相手も中々のもの。こちらを視界に納める前に衝撃を逃がそうと身を浮かせた。そのせいで姿を見られることはなかったかもしれないが、ダメージが半減したようだ。
追い撃ちをかけたのは、叩き込まれた反射によるものだ。
すると粉塵の向こうで礫を反らし、躱し、斬っているじゃないか。アレンはどうしてこんな奴にケンカを売るのだろうか。
追いかけてこなかったのにも用心深さを感じる。生き埋めにしたのはすまないと思うけど。きっと関係ない。
ようやく合流したアレンは、快く歓待してくれた。贅沢な料理に酒までつけてくれて。タタルクが言うには、傲慢な冒険者の中には堂々と女を侍らせる奴もいる、という。アレンの隣に座っているエヴァはそういうことだろう。そうか。サドメが言うには、男と女がそこにいればそうなるのが自然らしいので変ではない。
ただ貴族様にちょっかいを出してしまったために奴隷になってしまったらしいが。
アレンとエヴァは両方平民なのだし。
問題はないな。
なので帰り際にポケットの物を残していった。処分までしてくれるなんて……アレンは本当に有能だ。
肝心の相談も、アレンはパパッと解決してくれた。
……そうか。それは思い付かなかった。
ムカつくにも、色々とあるんだなあ。
言われてみると……俺は貴族様とお嬢様を分けて考えていた節があるな。
勿論、お嬢様も貴族だ。わかっている。しかし他の貴族様とお嬢様はまるで別だと思っていたように思える。
だって……お嬢様だけに不満を覚えて、お嬢様だけは違うなんて、ありえない……。そんなの、ありえない……。
そう、だから。
お嬢様に不満を覚えるように、あの帝国貴族様……帝国貴族にムカつきを覚えてもいいんだろう。
それ自体はストンと自分にハマった気がするしな。
アレンは言った。
ぶちのめせ、と。
わかっていると。それが普通だと。
そうか。普通なのか。このどうしようもなく渦巻く怒りと、狂おしいほどの切なさに似た何かは。男として普通……なのか。確かに学園でも揉めたら決闘を推奨しているな。
なら別に、構うことないだろう。
少しヤケになっていることも、少なからずあると思う。
しかしお嬢様がずぶ濡れにされたことを思うと、塗り潰せる。……ん?
細かい疑問を飲み込んで、俺は覚悟を決めた。そりゃ問題はあるだろう。なんせ相手は貴族だ。ぶちのめしたらどうなるかなんてわかってる。
それでも、眉間にシワが寄って。
それでも、いつの間にか拳を握っていて。
それでも、この感情を早く吐き出したくて。
俺は、決闘をすることに決めた。
思いつく日程に、帝国貴族との決闘を組み込むなら……頼みを聞いて貰う相手と、排除する必要がある相手がいるな……。
全員貴族だ。
……まあ、いいか。どうせ飛ぶ首は一つなんだ。この際構わずやるとしよう。
ついでにとアレンにある役割を振ってみたら、快く引き受けてくれて。
相手は貴族だというのに。本当にいい奴だな。
最悪の場合、飛ぶ首が二つになるかもしれないというのに、アレンは豪快に笑っていた。
酒に誤魔化して。赤い顔で。
まさか一杯で酔うわけないというのに。
なるほど。
確かにアレンは英雄だと思った。




