従僕51
「職員室で聞けますよ、多分……」
マジか。
交換条件というかついでの情報収集というか、学園街での開業閉店の決定や請願などの届け出はどこに集まるのかと訊いてみた。
そんな内情が他方に漏れることはあるまいと諦め気味の遠回しな質問だ。
返ってくる返事は「学園の理事会で――」と従僕の手に余るものと思われた。
しかしこちらの意図を汲んでの返答があった。伏せたつもりの地上げ貴族様はどこのどいつだ、という意味合いも理解してのものだろう。
「職員室というのは……」
「手を止めないで」
あ、はい。
神期言語の翻訳の真っ最中だ。交換されたのは従僕の自由時間といったところか。自由ってこういうものだと従僕は文字通り叩き込まれている。だから大丈夫。
しかし昼食の時間だけとさせて貰った。
お嬢様の意図は知れないが、流石にその時間を越えるほど掛かるとは思っていないと思われる。
鞭を貰う理由を増やすことはあるまい。
しかもあれだ……このままのペースで翻訳を続けたのなら一時間どころか一週間は掛かりそうな量の紙束が、テーブルというか床からテーブルの高さを越えて置いてあったので。
制限しないといつまでもやらされそうな恐怖があった。
手元の書類までだ。この隣に置かれている従僕の身長ぐらいまでの書類の山は無関係な筈だ。
辛うじて空いているスペースでガリガリとペンを走らせる。椅子も従僕の使っている物しかないところを見ると、ここが物書きスペースなんだろう。
因みに前髪様ことアーロ様は、噂に聞く牢屋番のように従僕の近くに立って翻訳された紙を読み込んでは「……あなたの師は誰ですか? …………信じられない。まさか賢者様では……」「こんな解法が?! しかし……そうか! 確かに納得がいく!」と狂喜されている。
ええ、信じられないですよ。
女郎屋で奴隷に身を落とした細身の中年が賢いというのなら、これから先の未来で賢いと言われたくないなぁ。
「ふはははははは! そうだ! ここの新しい一説! 凄い! 素晴らしいなんてもんじゃない! 気が狂いそうですよ!」
じゃあ、この辺りで止めておこう。
ガタリと立ち上がった従僕は、何かを言われる前にアーロ様にニコリと微笑み掛ける。すると顔を赤くされるので、どうやら面と向かって会話をされるのはまだ慣れていないようだ。
「大変良いことを聞きました。それでは早速行ってみようと思うので、今日のところはこれで……」
もう二度と来ないとは思いますが。
幸い貴族様ではないし。
「あ……う。あ、あ」
手元に差し出された書類はやりましたよ? なんで隣の書類の山と従僕を交互に見てるんですか?
従僕めにはわかりません。
「それでは失礼します」
ニコリと微笑んで退室した。扉を閉めると疲れから溜め息が溢れる。
やり慣れていない仕事は疲れる。何かを学ぶのは好きだし楽しいのだが、書類仕事はそれとは別なのだと知った。
藁の運搬の方が遥かに楽だよな。
とりあえず来た道を戻ろうと踵を返して歩き始めると、背後から扉の開いて閉まる音とバタバタという足音が聞こえてきた。
どうしよう。振り返りたくない。
しかしよーく考えなくとも、今は昼食の時間。ただ食事に出てきただけかもしれないじゃないか。むしろその可能性の方が高い。
「あ、あの……あの」
だから必死に俺の視界に映ろうと回り込んでくるアーロ様が手に持つ紙束には気付かない振りをしよう。
「はい。なんでしょう?」
「あ…………しょ、職員室……わかる、かなって……思って」
うっ。
それは確かに知らない。この広い学舎の中では、例え場所を知っていようと行ったことがなければ迷いかねない。
「ほ、翻訳の! ……あう。ほ、翻訳のこと、教えて……貰いながら……」
意外に強かだなこいつ。もしかして元奴隷なんじゃなかろうか。
つい大きな声を出してしまって顔を赤くして周りを見渡すアーロ様は、中性的な容貌のせいか下手したら女性に間違えられかねない。
辺りに人気はなく、学舎の隅の廊下で、手にした紙を見て貰おうとする、顔を赤くして瞳を潤ませた……。
男だ。
変な噂とか立ったら堪らない。
男子学生用のローブを着ているし、お嬢様も胸の有無を確認されていた。
「……わかりました。では職員室につくまでの間、解説しますので案内の方をお願いします」
「は、はい!」
「……遠回りするとか無しですよ?」
「……」
そこは嘘でも返事して欲しかった。
それでも割と近くにあった職員室にアーロ様の人の良さを見た。釘を刺したのが良かったのか? これが奴隷間なら帰ってこないまであるというのに。
さて職員室だが……。
どうしよう。
「……あの?」
扉の前で佇む俺にアーロ様が疑問を投げ掛けてくる。入らないのか? といったものだ。紙束を持っているので、続きは? と感じてしまうのは邪推だろう。なんで紙束を振るんですか。
だって職員は一人前の魔術師で貴族様なのだ。失礼があってはいけない。作法とか手順とかがある筈。
よもや平民程度には会ってくれないとか有り得る。
なんと厚い扉だろうか……すみませんお嬢様。従僕には重過ぎる役目だったようです。
「…………すみま……せん」
おい前髪。
見かねたアーロ様が何の躊躇もなく扉を押し開く。雰囲気と違い積極性が強過ぎない?
どっかの金髪巻き毛の姿がダブる。
扉を押したままこちらを見るアーロ様。まさか開けたまま待たせるわけにもいかないと俺も扉の向こうへ。
職員室には個々の机が適度な間隔を空けて置いてあった。椅子は寝転がれるソファータイプで、座っていると互いの姿が見えないぐらいの仕切りが机と机の間にある。
人が少ないことも理由なのだろうが、妙な静けさがある独特の雰囲気の空間だ。
そこにズカズカと入っていく前髪はなんなんだろう。
「……あの……」
「ん? おお、アーロ君か。なんだね? また古代魔術期に於ける質問かな」
「こ、これを見てください……。まだ公開されていない碑文の一節です……。独自の解法ですが理にかなっていて、先生も気に入ってくださると……」
違うだろ?
及び腰だったが、このまま前髪に主導権を握られたままだと昼の自由時間が終わってしまう。致し方なしと従僕も前髪に追い付き貴族様の目に止まる。
右手を胸に左手を拳にして腰に添え、片膝を地につけるように体を沈みこませた。略式の挨拶に応えて貴族様が右手を水平に切るように軽く振る。
「……え? あの……」
「うむ、重畳重畳。流石マリスティアン家じゃの。隅々まで礼儀を行き渡らせておる。しかしあまり気にせんでもいい。ここでは儂も一教師に過ぎん」
「ありがとうございます」
戸惑いを見せるアーロ様と違って好々爺とした貴族様は柔らかに笑っている。
豊かな髭に長く伸ばした髪も白い、糸のような目の奥からは緑色の瞳が深い知性を覗かせている。深緑の教員用のローブを纏った貴族様は、お嬢様のクラスで『歴史』を担当されている方だった。
ここでの『歴史』は魔術史、戦史、大陸史に分類される。今習っているのは戦史だ。お嬢様はこの授業が苦手なのか度々夢の国へと誘われている。他の生徒にも耐えきれない方が続出する。
しかし教員のこの方も然るもの。
授業を見聞きしなければ答えられない答えを宿題にしれっと混じらせるのだ。特に居眠りを注意しないところを見るに、むしろ進んでやっているように感じられる。
従僕にとっては知識と穏やかな時間を与えてくれる貴族様、という印象となっている。決してお嬢様ざまあみろなんて思っているわけではない。
「こちらに伺ったのはお訊きしたい件がございまして。実はある喫茶店が撤退を求められておりまして……交渉をしたいのでその貴族様が誰なのかを知ることができればと。『奇人街』にあるシュッシュという店なのですが……」
「……なるほど。それでアーロ君が付き添っているのか」
ん?
いや、アーロ様は偶々の偶然というか翻訳目当ての交換条件というか……え?
思わずアーロ様に目を向けると、あちらもビックリした顔をしている。
え、もしかして、え? 撤退を求めている生徒って……。




