従僕10
広い室内だった。
そこにいたのは壁際に並ぶメイドと、ソファーに腰掛けるお嬢様、燕尾服を着た爺さん、そして上座の椅子に座る男。結構な人数が詰め込まれているのに狭さを感じないほどに広い、そんな室内。
「連れて参りました」
ケーラ様が腰を折って頭を下げているのは、お嬢様以外では唯一座っている男だ。
あれが旦那様か。
三十過ぎぐらいに見える壮年の男性だ。ガッチリした肩幅に凛々しい眼差し。丁寧に剃り揃えられた口髭がなければ尚若く見えたかもしれない。お嬢様と同じ青い瞳をしているが、髪の色が違う。黒い髪を短く切り揃えている。
「構わん、前へ」
その言葉で奴隷頭が前へ進み始めたので一緒に進み、部屋の中程で跪いたので同じように跪く。
「こいつか、シェリー? シェリー?! 何をしている!」
顔を上げるように言われてないので、顔を伏したままだが、誰かが俺の顔を間近から覗き込んでいるのが分かった。
誰かっていうかお嬢様だ。
「じゅうぼく?」
「はいお嬢様」
周りは全てそうですよ。
「あは! やっぱりそう! そうよ、お父様。わたしが言っていたのは…………何してるのお父様?」
「ああ、直ぐ済むよ。セバス、片付けは任せる」
「畏まりました」
コッソリと視線を上げると、旦那様がどこに持っていたのか、ロングソードの鞘を抜くところだった。
なんてことだ。鞭打ち十五回だけじゃなく、打ち首も含まれていたのか。
勘弁してください。
「もう! お父様ちゃんとして! お父様もお母様も了承してくれたじゃない! それともあれは嘘だったの?」
「む、ぐ……しかし」
「……お父様?」
「わ、わかった。だからそんな睨まなくとも……」
お嬢様が元居た場所に座り終わるのを待ってから、旦那様はロングソードを鞘に戻して話を切り換えるように咳払いした。
「ん、ぅん! あ、あー、なんだ。…………むっ、そういえば名も知らんな。当然と言えば当然だが。シェリー」
「わたしも知らないわ」
「なに? いや、そうだな。それが当然か。ではランザッツ」
旦那様にランザッツと呼ばれて奴隷頭が顔を上げた。
初めて知った。奴隷頭ってランザッツって名なのか。
というか、名があったのか。
「はっ、名はつけておりません」
奴隷頭の言葉を受けて、俺とセバスと呼ばれた爺さん以外の部屋に居た者の動揺が手に取るようにわかった。壁際に並んだメイドの動揺は小さく抑えられていたが、それでも息を飲んだり止めたりというのが感じとれた。
やっぱり変なんだろうか?
俺より年下の奴隷がいなかったから、餓鬼やら子供やらと言われればそれは俺を指していたので困る事はなかった。一番歳が近くても四つは離れていた上に、大抵の奴隷は成人していたし。未成年で入ってきたのは女奴隷ぐらいか? そういや最近は餓鬼呼ばわりもなくなってきたな。便利屋って呼ばれるのが増えた。
旦那様が見開いた目のまま奴隷頭へ訊ねる。
「つ、つけてなかったのか? お前が引き取ると言っていたではないか? あの時の赤子だろう?」
「必要に感じなかったので」
いや全く。
元々平民でそれぞれ別の職業を持っていた奴隷と違って、生まれながらの奴隷である俺や奴隷頭には名をつける必要がないのだと思っていた。いやまあ、奴隷頭に名はあったんだけど。そう呼ばれているのを聞いたことなかったし。
「いや、必要ないことはないだろう。名だぞ? 昔から思っていたがお前の感覚は独特過ぎる。理解できん。……全く。あー、それではそこのー…………いや待て。やはり名がないというのは困る。これまでは兎も角、これからは必要だ。まずは名を与えてやるか……」
「ご主人様が、でございますか? それは過分にございます」
「お前がつけてないからだ! なんなのだお前は…………それでは、誰か、なんでもよい。名をつけよ」
いつもこんなやり取りをしているのだろうか? 旦那様が奴隷頭に掛ける声は幾分気安さを含んでいるように感じる。
名付けろったって。
突然そんなことを言われても、誰も声を上げない。まあね。なんでもいいって言われても躊躇するよな。便利屋じゃダメかね?
しかし。
そんな空気の中でもまるで気にしない方が、真っ先に沈黙を破って声を上げた。
「ジーク」
そう。
我らがお嬢様だ。
「ジークでいいわ。うん、じーぼくー、だから…………わかりやすいわよね? よし、今日からお前はジークよ、従僕。わかった?」
「拝命、承りました」
いいのかよ。貴族様に名付けられるのは過分だったんじゃないのかよ。
長年の条件反射で咄嗟に応えて頭を下げたが、誰からも待ったが掛かることはなく、この場の力関係を如実に表していた。
お嬢様最強である。
知ってた。
「それではジークよ」
「はっ」
お話再開である。旦那様も慣れているのか動じていない。
「お前を今日より平民として召し抱える」
告げられたのは昇級のお知らせだった。
生涯奴隷であることを疑いもしなかった己にとっては、まさに寝耳に水の言葉である。奴隷から脱する為に、十年以上もぶっ倒れるまで働き続けてきた元奴隷の苦労を思えば本当に一瞬。
貴族様の強権を見せつけられた。
平民の壁より貴族の壁の方が越え難いと言っていたジュレールの言葉にも納得だ。
たった今から平民になった元奴隷の返事を待たずに、旦那様が続ける。もはや決定事項なんだろう。これに声を上げる者はいない。タタルク、自由とはなんだったのか。知ってる。お嬢様の休憩時間だ。
「ついては王都にある屋敷で小間使いとして処せ。今度ある馬車に同道して……」
「あら、ダメよ」
いやいたよ。
「従僕は王都に連れてくわ」
葉っぱを頭につけることを得意としたご令嬢だ。なんかつけなきゃ納得いかんのだろうか。でっち上げ話のように軽々しく修正できる予定ではないと思うんだが。
汗が浮かび上がる。いまいちよく分かっておられずにいる旦那様と違い、俺には今お嬢様が放った言葉の意味が充分に理解できたから。
しかし口を挟むわけにはいかない。貴族様の会話を止める程の立場も力もないのだ。頼むよ神様。
旦那様が首を傾げる。
「うん? よく分からないな、シェリー。王都に連れていくと、わたしもそう言っているぞ?」
「そうじゃないわ。お父様はお屋敷の小間使いにするって言ったじゃない」
「そうだ。平民の従僕なら妥当ではないか? なんだ。まさか家令か騎士にしたいと言うのなら聞けんぞ。マリスティアン公爵家としての格というものがある」
「そんなのにしないわ」
「ではなんだ?」
ああ止めてくれ。
「だから学校に連れてくの! 王都には学校に通うために行くのよ? 王都に連れていくと言ったら、学校に連れていくに決まっているじゃない。それに学校は寮制度なのよ? 王都のお屋敷で小間使いなんてさせたら連れていく意味がないわ! 伯爵家以上の家系なら近衛侍従を一人つけれるでしょう? それがいいと思うの」
空いた口が塞がらないとはこの事だろう。実際に旦那様の口が空いている。
平民になったとはいえ、元奴隷。というか今でも奴隷という意識が周りにも、そして自分自身にも残っているというのに、貴族様について学校なんかに通えるわけがない。
再起動を果たした旦那様が首を横に振る。
「だ、ダメだ! ダメだダメだ! 確かにあそこは平民もいるが、豪商や天才といった部類の……いやそもそも! お前につけて通わすなどできる訳がない! 普通は女性の、もしくは身元確かな騎士の家系しか! 兎に角、ダメだ! 家令や小間使いにするより悪いではないか! 近衛にするなら他にもちゃんとしたのがいる!」
「いないわ」
「いなっ、いないことはないだろう? アーゼム男爵家の三女が騎士になったし歳も近い、ウェノリングス家の次女は騎士志望だ。最悪平民がいいのなら、うちの侍従の中に幾らでもいる! お前の希望のメイドに戦闘訓練をつけてもいい!」
「いないわ。全部お父様の部下だわ」
「そうだ! マリスティアン公爵家に仕えている! 何が不満なんだい? あまりパパを困らせないでくれシェリー」
「家に仕えてくれている人よ。主人はお父様」
「そ、そうだが……。シェリーだって公爵家の一員じゃないか? シェリーはいずれこの家を継ぐ。なにせ一人娘だ。次期当主なんだよ?」
「弟が産まれれば分からないわ」
「うっ」
言葉に詰まった旦那様が助けが欲しそうにセバス様とケーラ様に視線を送るが、返事は無し。そうだろう。これって、あれだ。お家問題的なやつだ。仕える者としては口出し無用だろう。
嫡男の御世継ぎが出来れば、お嬢様は他家への嫁候補だろう。その時、家人がお嬢様個人に忠誠を誓われていては色々マズい。家に仕えるなんて普通のことだ。
「ほとんどの奴隷の主人はお父様で、メイドや召し使いはお父様の命令を聞くわ。わたしのじゃなく」
そりゃそうだろう。くそ餓鬼ですからお嬢様。
「でも従僕は違うもの」
初耳です。
「自由時間だわ。お父様が奴隷に慈悲を垂れている時間。わたし、勉強したの。休んでもいいし、食べてもいいし、何をしてもいい時間。そんもーを減らすためとか……ちょっと難しいのはまだよく分からないけど。そんな時間でも従僕はわたしの言うことを聞くわ。これは心からわたしに従ってるってことよね?」
むしろ心は背いてます。
「わたしにちゅーせつを尽くしているということよ。他にはいないわ。誰もがお父様の奴隷紋をつけて、家にいるメイドや家令はお父様の指示を待って、わたしには誰もいないわ。この従僕以外」
「そ、そんなことはないよ。落ち着きなさいシェリー。ちょっとパパとお話ししよう。セバス、人払いを」
「落ち着いているわパパ。この、従僕は――」
ガシッと髪を掴んだのは、細く綺麗で、小さな手だ。
ああ、触られないように頑張っていたのに。
また髪だな。
グイっと吊り上げられた視界に映ったのは、動揺する旦那様と、瞳の端に涙を溜めた――――
「――わたしの、従僕なの」
――――俺の新しいご主人様だ。
勘弁願いたい。
「し、しかしだな」
「パパ」
ゴシゴシと服の袖で目元を拭うお嬢様。袖を離すと、上目遣いで旦那様を睨む。
「嘘をつくの? だったらもう二度とパパって呼ばない」
タタルク。本当に解放って嬉しいか?