従僕1
「ねー、じーぼくー?」
「はいお嬢様」
公爵邸の広大な庭の片隅で、ヒラヒラした服を着た幼女と小汚い服を着た奴隷が向かい合っていた。
俺、八歳。お嬢様、三歳の時期。
なんにでも興味を持つお年頃になったお嬢様は、自分の部屋をよく脱走するようになった。邸内のメイドや下働きの従僕を捕まえては「あれ、なあにー?」「これ、なあにー?」「ここ、どこー?」と質問を浴びせるばかり。
しかし屋敷の中に居る内は良かったのだが、最近は庭にも出るようになった。これには旦那様も肝を冷やしたのか屋敷の警備人数を増やし絶対に邸外には出さないようにした上に、専属のメイドも増やし一日体制でお嬢様を見張るようにした。
屋敷で働く者にはお嬢様を見つけたら報告し目を離さないようにとの命令が下った。
当のお嬢様といえば、周りの心配もどこ吹く風と相も変わらず好奇心を満たすばかりか、いかに見張りのメイドを撒いて庭に出るかを楽しんでおられる。
くそ餓鬼だ。
お嬢様にとっては楽しいかくれんぼなのかもしれないが、俺たち従僕や召使いにとっては厳しい罰しか待ってない辛い遊びだ。
しかも平民階級ならともかく、俺のような奴隷階級は叱責だけじゃなく鞭打ちまでついてくるのだ。やってられない。専属のメイドは持ち回りだそうだが、誰しも役目を押し付けあっているという。お嬢様を溺愛している旦那様の叱責が怖いのだろう。
だからといって乱雑に扱うわけにもいかず、厳しく言い含めることも出来ず、今日もお嬢様の脱走を許している。
俺たち奴隷階級の従僕は、基本的に館の中に仕事がないので安心していたのだが、お嬢様が庭に出てくるようになったので戦々恐々としていた。
だってお嬢様だ。
庭の剪定や厩舎の掃除に馬の手入れ、俺たち奴隷階級の仕事は汚れ仕事が多い。お嬢様にその汚れが着こうものなら旦那様のお叱りは確実だ。臭いも駄目だ。つまり近付くことは出来ない。
しかし見つけたのなら目を離してはいけない。
見つかったと知られれば逃げ出すお嬢様だ。常に遠目から監視するのは難しい。
ならば報告だけでもと思われるのだが、そもそも一人の時に見つけたならどうすればいいのか? 報告に行った者が屋敷内の誰かを連れて戻った時に見失ってしまっていたら?
結論から言うと、罰は避けられないのだ。
せめて誰かの首が飛ばないようにと、邸外にだけは逃げ出されないようにするぐらいが俺らの精一杯だ。
そんなお嬢様は今、庭の隅の方で休んでいる俺の前で「えーと、えーと」と質問を考えている。
旦那様はお優しい方なので俺たち奴隷にも自由時間をくれる。
一時間。
これは大変珍しいことだ。
本来なら奴隷に『自由』な時間などない。いついかなる時も主人の命令に従うのが奴隷だからだ。
しかし旦那様は俺たち奴隷に一日一時間だけ、仕事の割り当ても命令の対象にもならない時間をくれる。緊急時は別だし旦那様の匙加減次第だが、これは嬉しい。
大抵の奴隷は休む時間に充てるのだが、俺は他の奴隷が色々と教えてくれる知識の復習に使っている。皆は俺が寝る前に奴隷になる前に得た知識や経験を教えてくれる。覚えておけば損はないらしい。
睡眠時間もあまり長くないので、そこで覚えたことを忘れないようにと自由時間に覚え直す。それが俺の自由時間の使い方だった。
ここで重要になるのは場所だ。
俺たち奴隷は見ていて気分のいいものではないらしく、自由だからとあちこちをうろうろして、誰かの気分でも悪くしようものならお叱りが待っている。屋敷で働く者の中には平民階級だけでなく奉公に来ている貴族階級の子息様もいるのだから。
そこで自由時間はなるべく人目のつかない場所で取るようになったのだが、これが不味かった。
ある日。
いつものように自由時間になったので誰も訪れないような庭の隅で、地面に対して枝で教わった文字を書いていたら、ガサガサと茂みを抜けてお嬢様が出てきたのだ。
服のあちこちに葉っぱがくっ付き、長く伸ばし整えられた金色の髪には蜘蛛の巣が貼り付き、澄んだ青い瞳はパチクリと俺を見つめていた。
「あにゃた、っれー?」
小首を傾げて尋ねてくる様は、噂に聞く天使様とはこのような者だろうと思ったぐらいだ。
俺が栄えある鞭打ち第一号になった記念日だ。
質問に答えただけなのに。
恐らく音に聴く悪魔とはかように人を誘うのだろう。ちくしょう。
納得はいかぬも奴隷とはそういうものだと、その日は寝る前に他の奴隷に慰められた。
それから旦那様の命令が出たので、お嬢様を見かけたら報告するようにと奴隷頭から通達があったが、俺の例があるため奴隷は一様に嫌な顔だ。旦那様はお嬢様を溺愛しているのだ。常に居場所は把握しておきたいらしい。
俺もなるべくなら関わり合いたくなかったので、休む場所を変えたのだが、二度目の脱走が終わった際にお嬢様が旦那様に泣きながら言ったそうだ。
「いっ、いなっ、かったぁああん! うわああああん!」
こうして俺は二度目の栄誉を授かった。
その後も、何故直ぐに連れ帰らなかった、分別もなく娘を見たのか、と理由は様々だがメイドは叱責され奴隷は打たれた。見たのかってなんだよ。
旦那様は脱走したお嬢様をお叱りにならないので、怒りの矛先を俺たちに向けているだけなのだろう。怒りたい、しかし娘は怒れない。ならば関わったメイドや奴隷にと。
メイドや奴隷にとってはいい迷惑だ。
そこで練られた対策が人身御供。
お嬢様は庭の隅に俺が居たら、うろちょろすることもなく真っ直ぐここに来るから居場所を特定できるとメイド長と奴隷頭に言われれば、俺に嫌はない。否は最初からない。
仮に旦那様にバレても犠牲は俺と当番のメイドだけと少ない。はは、最悪。
他の奴隷でもいいんじゃないかと控え目に提案したが、既に試していたらしく首を横に振られた。どうもお嬢様は俺との問答が気にいったらしい。
「いったい何を話したんだ?」
とは奴隷頭の言。
あの時。
蜘蛛の巣を貼り付けたお嬢様の問いに、俺は粛々と答えただけなのだが……。
「あにゃた、っれー?」
「私は従僕にございます」
「じぃ……ぼくー?」
「似たようなものかと」
「なに、してるのー?」
「特に何も」
「してるっ! ほら、こえ! …………こえ、なにー?」
「これは文字、らしいです」
「もい?」
「ええ、文字です」
「もい! してる! あの、ごほんについてゆ……こえ、ごほんー?」
「似たようなものかと」
「よんでぇー」
「昔々あるところに――――」
変なところはないな。むしろ口調もちゃんと教わった丁寧な話し方を意識しているし、あしらい方も他の奴隷が俺がまだ餓鬼の頃にやっていたものだ。奴隷だと汚らわしいと思われて嫌な気分になるかと気遣い、従僕と言っておいたし。
ちなみに文字は『腹が減った』と書いてあったのだが、お嬢様が文字を理解せぬとこれ幸いに、以前聞いた物語を適当にアレンジして情感たっぷりに読み上げた。
「そこで竜は獰猛に嗤い、言いました『嘆くことはない。すぐに俺の腹の中で対面しよう』と」
「うぅ、こあい……」
「そこで竜は優しく笑い、言いました『泣かないでください。すぐに会えると思いますよ』と」
「ふんふん」
そんな感じに。
おかげ様で今日もお嬢様は意気揚々と庭の隅にやってきて、旦那様にバレたら俺だけ鞭を頂く日々だ。
涙が出るね。
「そあ! そあはなんであーいのー?」
質問が決まったお嬢様が空を指差して聞いてくる。多分「空はなんで青いのでしょう?」と仰せだ。
こういう時のお定まりは「神様が決めた」なのだが、奴隷に聞かれているのだ。奴隷流でいくか。
「お嬢様、空が赤かったら怖くありませんか?」
「あかー?」
「はい赤です。今日のお嬢様のお召し物と同じ色でございます」
「こえ?」
「それでございます」
お嬢様は仕立ての良い自分の服と空を見比べてポツリ。
「……こあい」
「そうでしょう。お嬢様が怖くないように、空は青いのでございます」
「……ふんふん。じゃーねー――――」
一頻り頷いたお嬢様が次の質問を口にするのを見ながら、俺は今日も鞭を頂戴しないように願った。