第49話「ギルド」
僕が「人間」で居る為に必要な事。
権利擁護サービスによる金銭管理、
毎日忘れずに、兄へ使った金額やレシートの写メ、生活報告。
ヘルパーさんにお越しいただく事でのお掃除と調理の支援。
精神病院への通院、きちんとお薬を飲む事。
自立支援や各受給者証の管理に更新。
僕の創作は活きる為に必要なものであって、
生きる為だけなら本質的には必ず要るものではない。
一種の精神安定維持と、
倖子君、兄や友への生存維持表明という贅沢だ。
僕なりに今後の見通しを立ててみたいと思った。
まず、これからどんな選択肢があったとしても、
権利擁護の金銭管理が最も重要なものだ。
僕が自由にお金を使えるようになってしまったら、
僕は僕自身の手で、自身を地獄に叩き落す事になる。
薬物依存だ。
僕は今後の人生で金銭的にどれ程豊かになろうと、
薬物に僕の人生を支配される。
今の違法薬物に精通している訳ではないが、
僕の手に一万円以上渡ったら危険信号だ。
相場はもう少し上だろうけど。
だから、僕は働く事自体に大きなリスクがある。
これは薬物に依存形成された者にしか解らない苦しみだろう。
そして、薬物依存には不規則な波がある。
薬が欲しくてほしくてたまらなくなる症状の事だ。
大きな波が来ると、抗うのに必死。
生活保護から抜け出せても、
他者に頼る金銭管理は必要な事。
とはいえ、保護係のお方様から、
就労するつもりなら必ず保護係へ相談しなさいとは言われている。
つまり可能性的に障がい者雇用に限られているようなものだ。
別に保護係のお方様に物凄い権力や拘束力がある訳ではないけれど、
管理していただいているという礼儀礼節は通したい。
先日、地域活動支援センターへお伺いしたと記述したが、
こちらへ継続的に通所できても、何かお金を得られる訳ではない。
病院のデイケアとそれ程大差ない感じ。
僕の理想は、やはりB型作業所への永続的な通所だ。
しかし、概ねB型作業所はA型作業所へと移行してゆく通過点として在る。
A型作業所は雇用契約を結ばねばならず、
働く、という行為にようやく該当する。
けれど例えA型まで辿り着けても、
その所得で完全に生活保護から抜け出せる程、稼げる訳ではない。
生活保護から抜け出すには、
大きな運と、本気で障がい者雇用で就労する気力体力が必要になる。
けれど、前述の通り、
僕にとって自由にできるお金を持つ事は禁忌だ。
ちょっと本気で願う事は、
僕と生活をともにしてくれる監視者をつけてもらう事。
ただ、本当に叶ったら、僕の生活は奴隷労働以外の何ものでもなくなる。
痲薬には依存性がある。
19世紀頃までは「意志の弱さ」と考えられたが、
20世紀になり痲薬が脳の報酬系に作用する事が明らかになった。
現代は痲薬自体の科学的な構造によるものであるとされるようになる。
ラットパーク実験が人にも当てはまるなら、
僕の問題は環境と孤独とストレスによると言えなくもない。
薬物依存の問題さえなければ、
僕は孤独が好きだし、ずっとひとりで暮らすのも受け入れられる。
それに、パーク、みんなが居るところへ行っても、
僕は大概厄介者でしかない。
僕の大切と言える友人は皆既婚者ばかりで、
実際再会しても、話す事なんてない。
僕の身近な隣人は、
もう友人と呼ぶには大きく年齢が離れ過ぎているお方々ばかりだ。
諦めるには全然はやいけれど、現状はアリジゴク。
正直働くよりも働かない方がメリットが大きい。
外部からの力が加わるか、時間ギリギリまで箱庭を謳歌するか。
いずれにせよ、おそらく現状、死というものは平等なはずだ。
小さな子供の死を悲しむ気持ちは僕にもあるけれど、
僕だって、小さな大人になろうとしてる子供のままだ。
確か小学生の頃、誰かが「死んでもいいと思う?」、
そんな質問をみんなにしていたけれど、
その時の大概の答えは、「痛いとか苦しまないなら死んでもいい」、
そんな答えばかりだった。
僕の現在の答えだってまるで変わりない。
もしも僕の次の人生が十歳までと聞かされても、
今のところどうでもいいし、次の人生が来ても、
今まで通り訳も分からず死んでいくだろう。
愛国心なんて僕にはバカげた話で、戦争に活かせるものでしかない。
僕は国に殺され、生かされているだけだ。
平等より公正さが大切なんだ。
どちらも叶わぬ思想だとしてもね。
全文を要約するなら……、
働いてお金をいただく事が命取りだし、生活保護下もミジメって事。
ちょうせんしゃはイケてる
でもおくびょうものもいい
こうせいこそせいぎ
歌 BUMP OF CHICKEN 作詞・作曲 藤原 基央




