第11話「生きてることが辛いなら」
ふと、遺書を書いておきたくなった。
それはなんでなんだろう。
それはきっと、もう一度全く同じ人生を歩むとして、
誰一人欠ける事なく、全ての人と出会い直したいからだ。
何も変わる事がなくていい。全く同じでいい。たらればなんて要らない。
ただ、どうしようもなく死にたくて仕方がない時、
包丁でためらいなく左手首を切り落としたい時、
高所で突風にさらわれたい時、
嘘かどうかも見抜けない薬物の致死量を確かめている時、
ほんの刹那、出会った全ての人々、みんなのぬくもりに還りたくなる。
またね、そう手を振りたくなる。
こんなに生きたいのに、どうしてこんなに死にたいのだろう。
わめき散らして泣きじゃくれば落ち着くのだろうか。
くるっとめぐり綺麗な円を描くだけの事が、
どうしてこんなにも怖いのだろう。
恐怖を抱いているのに、どうして僕はこんなに穏やかでいるのだろう。
幸不幸を選んでいいのは自分だけだ。
自分だけが自分を幸せだと判断していい。
自分だけが自分を不幸せと判断していい。
僕は倖せだ。
一生そう言い続けなければいけないと思えるくらい倖せになれた。
努力らしい努力なんてしていない。
だけど、やりたくない事はし続けてきた。
けれど、まるで成長した気がしない。
大人をやれてる気がしない。
いつの間にか、歩くはやさも男子小学生より遅くなっている。
たった500m歩く程度でも息が切れる。
醜くなっているのだけ自覚できる。
僕はそうは思わないけれど、人生とは勝ち負けなのだろうか?
勝ったら楽しいし、負けたら悔しい。それくらいの感覚は僕にもある。
でもそれは人生にとって大切なものとは思えない。
今は人生の淡々しい営みにそれを見出している気がする。
他者は僕が存在している事を少し確認する為だけに居てくれるくらいでいい。
鈍感な僕でも、敏感な人々に切り傷を負わせる事への怯えくらいはある。
会いたいよみんな。その想いは確かにあっても、
勘違いで出会って、勘違いで解った気になって、
どうしようもなく確かに傷つけるんだ。分かれるんだ。
神仏が人の上におわしても、その神仏が争いの種ともなるではないか。
僕は球だ。僕自身は静止していたいと望んでいたとしても、
森羅万象に愛されて、
僕自身にさえ本体が解らないくらいくしゃくしゃになる。
有難うって、奇跡って意味だ。
答えは存在するもの全ての内外に存在する。
だから、解らないって事だけは解り合えてると信じられる。
地球が終わらなくても、せかいの終わりは何処にでも見つけ出せる。
初めて本気で遺書を書く気になったけれど、
結果的には、
僕はまだ、生きていたい。もがきたい。あがきたい。
今はまだ限界の、壁の向こうへ、さらにその先へ、
ずっと、ずっと先へ!i
愛してる!i
歌 森山直太朗 作詞 御徒町凧 作曲 森山直太朗




