さくら
家のすぐそばの木に、薄紅色の花が咲いた。
「ばば様、見てみて。きれいな花が咲いているよ」
「ああ、綺麗な桜じゃ。何年振りかのう」
「さくら?この花さくらって言うの?」
「なんじゃアリシア。日本で見たことがあるじゃろう?」
「知らない。そんなに有名な花なの?」
「ああ。毎年開花がニュースになるほど……本当に覚えとらんのか?」
「知らない。……私は知らないよ」
私は頭を振って知らないと繰り返す。なぜ、記憶が抜け落ちているんだろう。
ばば様は悲しそうな顔で、微笑んでいた。
墨染めの花びらがひらり、はらりと舞い落ちる。樹の形から昼間見た桜とは違うことが窺い知れる。月の光に晒され花自体が光を放つかのように、夜の闇に浮かぶ。
静寂が耳に痛い。そよと吹く風もなく、生き物の命の営みも聞こえず、ただただ無音の世界がそこにはあった。
「美しい、のう?ため息が出るほどに」
ふと気づくと、傍らに女が立っていた。豊かな黒髪、血のように赤い瞳、紅をさした唇。肌は眼前の桜のように白く、黒いドレスを纏っていた。むき出しの腕と大きく開いた胸元には草木や花を模した刺青の様な文様。闇から溶け出たようなその姿はまるで。
「あなたは誰?魔王ですか?」
「そうとも言えるじゃろうし違うとも言えるのう。今はまだ」
甘くて艶やかな声。聞いた者が敵意を喪失してしまうような柔らかで古風な語調。しっかり聞いておかなければならないのに、その意志は徐々に薄らいでいく。
「そなた、やるのう。死に纏わる記憶でわらわを封ずるとは」
「死に纏わる記憶?」
ふふっと笑って、どこからか出した扇子で、口元を隠す。指先には真っ赤な長い爪。幽かに香木の香りが鼻先をかすめた。この人がアリシアだという可能性も考えるが、封じるなんて私にできるとは思えない。封じたのが私ではなくてアリシアがやったとすれば。この人は本当に誰だろう?思考すらぼんやりと霞んでいく。
「そなたの祖母は桜の咲くころに死んだ。墓は桜の見える場所。生き物が死ぬと決まって桜のもとに埋めていたであろう?他にもいろいろ……自分の名前まで失って。のう?『さくら』」
絶句した。自分の前世の名前まで忘れていたことに全く気付かなかった。私にとって桜は死の象徴。でも、ここで思い出してしまったら。封印は解けてしまうのか。
「大丈夫。これはただの夢。起きてしまえばすべて忘れてしまう。封印はまだ解けぬ」
「案ずるな。わらわはここが甚く気に入っておる。自ら出ようとすることは、あるまい」
「先祖返りと魔王化は―――
彼女から言葉が次々と発せられるが、体が覚醒しようとしているのか、段々と歪んで景色ごと遠くへ消えていく。掴もうとして手を必死になって伸ばす。待って、待って、聞きたいことがたくさんあるのに―――
「アリシア。朝じゃよー」
ばば様の声に徐々に意識がはっきりしていく。伸ばした手が空をつかんでいる。……あれ、なんか夢を見た気がするけれど……。心の中に、なにか、引っかかって―――
言葉づかいが似ていますが、ばば様ではありません。
ドレスではなくて花魁の様な着物も考えたのですが…




