第2章 幻力の反作用
船堀駅に再び戻り、そのまま中目黒にあると言う、にとりのラボへ2人は足を運んだ。
地下鉄とだけあって、僅かな時間で列車は入線する。そのまま乗り込んでは、新宿方面へと向かう。そのまま列車は来た道を帰るようにしては地下へ潜り込む。
数多の駅を過ぎ、車内は徐々に込み合っていく。やがて列車は新宿三丁目駅に着くや否や、吊り革に掴まってはぼうと立っていたオルタナの手をにとりが引っ張った。
都営新宿線を出て、今度は渋谷方面の東京メトロ副都心線に乗り換える。この列車は東急東横線直通の列車が走っており、本来の終点である渋谷を過ぎても東横線に乗り入れるものがあるのだ。2人はそれに乗り込んで、北参道、原宿、渋谷、代官山を経て中目黒駅に到着した。
高架下の出口に出て、山手通りに沿って歩いて行く。
脇にビルが見えてくると、通りに垂直に交わる様に跨道橋が視界に入る。其処を渡るにとりに、続いてオルタナも渡って行く。下は引っ切り無しに車が行き交っていて、道路を築き上げる土瀝青さえ見えないほどだ。
やがて目黒川が見えてきて、架かっている青い柵の橋の上を歩いて行くと、にとりが指を指した。
「…あれが私たちのラボ―――東京大同病院だよ」
「東京大同病院?」オルタナが素っ頓狂な声を上げて聞いた。
「ただの病院だよ。其処の部門として、サーカムフレックス体の研究をしている『零人理部』の1人として、私は勤めてる。サーカムフレックスの神秘は私たちの想像を遥かに超越したものだからね」
「…ワタシは、サーカムフレックス体」
「そう、キミはサーカムフレックス体の1人。つい電車内で発見したからさ、内心歓喜していたよ。こういう身分でも、サーカムフレックス体には出会ったこと無いんでね」
彼女は赤裸々にものを語り始めた。
まだサーカムフレックス体に出会ったことが無かった、と言う彼女の言動に、そんなに自分と言う存在が稀有なものなのか、徐々に明白になりつつある自己の真意に、オルタナは寡黙を通じて模索した。
時計では午後の1時を回っていて、太陽も徐に真上に来つつある。
「…出会ったこと、ナイ?」
「無い。…沢山の参考文献で姿形を知っているだけで、実在する本物は見たこと無いなぁ。だから、私はキミに出会えて狂喜乱舞だよ、内心ね」
此処でにとりが口を開いた。
「キミの名前、今度から何で呼んでほしい?」
オルタナは考えた。
特に誰かと親しく交わった覚えは無く、自身の名を呼んでもらった事など滅多に無かったからだ。
大体は偽称した姓名を用いて自己を偽っていたが、相手がサーカムフレックス体専門の相手だけに偽っても無駄だと洞察した彼女は、複雑に、深長に考えた。
だが、その思考はにとりの提案によって終焉を迎えることになった。
「…じゃあ、オルタナレクリプスの最初の文字から取って、オル!これでいい?」
オル、オル、オル―――。
自身の名称を初めて名付けてくれて、そして呼ばれた事に、彼女は生きた心地がしなかった。
何度も反芻して脳裏で呼び続けるうち、自分の本当の名前が「オル」と言う名前のように思えてきた。新鮮な感触さえする、この仇名―――彼女は増々気にいった。
「うん」
「…じゃあ!私は河城にとり…にとりって呼んで?そっちの方がいいでしょ?」
彼女は頷きを以て、これらの提案を賛同した。
初めて弾んだ会話が出来たような気がして、彼女は嬉しい心地がした。
ああ、ワタシの名はオル―――オル、この現実味さえ帯びていない呼称の韻は特に気に入ったもので、繰り返し頭のうちで呼ぶうちにゲシュタルト崩壊さえ起こしそうになってしまう。
「…にとり、さん」
「うん、それでオッケー!どうやらその様子だと、まともにコミュニケーションを交わしたことが無さそうじゃない?…うちのラボでは皆が優しく接してくれるからさ、きっと心打ち解け合うと思うよ?」
彼女の優しげな、丁重な宥めとあって、オルタナは不思議と心配をしなかった。
出会ったばかりの彼女であったが、自分の何故か感性とも霊性とも言うべき化身みたいなものが、飛躍して、代わりに彼女の前に勝ち誇って君臨しているかのようであった。
心情のポリティクスたるものが、心底で疼き、嘆いている。果たして此れが彼女の所以と取っていいものなのか、其れは本人でさえも分からない。だが、第六感が「これでいい」と言っている気がした。
いや、これは解けていく段階では無く、縺れてゆく過程なのだ―――純粋な理性が彼女を押し進め、一切の感情が繊維のように絡まり合う。
白を基調とした棟の建物が数多存在する場所の一つ、見た目は普通の病院っぽいもので、何ら違和感を感じない。
しかし、オルタナにとって病院は馴染みが薄い場所であった―――と言うのも、彼女は怪我など余りしないから―――である。
中に入ってみても、ピンク色のベンチが丁寧に並べられた大部屋みたいな場所が玄関とあって、全ての疑念を拭い去ってしまう。
〈ああ、ワタシは一体何処へ連れていかれるのだろう。不思議だ、フシギだ―――〉行方も知らないパラドックスが全てを崩壊されていくようだ。
先導する彼女の背中が、泥酔したように視界が縮こまって、緩徐的に朧げになって行く。麻酔?洗脳?嗚呼、パラノイアが渦巻いて―――全的堕落の音が―――ゼロとなって復活する。
「…ここだよ」
彼女の声が聞こえた時、混乱していた彼女はキッとして目を覚まし、改めて世界を見直した。
整然且つ端正に揃えられた新型パソコンの海、平行して並ぶ蒼天の色の回転イス、壁に沿って設置された白机の、無駄に"小綺麗"な部屋。
「見ない顔立ちだね」と、2人のもとに足を運んでは、微笑み半分、真顔半分と言った、真剣と調子の局面を忘れない、白髪の白衣の青年が声をかけた。
にとりが来た部屋には偶々なのか故意なのか、ちょうど彼1人しかおらず、オルタナは緊張した。
遠景、窓際に置かれた茶色の長机の上に置かれた灰皿に、火が消えかかっている煙草が淋しそうに欠伸を上げた。そのまま天井の空気清浄機のもとに、白煙は忽ち立ち昇り、そして消える。
ぼんやりとした部屋の空気は美味しいものではない。横に来ていた髪を前に整え、更に深くして向こう側とこちら側の世界を引き離す。
「…にとりさん、貴方が誰かを連れて来るなんてコトが珍しいとは言わないけど…一体誰なんです?今回のゲストは?」
「シラーは何時も興味深そうだからね、紹介するよ」
すると彼女は回れ右をしては、オルタナの方を向いた。
彼女の背に、白髪のショートヘアで、純粋無垢そうな柔和な顔を浮かべた少年が居る。オルタナは、何故か必要以上に慄然を覚えた。
「オル、彼を紹介するね。彼の名前は―――」
「おいおい、こういうのは先に俺へ紹介してくれるものじゃないのか?」
「マナーや礼作法を此処で求めるのは結構だけど、まあ私とて自由にやらせてよ。余計複雑な物思いがシラーを遮るぞ?」
にとりは青年の方を見ては、左手の人差し指を突きだしては、にこりと笑って見せた。
再三オルタナの方を向き、彼女に紹介をさせる。完全なアウェー状況を感じ取った彼女は、静かに押し黙っていた。
彼女のそれは、必要以上に苛酷で、最低条件以下に褐色の拒絶が身に染みる。情けは結構、寡黙は血行、と言った具合だ。
「…彼の名前は白河英樹、私と同じ零人理部の一員。シラーって呼んであげると喜ぶから」
「俺はそう言われても喜ばねえぞ。飽くまで"一般推奨上"での話だけどな」
「こういう面倒な性格だけど、根は優しいから、沢山話してあげてね。…オルも分かるでしょ?彼の内心隠れる寓意みたいなのが。…今度はオルが自己紹介だ、先ずはやってみよう?」
彼女に提案を突然吹っ掛けられ、頬を真っ赤に染める。羞恥が表立ってしまっている。
身を小刻みに震わせ、世界を呪った。おどろおどろしい怨念のようなものが、ロウスピードで彼女の周囲を飛んでは、笑っている。
その笑い声が虚空に反射し、やがて発散された感情と共にカタルシスとして抜けていく。静かに顔を見上げ、英樹の顔を見た。相も変わらずな好青年で、自分とは真反対のようにさえ思えた。
寓意?何ソレ。ワタシは、そのグウイとやらを知らない。だから、オシえてくれ。英樹、オマエは何故にワタシの前に立ち誇り、私を見蔑む?
私は第二の羊では無い―――バカバカしい。何が〈一般推薦上〉、だ。根が優しい、優しいとは、解けること。解いて解いて解いて―――消える。カッとなって、消える。
回路が、終わる。後顧の憂いを断つように、ワタシの存在する、潜在的な、内在的な"カモク"が、私の幻想を作り上げ、そして等しくウバっていく。ああ、何ソレ。何だソレ。
「…ワタシは、オルタナレクリプスXV。ヒデキ、よろしくお願いします」
「随分機械的な名前だなぁ。…まさか、サーカムフレックス体じゃあるまいし…」
「彼女はサーカムフレックス体よ。私たちが探し求めていた浪漫―――其れに私は出会ったワケさ、先程にね。私に一生飯代を奢ってくれたってええぞ、シラー」
「それは―――本当なのか、にとり。確かに、見た目とてイシュゾルデ型に類似した見た目を織り成している」
ワタシの頬に、彼の右手が触れる。血が通っている。暖かい、そして温もりを感知した。
ゲンインフメイ、ゲンインフメイ。何故に、私に血は無いの。私は、冷たい。冷たい頬、暖かい手、冷たい頬、暖かい手―――あああ、酷いなぁ。
どうしてかな。どうしてかな。私の前に塞がる様にして感情を堅持させる、頑強な、そして情けない人柱が、脆く崩れていく。
にとり、一体彼は何がしたいんだ。彼の手は、そのままムネを伝って足モトまで行った。ワタシは、為されるがままに此処に来たわけじゃない。
胸の内から、ふつふつと湧き出る〈怒りに似た憎悪〉のような感情が、ワタシの均衡をコワしていく。ああ、破壊しないで。ハカイ、ワルいコト。
「…イシュゾルデ型サーカムフレックス体、オルタナレクリプスXV…銘盤は本物だ。しかし、何故」
「電車で偶々家に帰ろうとした時に出会って、さ。彼女も知りたいことがあって、お互い承知の上で此処に来て貰ったワケ。彼女も知りたいことがある」
「しかし、オルタナって何だ?英訳では「代償、代わり」と称され、用いられるそれが、サーカムフレックス体に用いられてる訳が知りたい」
「――――サーカムフレックス体、って何。ワタシは、知らない。自分の正体、そして何もかもの理屈的な自己の変遷―――知らない。貴方たちは零人理部、もしかしたら、知っているかもしれない」
彼女の唐突な言問いが、さしずめ巨大な鉄球のような破壊力を持って、2人の間に割り入った。
アルカロイド分子をさえ持ったと言えるその発言、言葉の一つ一つを耳にして、河城と白河は押し黙った。
此処でシラーが一つ、咳をしては鼻を高くし、オルタナに説明を図った。
「…サーカムフレックス体、其れは多機能型アンドロイド。私たちに救いを与えるとも、破滅を与えるとも謂れがある、古来歴史上での話。マスターナラティヴを以てしても、説明する事は不可能だ。だから我々、零人理部が居る」
「多機能型アンドロイド?」彼女は問い質した。
「そう。しかも、其れはロストテクノロジー…現在的な科学能力では一切の再現が出来ない代物で、且つそれらは今でも絶賛稼働中とのコトだった。まさかホンモノが居たとは」
「…私は、存在しないかもしれなかった。しかし、ココにいる。私は、一体何者なんだろう」
「嫌だなぁ。其れを解き明かすのが我々、零人理部の仕事。無論、気の早い連中は早速解剖だ早速捕縛しろだの酷い事を言いそうだけど、私たちはそんな下衆な真似、しませんよ。するのは紳士的に礼法満ちた、貴方への手助けです」
気の早い、オロかな連中は、私をとっ捕まえ、煮焼きし、そしてワタシの腸を抉りだすのか。
ああ、頭が痛くなるばかりだ。どうも、コンナ本調子なものではなかったが―――情けなくなるばかりだ、同胞とも言うべき存在の、仮象は。
しかしワタシはオーパーツ?ロストテクノロジー?今は亡き、死に絶えた技術でワタシは生まれた…おぎゃあ、おぎゃあと…ああ、何ソレ。何だソレ。ホント、何?フザケた話。
甲高い、ワタシが絶望にひし暮れた時に発される咆哮が、産声のように投げ出され―――そして―――ゼロに回帰した。
何で、何で、何で、何で、何で―――此処は何処だろう。私は、シぬの?この、虚無感、ニヒルを借景して、ワタシと言う存在は世界からマッショウされるの?ああ。おぎゃあ、おぎゃあ。
…アッハッハッハッハッ。なぁーンだ馬鹿馬鹿しい。やめて、やめて。ワタシは、死にたくない。閃光、閃耀が、迸って、消えた。薄く、脆かった。
にとり、オシえて。英樹、オシえて。ワタシと言う世界、存在は、敵?ああ、やめて―――やめて―――可笑しい可笑しい…。涙、出て来るよォ…。
「…取り敢えず、何か思い出してくれれば、私たちが貴方―――オルタナさんの出自を今までの参考文献と共に照らし合わせます。どうか、少しでも思い出してくれませんか。貴方が、今まで何をしていたのか。存在を、肯定してくださいよ」