第17章 ツァラトゥストラはこう言った
彼女達にとって、再び青梅に行って魔理沙たちを救出する事はやはり無謀に近い無闇矢鱈そのもので、先程までは助けんばかりに焦り駆っていた天子もノーエンデイルの説得によって落ち着きを見せた。
しかし仲間が拐かされたのは事実で、オルタナやヘテロが狙われた身であるのも同じことであった。彼女達は胸のうちに重たい冷や汗を大量に掻いていたのである。それ故に格率によって善に従おうとする気力も失せ消え、オルタナの中に存在した、仲間に対する罪悪感が益々肥えていく。神々しい〈虹彩〉がステンドグラスのように聳え立つが、際して彼女の臆病心、排他的に論理構えを見せる羞恥心が、神の前の単独者のような佇まい非ずして懦弱でセンシティブな様相を呈しているのは元来のアーキタイプなのだろうか。所詮は虚偽的な造りだったのか。どちらにせよ、彼女自身がそれらの本質に気づくこと有り得ない話なのである。
白河がオルタナに警告したように、警察がこの頃から活発に動きを見せ始めたのを、彼女さえ掌握できた。先ずにオルタナ達しかいない東京大同病院の元に何度か警察官がやって来て、様々な罪状を並び立ててはオルタナを拘束するだの言ってきたのである。
幸いにして白河や天子が彼女の不在を伝えると呆気なく退散するのがオチであったが、数日後か経過したあと、コンビニの鮭おにぎりを頬張っていたにとりがとある提案を持ち掛けたのであった。
「きっと私達だけではオーウェン達に太刀打ち出来ないのは明白だと思う。以前から親交のある零倫理研究所に応援を呼ぶのはどうかな?」
「相手側も買収されてるかもしれないぞ」、とノーエンデイルが幕の内弁当を食べながら呟いた。
「あり得ないね」にとりは断言した。何処からか其れを裏付ける自信があるようで、ノーエンデイルは彼女の方を怪訝な顔つきで見た。
「そう断言出来る根拠は何だ?」
「その零倫理研究所は以前からヴェルサス体について研究『させられていた』んだよね。無理やり上の命令によって。その内の1人が私と仲良くしてくれるのだけど、毎回毎回研究会の愚痴を零していた。もし私たちが研究会に対して反逆を示すのなら、その研究会も今までのん憂さ晴らしと言う口実と利害関係が一致する。メリットデメリット関係なく、そう言った根拠があるんだ」
にとりが述べた後、ノーエンデイルは魂消たような顔を浮かべ、箸で掴んでいた梅干を弁当の中に落としてしまった。にとりは得意そうな表情で彼を見ては、「どう?」と提案する。其れに対して不安が否めないノーエンデイルであったが、周囲の顔つきを見渡して、改めて賛同した。
と言うのも、付和雷同と言う訳では無く、オルタナやヘテロ、天子も、にとりの言う事に心底賛成を考えていたからだ。多数決の一致、も確かにそうであったが、彼自身の不安を通り越す<揺るがない累加的賛同>によって、自棄に近い納得が彼を頷かせたのである。
「…じゃあ聞くが、其れは何処の研究所だ?」
すると彼女は一回落ち着き払ってから、声の調子を整えて口を開いた。
「―――日本医学連盟附属武蔵小杉病院の零倫理科だよ」
◆◆◆
中目黒から武蔵小杉まで赴くのには、そこまで時間を有する事は無かった。通勤ラッシュが終わった頃であったが、車の往来は途絶えることを知らない。彼女らは電車で行くことにして、中目黒から東急東横線に乗り込んだ。引っ切り無しにやってくる列車に、時刻表をそこまで気に掛ける必要は存在しなかった。
移り行く景色を他所に、おおよそ10分で目的の地に足を下ろした。其処から北口方面に歩いて行くと、数分歩いた先に大きな病院が見えてきた。規模は大同病院よりやや小さめであったが、それでも充分に大きい。既に訪れて話がしたい旨を連絡しており、相手側も裕に承諾してくれた。中に入ってみれば、玄関口には白衣姿の職員らしき人物が1人見えていて、其れを見た時にとりは気軽そうに挨拶を掛けた。
水色のショートヘアであった点は、多少オルタナに類似している。身長は多少小さかったが、何処となく元気さが溢れていて、まるで空気清浄機のような影響力を持つ存在である事が一目見て感覚的に気づいた。
「久々だね、チルノ!」
「よお、にとり!元気にしてた?取り敢えず案内するよ」
彼女に連れられて、一行は零人理科の受け持つ一室に訪れた。行くまでに多くの関係者などとすれ違ったが、今の大同病院には見られないような活気があって、それでいて平和だと実感できるような穏便さが漂っていたのである。オルタナは非常にこれを欲していた。しかし、自らの奥底に眠る限界点が其れを打破し、世界に翻弄され続ける運命を課したのである。
部屋の中には、唐突な連絡でありながら快諾してくれた零人理科の人々が集っていた。折り畳み式のパイプ机が四角形に並べられていて、沿うように壁側に椅子が設置されている。壁には数多のポスターが張られていたが、定期的に張替えが行われているようで綺麗に整頓されていた。
椅子に座っていたのは4人で、男女2人ずつと言った具合であった。余っている椅子に座るよう薦められて、遠慮なく座るオルタナたち。此処でチルノが部屋の一番前で紹介を始めた。医学連盟附属病院の連中と大同病院の連中とでは向かい合うようにして座っていたが、医学連盟側の人々は(男2人を除いて)皆笑顔を浮かべていて、温厚な性格の持ち主である事が窺えた。
「君たちが奴らから迫害を受けているのは周知の通りさ。我々は君らの仲間だ、安心してほしい」
開口、そう言ったのは中心に座っていた人物であった。首からぶら下げているネームプレートには『レヴィナス・オーエフメディス』と書かれている。深く白の革帽子を被り、余り顔を外に見せない。オルタナから見えたのは、帽子によって唯一隠されなかった彼の動く口である。唇は色鮮やかで、穢れることを知らないような色合いを誇っている。そして彼から漂う謎の安心感は、彼女をどういう訳か安堵させる。
横に座っていたヘテロは「帽子を取って、その顔を見せてくれよ」と言ったが、レヴィナスは其れを断った。どうも彼にとって顔と言う存在は大事なようで、他人に顔向け出来るような勇気を持ち合わせていない旨の内容を弁明した。ヘテロは頷きもせず、納得のいかない調子で椅子に腰かけたが、レヴィナスは全く以て坦々としているままだ。
すると彼の右隣に座っていた、赤髪のロングヘアを椅子の横にまで伸ばす女性―――顔つきは若く、誰彼が認めるであろう美貌の持ち主―――が、そんなレヴィナスの偏屈的な頑固に対して、代わりに謝罪したのであった。流石にヘテロも止めに入ったが、彼女は慣れ行きで自己紹介を行った。
「あっ、私はこの零人理科の署長を務めてます、岡崎夢美と申します。先程はレヴィナスの御無礼、誠に申し訳なく……」
「いや、だからいいって。彼には彼なりの信念があるのかもしれない、私はタブーに触れる直前だった以上、もう触れませんから…」
ヘテロは若干気にかけていたが、夢美の憐憫にも思えるような遜った態度に興味を喪失させた。後に残ったのは、余計な真似をしてしまったという後悔である。オルタナはヘテロとレヴィナスの両者を交互に見ていたが、お互い顔を合わせようとせずにいた。どういうつもりなのだろうか?彼女は心の内でこう言った、「如何なる場合においても疑問は生ずる。ソレを聞くことに一体何の罪があるのダロウカ」と。それは不毛ある荒涼の大地で生まれた人間のように、水を追い求めるが如く人間精神を追い求めるモラリストのようなもので、彼女の中では全くの罪概念を為さないでいる。
しかし、世界は複雑である。「善くて義しい者」を礼賛する民衆も居れば、「善くて義しい者」を警戒するようツァラトゥストラは言った。結局のところ、世界は矛盾だらけなのだ。世界原理に矛盾なくとも。人間理性が、人間精神が、そして、人間元来の存在が、数多の概念を排他的に作り出し、いざとなって噛み合わない。此れほどまで情けないことはナイ―――線路の規格を考えずに電車を作り出すようなものだ。電車を作っても、線路の規格に合わなければ意味を為さない、そして『電車』と言う概念が受け持つ役割を果たさない―――それは理性、精神、実存、本質が述懐していた。アア、情ケナイ。アハハハハ―――コレダカラ人間ハ面白オカシクテ、ソレデイテ自然ノ支配者デアルト錯覚シテイルノダ―――今では殆ど誤りとされているデカルトの機械観、宇宙観はどうなった?神のもと、地動説を異端と下した存在は論証科学のもとでは正しいのか?世の中、矛盾だらけだった――何も今更、"魔女狩り"をして迫害するような連中に懇ろ同意する必要も必需も無いのデアル―――――。
「あとの2人を紹介しますね。此方は副署長のイデア・トフェスヴァルキリー、あちらは曾て研究会から名誉博士号を貰ったカイアス・レプリカント博士です。カイアス氏の名なら一度は耳にした事があるはずです」
「ああ、ある!あのカイアスさんですか!?」
天子は大きく反応した。トフェスヴァルキリーと紹介された人物は夢美の隣に座っていて、オルタナから見て一番右端に座っていた。対してカイアス博士は左端である。改めて気づいたのであったが、カイアスは周りが白衣を纏っているのに際しても黒洞々とした外套にシルクハット、スーツを纏っている。白とは対極的な色合いの服装を着ているのであるが、周囲は何も叱責しないのであろうか。
トフェスヴァルキリーは純白の白衣を纏っている。3人が白色の服装なのに対してカイアスが黒色の服装なので、部屋内でかなり際立って見える。
金髪の長い髪を下ろすトフェスヴァルキリーは、微笑を浮かべるとカイアスの人気を羨んで、開口彼へのアイロニーをぶつけた。
「相変わらずの人気者だね、カイアス」
「……ヘッ、"何時も通り"だな。お前の望むベクトルとは常に真逆に進む」
彼女に続いてレヴィナスも便乗したが、カイアスはその漆黒のシルクハットを浅く被って、ただ違う方向を向いていた。机上に足を投げ出し、何もかも放り捨てるようなラフな姿勢は傍から見ても気楽そうであった。しかし彼は寡黙を貫いた。一番前に立つチルノはこの事態に慣れ切っているようで、後追いのようにして説明をした。
「…ああ、そうだった。カイアス博士は誰かと話すのを嫌厭しているんですよ。彼の中の完璧主義ってのが許さないんでしょうね」
「えぇ~!?ネットでは話題騒然、行方が掴めないあのカイアスさんと折角お喋り出来る機会が抱けたのに……!!」
「…天子、カイアスさんは沈黙こそ正義と考える人なんだ。どんなに有名であれ、どんなに美貌であれ、彼は話す事を堕落の一歩と思っている、結構でない限り話すことは無いと思うよ。でも私たちを歓迎しに来てくれたのだから、其処は喜ぼうよ、ねっ?」
執拗に声をかけ続ける天子に、にとりが制止に入った。やりきれない顔を浮かべる彼女は頬を膨らませたが、カイアスは何も表情を変えなかった。一種のポーカーフェイスである。
するとにとりはオルタナ側を1人ずつ紹介した。夢美、トフェスヴァルキリー、レヴィナスは宜しく言ってくれたが、カイアスは何も言わなかった。どうして彼が沈黙を好むのか、その旨を聞いたノーエンデイルは夢美からこう言われたのであった。
「カイアス博士は、研究会の中でも誰一人として獲得したことのない名誉博士号を持っておられるんです。カイアス博士はあらゆる学問を修め、あらゆる真理の境地に立ったんです。インターネット上で評判になってからは彼を追いかける人達が続出し、此の病院で匿う形になったんです。―――仇名である"最も真理に近い存在"は、正しく彼そのものを顕わしているんですが、どうやら彼は沈黙を真理だと悟ったようなのです。『語りえぬものについては、沈黙しなければならない』―――そんなところです」