第16章 空気の夢
彼女は行き場のない〈嗤い〉に自身を崩壊させそうになっていた。何処も自己の情念、思考が飄々とした佇まいで蔑んでいるのだ。ただ本質だけ良ければよく、他人行儀なぞ知らん振りの彼らは、毅然、気概などの一切を持ち合わせておらず、且つして偉そうな態度を取るのだから笑止千万だろう。
その事に対しての〈嗤い〉なのだろうか。それは彼女にも分からずにいた。否、"分かりたくなかった"。差し詰まったような縷縷たる感情が不完全の意識の中で鬩ぎ合うのだから、これほど困る事はなかなか起きないというのが現実だ。
彼女は日の出を大同病院の一室から見た。テレビではニュースキャスターが青梅で起こった出来事のことを声高に話している。それを他所に、オルタナは再びベットに寝転がった。
純白な生地は、彼女を暖かく包んだ。大の字で背を伸ばす彼女は天井を見つめては、ぼんやりとしていた。疲労や疲弊といったものではなく、彼女自身の意識のうちであった。
脇に設置されてあるテーブルの上には、大同病院に帰ってきた時に寄ったコンビニで買った、賞味期限が切れそうなチョコのパンと缶コーヒーが置いてある。パンに関しては訳あり商品として通常価格より割引されて売られていたので財布にも優しい。まだ栓を開封されていなかった缶コーヒーを開け、朝食としてパンを食べる。チョコの風味が口の中でパンと共に蕩けて美味しい。それに加わってコーヒーを飲むと、すっきりとした感覚が咽を爽やかにしてくれるので心地が良い。
ふと懐のスマホが揺れ始めた。缶コーヒーを机上においてはスマホを手に取り、応答した。電話通知が来ており、相手は白河であった。
昨日見捨ててしまった彼からの連絡に、彼女は霊怪さに近い疑念を抱いたが、それよりも彼が無事だったという安心感の方が割合高く、すぐさま高揚して電話に出た。開幕早々、電話口の向こうから聞き覚えのある声が響いた。
「オルタナ、元気か」
「元気サ、こっちは。しかしそっちはどうだい?」
「なかなか居心地悪いね。気分悪し、と言ったところかな」
彼は少々の諧謔を挟める精神であったため、彼女はそれ程に拷問などはされていない事が咄嗟に理解出来た。そして、淡くも彼を助けられるかもしれないという根拠の無い希望が心内を埋め尽くす。アオコのように大量発生しているので、除去するのにタチが悪い。
「しかし、驚いた。アリスが向こう側と通じてたなんてな」
「アリスが…通じてた?」彼女は耳を凝らした。
「そう。アイツは表向きは零倫理部の総括だけど、裏では零倫理研究会が派遣した研究者らしい。見た感じ、異常にオーウェンを崇拝していて気味が悪いさ」
彼は電話口の向こうで痰を吐いたような音を出した。
「じゃあ、最初からアイツはスパイだったってこと?」
「それが答えとはまだ言えないけど、今の状況で最も考えられる可能性は正しく彼女のスパイ行為による情報漏洩だろうな。全く、えげつない真似をしでかしてくれるものだ…」
「もしかして、只見に行く時にワタシにやたらと嫌がらせ行為をしてきたのは…?」
「嫌がらせの件は知らないなぁ。だけど、アイツが研究会側の人間であること、そして俺らを最初から裏切っていたのは事実らしい。…アイツは元からこうなると分かっていたのかもな」
どうこうを話していくうち、彼は状況の云々を赤裸々に語ってくれたのであった。先ず、白河と魔理沙は同じ研究室で働かされられており、監督としてウェーバーが就いていて見張っている。
彼はサーカムフレックス体であるオルタナとヘテロについて無理やり研究させられているらしく、荒唐無稽な作業を監督下のもとさせられているので気分が悪いと言うのだ。
そもそも彼ら彼女らが零倫理に携わる身として敵側の研究者を取り込むのには何かしら理由があるとしか考えられないのだ。何故なら、敵側は敵側だけで、わざわざ捕虜同然にした研究者を扱き使う必要は無いからである。そう考えると、研究会側とて深い狙いがあると考えやすい。彼女は白河の話を聞いていくうち、それらの辻褄から演繹、類推した矛盾律的疑念を抱いたのであった。
「しかし、どうしてワタシに電話を…?」
「その事だが、ワタシとヘテログロジアが繋がっていることをオーウェンに見つかってな。すぐさまヘテロがお前のと代用に繋いでくれた」
「没収はされなかったノカ?」
「没収はされないね。何せスマートフォンは零倫理を研究する上で欠かせない代物だからな。代わりに特定電波をジャックする電磁波を張られた。だからお前としか連絡し合えないワケさ」
すると電話口の向こうで、白河以外の人物であろう声がしたのであった。彼女はそれを間違いなく聞き、背筋に走る悪寒と共にこれから何が起こるのかという不安が巻き上がった。
きっと白河も秘密裡に連絡してくれている―――誰かに見つかれば大変な目に遭う―――そう言った頭の中の固定概念的思考が彼女を束縛し、緊迫させ、桎梏のように纏わりつくのである。こうとなれば厄介以外の何物でもなく、数分前の自分を羨ましく思えるのだ。
その声は何処かで聞き覚えのあるものであった。一時的に白河は電話口を離れ、その声の主と会話していた。相手は監督のウェーバーであったのをオルタナは悟り、確信に至らせた。
やがて彼は電話口に戻ってきては、先程より声を細めて通話を再開させた。白河は既に意気粛々としており、ウェーバーにどのようなことを吹き込まれたかは分からないが、それこそ脅しだの予告だの、倫理的にも道徳的にも非道的な方法を使ったのだろう、とある程度の憶測は彼女にも出来た。
「…不味いことになった。もしかしたら、この電波も露呈されるかもしれない。最後に一言だけ言わせてくれ、警察にこの事を言ってはいけない」
「ど、どうしてダ?」
「オーウェン曰く、警察は既に買収しているらしい。だから警察も狙ってくるに違いない。下手に通報して真逆の結果になったら笑いたくても笑えないぞ」
あの警察も、研究会側と化したノカ。彼女は警察と言う組織に対して抱いていた揺るがない信頼を一瞬で崩壊させた。
倒錯される感情。弄ばれる正義。喪失した夢。この世界には何が正しくて何が間違いなのか、それさえ当たり前だと思えるような事まで不可解に介して幻滅してしまうように思えた。
白河の言っていることは多分、本当だろう。このような場で嘘を吐くような人間ではない、と思う根拠の無い自信がそれの立証者となっていたが―――分け隔て無く、そう言った物々が彼女の内奥を占め渡るので気分が悪い。
「兎に角、だ。警察とマスコミには気をつけろ。奴らはサーカムフレックス体であるお前らを餌に動いている。下手な真似はするな。俺らのことは心配しなくていいから、自分の身をしっかりとな。じゃあ」
それを最後に通話は切れたのであった。
◆◆◆
先程白河から聞かされた事々をヘテロやにとり達に話すと、彼ら彼女らは非常に驚いた仕草を見せつけ、同時にアリスに対する憎悪が湧き上がってきたのであった。
また、警察にさえ頼れない現実に不条理を抱き、行き場のない怒りが悉く沸騰するのだ。捕まっていた他の病院関係者にも言うと、彼らはその事を誓い、そしてサーカムフレックス体のせいでこんな面倒に巻き込まれたのだというオルタナやヘテロに対する偏見を傍らに、そのまま家々に帰っていったのである。
口々に悪口を言われたら誰だって快いとは思わない。増してやオルタナなら尚更である。彼女は穏健な佇まいを見せておきながら、内心は揺れやすいので、自分の存在を憎み、にとりに勧誘されたあの時の自己を殴打したくなった。だが、それは叶わぬ夢である。
残ったのは天子、にとり、そしてオルタナ、ヘテロ、ノーエンデイルの5人である。パチュリーはホテル業の事もあるので、そのまま早朝の電車で帰って行ってしまったが、天子は自ら残りたいと彼女に申し出たので、仕方なく許可を貰ったという展開である。
異口同音、大体の口から出る言葉は決まっていた。皆が家に帰っていって病院内が静まると、オルタナは両手で顔を隠し、悲泣に暮れた。自分の不甲斐なさ、疎外感、ありとあらゆる絶望の具視。情けなさが滲む。常に〈存在者〉は存在していたので、穴に入りたくても入れない。穴の前に大きな「自分」と言う壁があって、相場は既に決まっていた。
そんな彼女をヘテロとにとりが慰めていた。背中を丸め、弱々しい声を上げる彼女の肩を優しく叩き、落ち着かせんとした。遠く、壁には寄りかかったノーエンデイルが葉巻を吸っている。天子はこの状況に慌てふためいて、居心地悪そうにしては暇そうなノーエンデイルに話しかけた。
「…この後はどうする、ノーエンデイル」
「俺に聞かれても困るな」
彼は吸っていた葉巻の火を心地悪そうに消した。
「俺とてノルヴィル型のサーカムフレックス体だ。イシュゾルデ型とは確かに型が違うが、奴らの狙いのカモに過ぎない」
「だけど、このままでは再び奴らの手に…!」
「…正直なところ、白河と魔理沙を奪還するのは過酷な話だ。俺らの脱出を受けて、もしかしたら別の場所に移動させられているかもしれない。だから――これは飽くまでも俺という一人の存在の意見にしか過ぎないが――組織の全貌を解き明かし、真実を世間に訴え、世論を変えることだと思う。だから、全日本零倫理研究会の中を解き明かすことこそ、今の俺らに出来る手段法則ではないのか」
彼は演説口調で、それでいて流暢に自分の意見を述べたのであった。それに際してオルタナは泣くのを止め、彼の方向を見上げた。横にいた天子は、彼の真っ当な意見に納得していた。
ノーエンデイルは新たな葉巻を吸い始め、天井の空調設備に向けて煙を放った。もくもくと立ち昇る白煙はやがて設備の中に入り込むようにして、断続的に掻き消えていく。彼はその煙の純白さを顔色にも顕示させていて、徐に煙の行方を目で辿って見せた。
「世界を根本から変えるんだ」