第15章 形成的実存の呪い
彼は徐に戦車に乗り込んでは、その重厚感放つキャタピラで動き出したのであった。
既にロンメルゴーストの姿は戦車の中に韜晦されており、ただ広々とした公会堂の広間は一瞬にして恐怖の色で染まり上がった。
後ろに避難する研究者たち―――彼ら彼女らは常に怯え、堪らず恐怖の音色を奏でる者も存在していたが、"彼"がそれを許さなかった。
脇に備え付けられた2つの副砲のうちの1つでそんな彼らを撃とうとするが、4人が買って出た為に副砲は忽ち向きを変えたのであった。
重たい装甲を身に纏う戦車は轟音を怖気の悲鳴として代弁させており、狂気を倣った眼光が主砲から覗かせている。
「…まともに戦って勝てる相手では無い。確かここには、迎撃用として武器兵器があったはずだ!」
「そうなの、ノーエンデイル!?」
「ああ、そうだ!俺は結構な間ここに配属されてるからな……俺が取りに行く!何としてでも、俺が戻ってくるまで気を引け!!」
そう言うや、彼は全速力で闇の中へ姿を晦まし、主砲の狼煙は3人に手向けられた。
天子は剣を持っていたが、両足ががくがくと震えを見せており、目は虚空のうちで枯れきってしまっていた。剣を持つ手も小刻みに震えている。
だがロンメルゴーストはそんな事など知った事では無いと威勢良い姿勢を見せ、早速その副砲で3人目がけて射撃したのであった。弛緩しきっていた天子は、其れにさえ茫然としていて感付かない。
すぐさまオルタナが彼女の手を引っ張って、回り込むように逃げた。ヘテロは反対側に逃げたが、副砲はオルタナの方を追いかけていた。
追尾する銃弾。間隙さえ見せないような弾が引切り無しに背後を追いかける。其れには死をも超越した恐怖が滲み、そして隠されていた。それでも天子は恐怖で神経が捩じ切られたように心が死んでしまっていた。
狙いが一極化している最中を見限ったヘテロは、反対側から戦車の装甲部に乗り上がった。キャタピラを越え、主砲部分に身体を持ち起こさせ、彼が入っている中へ乗り込もうとしたのだ。
しかし彼はすぐさま気が付き、一時的に副砲の狙撃を停止させ、ヘテロに向けて迎撃用の備え付けマシンガンを操作した。これを彼女は簡単に躱しては地面に降り立つが、天子を降り立ったヘテロに預けて、今度はオルタナが攻撃を仕掛けた。
彼女は剣を構えては一時的に銃撃が止められた副砲に、落ちていた石をそのまま銃口に突っ込んだのであった。
戦車の中の彼は咄嗟に副砲の引き金を引くも、嵌められた石によって銃弾は暴発、其れが一発ならまだしも、連射属性を持っていたため、暴発が繰り返されて副砲は使い物にならなくなってしまった。
返り弾が戦車内で飛び交うも、何とかして避けたロンメルゴーストは反対側に備え付けられた副砲で狙いを定めた。しかしオルタナの攻撃も、まだ終わっていなかったのである。
彼女は反対側の副砲に、今度は自身の剣を差し込んだのであった。引き金が引かれた副砲は、差し込まれた剣によってまた暴発し、今度は軽度の爆発が発生した。
剣はそのまま空中を舞い、刀身が幾らか欠けただけであったが、砥げばどうにでもなるような傷であった。余り荒い真似はしたくなかったが、戦車を生身で戦うに正攻法で勝てる業を彼女は知らなかった。
2つの副砲を破壊され、2回も返り弾を避けることになった彼は、戦車から身を乗り出させては、眼下の3人に睨みつけるようにして言い放った。頭にはベレー帽の代わりにゴーグルが付けられていた。
「私の愛車によくも…!」
ここで彼の言葉を聞いた天子が、急にハッとして目を覚まし、視界に映え出された光景を見据えた。
其処には金髪の彼が、横に居た寡黙な女を憎悪の念で睨みつけていた。彼女は露骨な敵愾心が突然に燃え上がり、引っ張られていた手を解いた。
オルタナが振り返ったが、彼女は心配要らずの情を態度で誇示した。深紅の刀身が燃え上がる。非想非非想処の色合いだ―――彼女はその色鮮やかな剣を君臨する巨人に臆する心を捨てて立ち向かったのだ。
目を覚ましたことを把握した2人は、主砲とマシンガンだけを残した戦車に対して戦う意思を見せつけた。
「…さて、本気で行くよ!」
天子の溌剌した声が空間に木霊した時、憤怒の最高潮に達した彼は、顔面を赤にしては再び戦車に乗り込んだ。
彼女の持っていた、全く以て根拠の一切の無いような自信をパズルのピースを崩れ落とすように完膚なきまで破壊してやる……彼はそう思い込んでいたのである。
だが、その考えも根拠のないものであった―――しかし依然として彼は其れに気づかない。ただ心の内で、自慢の愛車に傷つけた仕返しがしたい、それだけであった。
オーウェンに雇われた時、まさかこんな接戦になるとは考えていなかった。彼が乗り込んでから、既に数十分は経過したであろうか、主砲で公会堂の中にも関わらずブッ放したが、蠅のように素早く、また、蜂のように攻撃してくるのだ。
装甲に剣の刃で傷付けられた時には我慢の限界で、否、時既に我慢なんてものは死に絶えていたが―――彼は一回、戦車外にも聞こえるような叫び声を上げた。其れは悲情の念の顕れであった。
幻聴だ、幻視だ、其れは彼に対して取り留めのない破壊をもたらした。やがて、脳裏に浮かんだのである―――懐かしみと柔順溢れた笑顔が……それもまた、取り留めのないものとして……。
――――声の無い叫びだった。彼は、声の無い叫びを上げたのであった。
主砲から既に何発も弾が射出され、凄まじい轟音を立てては公会堂の壁々を破壊していくのに、一向に狙いは生きてのさばっている。
この時、自分が何も出来ない無力感に襲われ、同時に更なる瞋恚と憤りの霊性が沸き上がってきた。しかし彼はリヴァイアサンでは無かったのだ。だが、リヴァイアサンに似たようなものであったと言えよう。
彼は3人に向けてマシンガンで断続的に襲撃した。ただ逃げ回るだけの3人は、バラバラになって散らばったが、何丁も備えられていたマシンガンを操れば1箇所に纏められた。
副砲が破壊された時の威勢のよさは喪失していた。ヘテロが転び、纏められていた他の2人も連綿として転倒した。
怒りが沸き上がっていて、どうしようもなかった彼の前にまたとない機会が出てきた……すぐさま自慢の主砲で、3人に狙いを定めて撃とうとしたのであった。3人は死を覚悟した。
しかし、突然戦車は何者かの攻撃によって被弾し、大きな揺れを蒙った。主砲の狙いを正確に定められない状況に置かれた彼は、咄嗟に外界を見た。
其処には、かのノーエンデイルが何処からか持ってきたバズーカ砲が4丁、丁寧に用意されていたのだ。
「…これを使え!奴には効果覿面だ!!」
すぐさま3人は、彼から渡されたバズーカ砲を構え、戦車に立ち向かったのであった。
血汗が滲むロンメルゴーストはすぐさま主砲を展開させようとしたが、4人の持つバズーカが其れを許さない。どんなに赫々した態度であっても、強制に突っ撥ねるのだ。
長年共にしてきた愛車は、それらを前に敗北を機するしかなかった―――と言うのも、攻撃する暇さえ与えられなかったのだ。
主砲はバズーカ砲の猛攻によって大破、駆動部も破損し、存大な被害を受けていたのは一目瞭然と化するまでなっていたのである。
彼は脱出した。同時に付き添ってきたクルマは攻撃によって破壊され、その頑強な装甲をも相手にしない恰好で、思い出を破壊された。それは一瞬の事象であった。
既に見る影も形も無くなっていて、だが迷彩服の自分だけが空間に取り残されていただけであった――――。
「……観念しろ、ロンメルゴースト!!」
そう言われた時、彼は反射的に逃げていたのであった。
深夜の宵闇の中、懺悔の念を抱きながらも逃走し、その背を向けてしまったのだ。此れは彼にとって、プライドや威信を傷つけられた何物でもない存物へと為り得たのであった。
◆◆◆
「なんとか撃退に成功した。しかし、このままではオーウェン達に連絡されて再拿捕がオチだ。何とかして全員で逃げるしかない」
戦闘の後疲れで息切れを起こし、過呼吸でありながら言葉を続けたノーエンデイル。彼は持っていた自前の剣を片手に、杖がわりにして体重をかけては、疲弊の色を覆い隠すかのように「力への意志」を見せつけた。だが顔色は不良好、やはり運動は苦手なタイプだからであろうか、彼という人間…否、ノルヴィル型サーカムフレックス体の存在を新鮮且つ明白な味に仕立てあげていた。
彼の言葉に、オルタナは即座に違和感を感じた。このままではアリスと離れ離れになり、聞きただそうとしていた真実が虚ろの夢になってしまう。一種の危機管理能力にちかい反射神経がそれを応え、灰色の空に向かって慨嘆した。現実は、そこまで〈非情〉なものであった―――シーシュポスの神話なのか―――彼女は開き直りに近い笑顔と、不意に滲む憤怒の念が玉石混淆して出来上がった、不思議な表象が「顔」となって顕れていた。
「だけど、魔理沙と白河はどうなってしまうんダ」
「一旦は皆と共に脱出することが優先だろう。今更呑気に書生論を語っている場合なのか?」
ノーエンデイルは後ろ側で震えに震えを重ね、先程まであった闘いを脳裏に延々と記憶し続けていた彼らを見渡した。彼は見渡し終えると、不思議と暗い表情を浮かべ、そして自己の述べた意見に改めて確信したのであった。―――最良、とは言えないだろう。然し、この紆余曲折あった状況で類論的な常軌が利くとは思えず、而して功利的論理に一旗を上げたほうが結末論を重視していると考えたからだ。彼は、それら全ての理論を脳内に凝縮し、内包した上で、そう言った。
彼の、その威圧的なものさえ感じ取られた顔に一切を感じて、畏怖のようなものが心の内で生まれてくると、オルタナはそれに準じて動くことを潔しとさせた。ヘテロと天子も同じ答えに至ったようで、4人を含めた彼ら彼女らは研究会所有のトラックを強奪し、そのまま深夜の闇へと姿を溶かしたのであった。
肋屋、掘っ立て小屋のように粗末な感覚が否めないトラックの荷台の上、上には雑然とビニールシートが張ってあって、風に揺られて音を出すので眠るに眠れない。
壁に寄り掛かっては、夜遅くの闘いに疲れの音を出すオルタナ。その横にやって来たヘテロは、身を屈めるように低くしては不意に起き上がって彼女を驚かさんとした。しかしオルタナは何一つ表情を変えることなく、ただただ〈絶望〉という名の病に伏していた。美的実存を捨て、倫理的実存を捨て、宗教的実存に至ることもなく呪われた存在の、死の先駆さえ否定するような―――無論、それはあらゆる実証を研鑽し上げた結果を頑なに受け入れない態度ではないが―――オルタナはヘテロに向かって、徐に手を差し伸べた。弱々しい葦のようで、それでいて大木のようにしっかりとしたものであった。
「『神の同情にせよ、人間の同情にせよ、同情は厚顔無恥である。助けようとしないこと、それは助けようとすぐに駆け寄って来る徳よりも、高貴でありうる』―――」
「開き直れたのか、オルタナ」
「分からない。だけど、昔の言葉を良く思い出す。―――『人間の血管のなかに、腐って泡を立てている沼の血が流れているのではないか。だから人間は醜くカエルの鳴き声をあげ、誹謗ばかりしているのだ』…とかね。我々は醜く、それでいて幼い。だから、せめてワタシという自己は心内満足の標定として、開き直ろうと思ッタ。何でも、このままじゃ絶望に暮れそうだし」
病は気から論を述べて見せた彼女に、ヘテロは理解出来たような気がした。単純なる同情の作業ではなく、理性に従った故の超自我だった。そう考えると、今のオルタナのいる〈境地〉は、自分の遥か先の世界線を行っているのである。
別段と嫉妬や憐憫の念は生まれてこなかったが、自分という自我に情けなさを感じ、ソクラテスに無知の知を諭されたソフィストのような気分に浸っていたのである。ヘテロは差し出された右手を数秒間、両手で固く握り、それから暗く笑って見せた。
「…やっぱりお前は凄いよな。今でも私は罪深さに駆られてるのに、お前はそれを超克しているんだから」
「皮肉なのカ?」手を下ろしたオルタナは言った。
「皮肉もいう元気さえ無いね。あるのは空になった心と、消えかけている自我だけさ……」
夜の静けさを、トラックの駆け抜ける音が壮大にどよめきさせた。轟く雷光は道筋に並行で迸り、徐々に橙色が現れ始めている空の下を駆け抜けた。
運転席に座っていたノーエンデイルは、助手席に座っていた天子からガムを一つ貰い、眠気覚ましとして口に放り込んだ。咀嚼する度にひんやりするような辛苦が口内を占め渡り、閉じかけていた瞼が自然と開く。2人の間では、行き先として東京大同病院を示したカーナビが煩く啼いている。
青梅を過ぎ去り、立川、国分寺を経て行くトラックは、やがて中目黒の街にへと繰り出した。懐かしみさえ覚えるその街は、やはり彼女たちにとってホームタウンみたいな場所であった。