第九話
とてつもなく眠い。少しは寝たはずなのだが、気づけば朝だった。
今日は休みたいくらいなのだが、休むわけにも……そういえば俺の休みってどうなっているんだろう?
毎日家事をしているが、休日は定めていない。というか、休める日はあるのだろうか?
……ま、まぁ休みたくなったら休めばいいよね。三人にだって、事前に話せば大丈夫だろう。
一日くらい掃除しなくても大丈夫だと自分に言い聞かせつつ、俺は起き上がった。
しかし、すぐに異変に気付いた。おかしい、部屋の配置がなにか違う。
本当に些細なことだった。机の上の小物が動いていたり、少しだけ押入れの扉が開いていたり。
うーん……こりゃマオさんかキューさんの悪戯だな。変なことがあったと思わせて、俺を驚かせようとしているんだ。
納得して居間へ向かおうとしたら、扉の先に妙な感じを受けた。首を傾げながら開いてみると、そこには何もいない。
なぜか、昨日の夜のことを思い出す。俺は首を振りながら、あれは夢だと言い聞かせて部屋を出た。
廊下へ出てすぐに、黒い甲冑を着こんだ大男と、体に派手な毛皮を巻いた小男と遭遇した。
「おはようございます、早いですね」
「おう、おはよう! 今日は朝から会議だ。あいつらぐだぐだと、関係ない話で会議を長引かせるから嫌なんだよなぁ」
「おはよう。うちも今年は不作でな。どっかの種族から奪い取るかって話が出ていて、忙しいんだ。ギヒヒッ、トップってのも辛いもんだ」
奪わず働けよ! と心の底から思いはしたが、あっちはあっちこっちはこっち。この世界とあちらの世界が違うことくらいは、嫌ってほど分からされている。
軽く手を振り見送ろうとしたら、ゴブさんが楽しそうな顔をしながら俺を見た。
「今日は頑張れよ、ギヒッ」
「……いつも頑張っていませんかね?」
「今日は特に大変だってことだ。じゃあ、俺様たちは行ってくるぜ!」
なぜか二人は逃げるように、その場を後にした。
早すぎる出勤、逃げるような態度。昨晩と朝の違和感のせいで、気づくべきことに気付けなかった。
居間へ入った俺は、それを理解し後悔することとなる。
「なんじゃマオー! 注がんか! ゴブ、つまみはどうした! 妾の話を聞かんかー!」
ソファの上には、片膝立てて全身を真っ赤にしている狐美女がいる。手には大きな盃。これは駄目なやつだ。
俺は全てを理解し、そっと扉を閉じ……ようとしたら、尻尾が腕に巻き付いていた。遅かったようだ。
蟻地獄へ落ちた蟻の様に、俺の体は居間へと引きずり込まれる。そしてぽよんとした柔らかい大きな双丘へとダイブした。うへへ、役得かもしれない。
そうじゃないだろと思い、恐る恐る顔を上げる。そこには完全に目が据わったキューサンがいた。まさか、一晩中飲んでいたのか? そうではないと信じたい。
この場から逃げる方法を考えながら、俺は当たり障りのない挨拶をした。刺激したらいけないと、本能が言っている。
「キューさんおはよう」
「……注げ」
「はい……あっ! そういえば、おいしいお酒を隠してあるんですよ。今、注いできます」
「ほほう! オーヤは馬鹿二人と違って分かっておるのぉ。妾は嬉しいぞ」
台所で俺は、盃に零れない程度の水を入れた。どうせ酔っぱらっているから、味など分かるまい。そう思い、酔いを醒まさせることを優先した。
とても嬉しそうな顔で受け取るキューさんに、盃を渡す。
少しだけ悪い気持ちもあったが、飲み過ぎは良くない。酔いが醒めれば感謝されるだろう。
……しかし、一口飲んだキューさんは眉間に皺を寄せた。
「水じゃ」
「え? いやいや、水の様に透き通るお酒なんですよ! 高いお酒っていうのは、得てしてそういうものでして」
「水じゃ!」
酔っ払いとは感情の制御ができないものである。ぐでぐでのキューさんにも、もちろん当てはまっていた。
水を飲まされ怒ったキューさんは、俺に水をかけようとする。だが、ばしゃりと水は彼女自信にかかった。
キューさんはぽかんとしているし、俺もぽかんとする。なんだ今の? 彼女は俺に水をかけるような素振りをみせた。なのに、気づけば水を被っているのはキューさんだ。
さっぱり分からず首を傾げていると、キューさんが怒り出した。
「……ちょっと水をかけるフリをしたからと言って、妾にかけないでもいいじゃろ!」
「俺はかけていませんよ!?」
「腕をぐいっと押したではないか! オーヤの馬鹿者ー!」
覚えのない罪を着せられたが、とりあえずタオルを持って来るのが先だろう。
俺はキューさんを少し宥め、洗面所へと向かった。
洗面所へ入り、急ぎタオルを用意しようとする。棚へ手を伸ばすと、なぜか積み上げていたタオルが崩れ落ちて来た。
あぁもう、後で直せばいいか。面倒なことが重なるものだとは思ったが、まずは拭くのが優先。洗面所を出て居間へと戻ることにした。
廊下をぱたぱたと急いでいたのだが、俺はバランスを崩した。
お、おぉ? 危ない! ギリギリのところで踏ん張り耐える。バッと後ろを見るが、誰もいない。
今、足首を掴まれた? 急に右足首を掴まれ、前に進まなくなった気がする。
しかし、靴下を捲ってみても痣などはない。
違和感がある足首を擦りつつ周囲を見回していると、居間から声が聞こえた。
「オーヤ! タオルー! ずぶ濡れじゃー!」
「分かってますよ! 今、行きますから!」
俺、足を悪くしたのかな? 時間を見つけて、病院へ行ったほうがいいかもしれない。
もう一度だけ足を擦った後、俺を呼ぶキューさんの元へ急ぎ向かった。
キューさんへバスタオルを渡し、俺はソファと床を拭く。だがタオルで拭いてどうなるものでもなく、あまり効果は無かった。
ドライヤーでも持って来て地道に乾かすか? そう考えていると、風呂から出たキューさんが二枚の符を出していた。
「こっちは火、こっちは風。調整して二つを使う。すると……」
二枚の符を投げ、パンッと彼女は両手を合わせた。ソファを囲むように、妙な風が流れているのが分かる。
これ触れても大丈夫なんだろうか? キューさんのほうを見てみると、うんうんと頷いている。
許可が出たので、俺は軽く指先で風へ触れてみた。……生暖かい。
「どうじゃ、これで問題はない」
「乾燥機要らずですね」
「くっくっくっ、分かったら酒じゃ! 飲まなきゃやってられん!」
「お酒は終わりです」
そう伝えると、彼女は絶望したような顔をした。どれだけ酒を飲みたいんだ……。
「飲ませろ!」「飲ませて!」「飲みたい!」という猛攻を防ぎ続けた結果、キューさんはソファで横になって寝てしまった。
我がままな子供みたいだ。少し頬を掻き呆れた後、薄手の毛布を持って来て掛けておいた。
さて、それじゃあ今日も家事を頑張りますかね。
――深夜、妙な音で目を覚ました。
ジャギッジャギッという金属を擦り合わせるような異音だ。
起き上がり電気を点ける。……しかし音は消えており、音がしていたであろう壁にも問題はない。
気のせいだと思い、仕方なく横になった。だが今度は廊下から笑い声が聞こえる。小さかったが、確かに聞こえた。
また起き上がり電気を点け、扉を開き廊下を覗き込む。……暗闇の中には誰もいなかった。
こんなことを二日間続けた。正直、満身創痍だ。
疲弊し切った俺は、夜に三人へ相談することを決めた。変なことを相談するのなら、打ってつけの三人組がいるからね。
「あの、三人にご相談があるんですが……」
「ギヒッ? どうした?」
「そこ白! 絶対白じゃった!」
「黒だったろうが……。負けたくないのは分かるが、ルールを捻じ曲げようとしてんな」
うん、聞いてくれているのはゴブさんだけだが、いつものことだ。オセロで盛り上がっている二人は置いておき、俺は彼へと向き直った。
さて、まずは何から話そう? 最近変な感じがする? 妙なことが起きる? 夜、眠れない?
ふーむ……全部言えばいいか。別に隠す必要もなく、全て打ち明けることにした。
話を聞いたゴブさんは、顎に手を当て考え出す。俺もただじっと彼の答えを待つことにした。
ゴブさんは、ふと顔を上げる。そして見たのは二人のことだった。
「マオ、キュー。オーヤの周りで変なことが起きているらしい」
「俺様じゃないぞー」
「妾も違うぞ。……マオ、それは待ったじゃ」
「五回目だぞ!?」
「ギヒッ、あいつ帰って来てないよな?」
ぴたりと、オセロをしていた二人の手が止まった。あいつとは誰のことだろうか? 帰って来たということは、まだ他にも住人がいる……?
俺だけが誰のことか分かっていない中、二人は顔を合わせた後に笑い出した。
「ないない! あいつが帰って来てたら顔を出すだろ」
「一緒に風呂へ入っていた妾が知らないのに、帰って来ているわけがなかろう。いい歳して、一人で風呂に入れんからな」
「そうか、違うならいい。ギヒッ、ならどういうことだ?」
二人は帰って来ていないというが、俺の頭には一人の人物が浮かんでいた。
ここ最近の異常は、あの少女と出会ってから始まっている。もしあれが寝ぼけていたからではないとしたら……?
聞いてみる必要は十分ある気がした。
「ゴブさん、それって片目を隠している黒髪の少女ですか?」
「……ギヒヒッ、オーヤはそいつをどこで見た?」
「数日前、二階の廊下で」
「わたしのこと?」
「あ、そうそう。この子です」
ちょうどいいところに……え? 俺は慌てて横を見る。そこには、不吉に笑う少女がいた。
あの夜、暗闇の中に消えた少女。彼女が俺の前へとまた現れたのだ。




