第一話
社会に出て三年。朝起き、家を出て、仕事をし、帰って寝る。
最初はこの絶望的なループに頭を抱えた。涙を流し、会社に行きたくないと呻いた時だってある。
しかし、三年も経てば慣れるもので、心が死んでいるかのように動くことができた。どんなに行きたくないときでも、家を出て会社につけば働けるものだ。
それを理解した社会人三年目。少し早めに会社へ着いた俺を待っていたのは、扉の張り紙を眺めて、固まっている上司だった。
なぜロックを外して中へ入らないのだろう? 不思議に思いながらも、挨拶をした。
「おはようございます」
「大谷くん……逃げられたよ」
「はい? 逃げられた? 誰か仕事を辞めたんですか?」
俺こと大谷 幸を上司は、ギギッと鈍い動きで見た。そして言ったことが逃げられた、だ。
こう言ってはなんだが、急に来なくなる人なんて珍しくも無い。そのことを俺は悪いとも思っていなかった。
よく三年耐えろと言うが、三年耐えたらどうなるのか? 合わない中、無理に三年働くなら違う仕事を探した方がお互いのためだろう。
三年目を迎えた俺が言うのだから、間違いない。何ヶ月経っても行くのが辛いならば、辞めればいいのだ。
……とはいえ、そんなことは上司も分かっている。普段ならば顔を真っ赤にして怒り出すか、がっくりと項垂れているはず。
しかし、今日は違う。顔を青褪め、唇を震わせていた。
一体なぜこんなに焦っているのだろうか? そんなことをしている暇があるのなら、建前でも逃げた社員に連絡をとったほうがいいと思うのだが……。
異常とも言える上司の様相に不安を感じ、震える指で差している張り紙を、俺も確認してみることにした。
『当社は倒産いたしました。探さないでください。
社長 ○○ ××』
これ以上無いほどにシンプルな文章が、張り紙には書かれていた。
その後、俺にとれた行動は上司と同じ。震える指で張り紙を指差し、上司と顔を合わせることだけだった。
続々と出社する中、今日は仕事にならないと判断され役職持ちを残し、自宅へ帰宅させられることになった。
電車の中で、流れる景色を見ながら考える。外が明るいうちに帰れる、今日は帰ったらなにをしようか。……などと思えるはずはない。
頭の中にあるのは、今後どうなるのか分からないという不安。そして少しだけの解放感だった。
仕事がなくなる不安はあるのに、多少の蓄えがあることで、働かなくていいという気持ちが捨てきれない。
焦るべきなのだろう、すぐに仕事を探すべきかもしれない。
だが、まだ連絡が無い。帰宅の最中だ。結果が分かるまで、勝手な行動は慎もう。
ぐるぐると頭の中で思考が回る中、俺は一つのことに気付いた。
どうやら冷静さを失っているらしい。今、考えても何も思いつかない。ならばどうする? ……帰って寝るべきだ。
寝るということは、悲しみや辛さを忘れさせてくれる。記憶の整理だってしてくれるので、今の状況には打ってつけだった。
気付けば自分の家へ帰っていた俺は、ジャケットを脱いでネクタイを外し、そのままベッドへ倒れ込んだ。
――数日後。
結論から言おう。会社はどうにもならなかった。
仕事は無くなり、退職金どころか今月の給料すら出るか怪しい。楽しいハローワーク生活も目の前だ。
正社員としての仕事を探すか? 同じ職種の仕事? まずはバイトをする? 家賃はいつまで払える? 生活費の余裕は? 貯金を切り崩して何ヶ月生活できる?
考えることばかりあるのだが、何もしたくない。そう、俺は現実逃避に近いことをしていた。
実家に戻ったほうがいいんじゃないか? ここで一人暮らしを始めたのだって、仕事のため。なら、実家に一度戻って仕事を探すほうがいい。
事前に話はしており、実家に帰るかもしれないと、両親には話してある。今後のことを考えても、実家に帰るのは最善だと思えた。
とりあえず母に電話をしようと思い立った、その時だ。珍しい人から電話がかかってきたのだ。
何かあったのだろうか? 不思議に思いながら、俺は電話に出た。
「はい、もしもし? 爺さん?」
『おぉ! 幸か! 会社が潰れたと聞いたぞ? 世知辛いのぉ』
「本当に何があるか分からないよね」
乾いた笑いで祖父へと返事をする。祖父は70歳にも関わらず、元気一杯な爺さんだ。
俺は小さいころから爺さん婆さんが好きで、年に数回は顔を合わせていた。
大変だと思い、気を遣って電話をかけてくれたのだろう。その温かさが身に染みる。
少しだけ目元が潤んでしまい、慌てて拭った。
『で、次の仕事とかは決まってないんじゃよな?』
「まぁさすがにね……とりあず、実家に帰ろうかと思っているよ」
『そうかそうか、ちょうどいいじゃないか!』
ちょうどいい……? 爺さんの言葉を、俺は訝し気に聞く。仕事が無くなって大変だと言うのに、少し嬉しそうに話している。
もしかして、俺が勤めていた会社は有名なブラック企業とかだったのだろうか?
給料は確かに少し安めだった。残業もそこそこあったが、残業代はきっちり出してくれている。
そこまで悪いとは感じていなかったのだが、一体どういうことだろう?
爺さんの真意が分からずにいると、電話口から声がかけられた。
『おーい、返事が無いけど聞いとるか? ちょっと頼みたいことがあるんじゃ! 仕事じゃぞ、仕事!』
「え? 仕事? 爺さんが紹介してくれるの?」
『はっはっは、紹介っつーわけではないんじゃがな』
俺は慌ててペンと紙を取り出した。渡りに船とは、このことだろう。
何も考えられず、とりあえず実家に帰ろうとしていたのに、次の仕事がさっくり決まりそうなのだ。
まだ内容も教えてもらっていないのに、俺は爺さんが紹介してくれる仕事に運命すら感じていた。単純なものだ。
「それで、どんな仕事? 職場は? 面接は? 履歴書とか職務経歴書とか」
『落ち着け落ち着け。職場はうちだ。面接はいらんし、履歴書もいらん。お前のことは、おしめをつけているときから知っとるんだぞ』
「爺さんの家で仕事……?」
ガッと上がった俺のテンションは、急激に下がり冷静さを取り戻した。
爺さんが自宅で仕事? 今までに一度も聞いたことがない。株かFXにでも手を出したのか?
だがそうだとしたら、人に任せられるとは思えない。やったことがないから知らないが、溶かしてしまったらどうするんだろう。
それとも俺が知らないだけで、堅実に在宅業務でもやっていたのだろうか? 確かに、働いていないくせに、妙に羽振りがいいところはあった。
考えても考えても分からない。とはいえ祖父の言うことを疑うのもあれなので、話を聞いてみるしかなかった。
「爺さん、どんな仕事をするんだい?」
『……ここだけの話なんじゃが、今うちの空いている二階部分を貸し出しておってな。シェアハウスっつぅんか? まぁ居候みたいなのがおるんじゃ』
「そんなことをしていたのか。でも、それなら爺さんと婆さんがいれば問題無いだろ? 新しく家を買うのかい?」
俺が聞くと爺さんは、かっかっかっと笑い出した。
楽しそう笑っているが、笑っているだけでは何もわからない。ペンをカチカチと鳴らして待っていると、漸く爺さんが理由を話してくれた。
『婆さんと世界一周旅行に一年ほど行くことになったんじゃ! さっき言った居候しているやつらが、旅行でも行って来いと言ってくれてな。で、知らないやつに任せたくないので、幸に声を掛けたっちゅーわけじゃ』
「なるほど、納得……世界一周? 一年?」
『うむ、一年間家のことを任せてもええか? 給料はたんまり払ってやるぞ』
「ごめん、突然過ぎて混乱している。ちょっと待ってくれるかい」
爺さんの家の二階は、家族が出て行ったことで丸々空いていた。二部屋くらいだったと思うが、空けておくよりはいいということだろう。
で、住んで居る人たちが祖父母に世界一周旅行をプレゼントした。
この話だけでも、いい人たちなんだろうと想像がつく。なによりも、一年間とはいえ仕事が得られることは大きい。
……よし、やるか! 俺は決意し、爺さんに返答することにした。
「分かった、やるよ。こっちとしても助かるからね。で、いつから行けばいい?」
『そうか、やってくれるか! ならすぐに来てくれ。そうそうそれと、愚痴ることが多いやつらじゃから、仕事の内と思って愚痴は聞いてやれ!』
「愚痴? 愚痴を聞くくらいならまぁいいよ。というか、すぐって言われても引っ越しの手配とかしてないんだけど」
『すまんな、今から飛行機に乗るとこなんじゃ! どうせ断らないと思っていたから、さっさと決めちゃったわい! じゃあ、そういうことで頼むぞ!』
「ちょ、待って。仕事の内容とか……切りやがった」
俺が承諾すると思い込み、すでに計画を進めてやがった。本当にあの爺さんらしいというか、なんというか……。
だがまぁ、自宅へ帰ろうかと荷物を片付けていて良かった。今日一日頑張って片づけ、業者に頼んで荷物を運んでもらえばいい。
必要な物は爺さんの家へ。使わない物はとりあえず実家へ。
忙しくなりそうだが、話を聞く限り悪い人たちじゃなさそうだし、なんとかなるだろう。
シェアって言うくらいだから、若い女の子とかもいるかもしれないし……楽しみだ。
俺はその日、寝る間も惜しんで荷物を片付けた。明日は爺さんの家へ向かうとするか!
20時と21時にも更新あります。




