月夜のファンタジア
眠りについた身体を離れ、僕の意識は夜の世界に飛び出した。
今の僕は普段とは違う世界の住人だ。誰にも見つからないし、どこへでも行ける。
月明かりに照らされた森、真夜中の不気味な遊園地、誰もいない静かな波打ち際……僕しか知らない世界はどんどん広がって行く。
今日は空を目指すことにした。三日月のほうへ、ふわりと、すうっと滑らかに、深海を目指すクジラのように飛んで行く。風は切らず、息継ぎも無ければ寒さの心配も無い。
飛び上がって少しすると、街灯の光が僕だけのための送り火に見えた。でもこんなのは見慣れていた。視線はあの三日月に、更にぐんぐん昇って行く。
やがて送り火が点の集合体になり、意識は雲の中を泳いでいた。まだ少ししか経っていないのに、もうこんなところまで来てしまった。感動と落胆が僕の中でせめぎあった。僕の知識が正しければ、夜明けまでに宇宙まで行って帰ってこれそうだ。僕はもうそのくらい速く飛べるのに、世界は狭い。いや、僕らは薄皮の中で生きているのだ。そう思うと、おもわず吹き出してしまった。
それでも本当にあの月に届こうとしたら一体何日掛かるだろう。そんなことを思いながら僕は雲の上を何となく飛んでいた。こうしているほうが楽しいと思った。だって、夜の闇と月光が織り成す雲の白黒の幻想的な絵画に飛び込んだみたいで、このまま宇宙に行くよりずっと現実から遠ざかれると思ったのだ。
でも、幻想曲はこれだけでは終わらなかった。ふわふわと飛んでいると、不意に柔らかなソプラノのシルクが僕の耳をくすぐった。それが人の歌声だと判るのに少し時間が掛かった。その声が紡ぐか細い糸を手繰り寄せて飛んで行くと、次第に歌声は僕の心の芯へ芯へと響き渡るようになっていって、僕の頭の中はその歌声で一杯になった。
しばらくして、ようやく辿り着いた声の主は穏やかに流れる雲の狭間に居た。
ゆったりとなびく綺麗な黒髪の僕と年の近い一人の少女だった。物寂しげな人形の様な横顔で、誰かに聞かせるでもなく、それでいて語りかけるように歌っていた。その歌を僕だけが聴き、僕だけがその姿を見ていた。
不意に涙が出てきた。自分でも訳が解らなかったが次から次へと溢れて止まらなくなった。僕はそれを拭うでもなく、ただ涙が流れるのに任せていた。
そしたら、少女がふと歌うのを止めてこちらを振り向いた。僕が少女の許へ飛んでいっている時から僕の存在を分かっていたように落ち着いていた。すぐに目と目が合った。少女は、微笑むでもなくただその円らな瞳で僕を見つめていた。僕もそうしていた。
そして、少女はゆっくりと僕のほうへ近づいていった。そこで僕は涙を流していたことを思い出し拭おうとしたが、その涙を拭ったのは少女の手だった。優しく包み込むようにして、僕の涙を受け止めてくれた。僕の中の何かが溢れて、全て涙になって出ていった。
それからしばらく、僕らは互いに身体を寄せて眠るように雲の間を漂っていた。二人の孤独は月の光に掻き消された。その後は二人で空が白むまで歌を歌った。僕は歌は得意ではなかったが、楽しくて仕方が無かった。
別れ際、僕らは何も言うことなく去って行った。彼女が今も同じ空の下で生きているかは分からない。でも、僕は今夜もまた彼女と歌い明かす。それが、僕と彼女の永久の幻想曲。