音
音は振動だ。
すべての音は物体がごく微細に震えることによって産み出される。
声然り。
音楽然り。
そして、手拍子然り。
その偶然が、僕たちにとっての意味のある音として響いているのだと思うと、今更ながらに驚きを感じてしまう。
だって、そうだろう?
実際は、ただ振動してるだけなんだ。
物理法則的には理解出来ても、感覚的には理解しがたいのは当然ではないだろうか。
…何故突然、そんなことを考えだしたかって?
それはーーー
「あはは、びっくりした?」
彼女に猫騙しで驚かされたからである。
時間を5秒、巻き戻そう。
僕は今日、カフェに来ていた。
もちろん彼女との約束で、だ。
あ、彼女と言っても付き合ってるわけではない。
…付き合ってない男と2人きりでカフェで会うことって変じゃないのか、という疑問はもう考えないことにしている。
だって、相手が彼女だから。
…そろそろ約束の時間の5分前だ。
今日は天気も悪くないので、彼女に分かりやすいようにテラスの席に座っている。
僕は読んでいた文庫本をカバンにしまい、彼女が来るであろう道の向こうを眺める。
すると、肩をトントンと叩かれる。
半ば反射的に振り返ると
パン!
という小気味の良い音と共に、目の前で、本当に目の前で、手が叩かれた。
俗に言う、猫騙しである。
「…」
「あはは、びっくりした?」
びっくりして何も言えない僕に、彼女は笑いながらそう聞いてきた。
そして、冒頭に戻り、
「ごめん、そんなにびっくりした?」
何も言わず、ただ音について考えていた僕に、彼女はそう心配してくれた。
「いやごめん、ちょっと現実逃避してたっぽい」
「なにそれ…まあ大丈夫なら良いんだけど。なんか頼んだ?」
「ううん、まだ。なんかこういう店って何か頼まないとダメかなって思ってたんだけど、意外とそれっぽく座ってればいけるね」
「それっぽくって?」
彼女が向かいの席に座りながら尋ねてくる。
僕はカバンからさっきの文庫本を取り出して、ちょっとカッコつけた感じで読むふりをしながら、
「これ」
とちょっと笑いながら言った。
実際はただ普通に読んでただけだが、まあちょっとカッコつけて読んでみたい気もあったのだ。
しかし、彼女はニヤリと笑うと、
「あー、ダウト。普通に読んでたでしょ?」
と僕のささやかな嘘?をあっさり見破った。
「ばれたか」
「そりゃそうだよ、見てたもん、読んでるところ」
「えっ?あ、そうか」
そういえば、文庫本をしまってすぐに彼女は後ろから現れたんだった。
だったらバレるのも当然だ。
「全然気づかなかった?」
「うーん、時々周りは注意してたんだけどなぁ」
「まだまだだねぇ」
「精進します」
今日は一本取られた。
明日は頑張らねば。
って、勝負をしてるわけではないけど、なんとなく悔しい。
悔しいので話を逸らしてみる。
「さっきね」
「それより何頼むか決めようよ。お店の人に悪いよ?」
「…そりゃごもっともで」
なんだかまた負けた気がしたが、大人しく注文を決めることにした。
注文を終えて店員が去ると彼女がこちらに向き直る。
「さっきは何を言いかけたの?」
「ああ、覚えてたんだ。大したことじゃないよ」
「気になる」
「大したことじゃない、けど、まあいっか。さっき騙し討ちされた時ね」
「騙し討ちって、オーバーだね」
「僕的にはありゃ騙し討ちだよ…。とにかくあの時にね、音について、ちょっと考えてたんだよね」
「音?」
「そう。まあ実際、あのときびっくりしたのは目の前で手を叩かれたからなんだけど、そのときの音が妙に耳に残ってね。それでちょっと、音って振動だよなぁ、とか、そんなこととかを考えてたの」
「へぇ、また難しいこと考えてたの。君は好きだね、そういうの」
「まあね」
「それで、何か分かったの?」
「ん?うーん、特に何も。なんで耳に残ったかもよく分かんないよね」
「ダメじゃん」
「あははは」
もはや苦笑うしかない。
「…仕方ない、じゃあ代わりに私が教えてあげよう」
「おお、なになに?」
「なんで耳に残ったかっていうとね、私が立てた音だからだよ!」
「…な、なるほど」
「あ、困ってる困ってる」
「いや、うん、確かにね、そう考えれば納得がいくようないかないような、そうでもないような…」
「無理しなくてもいいよ?冗談だから」
「…冗談きついよ」
「えー、そうかなー」
彼女は笑いをこらえながらそう答える。
全く白々しいにもほどがあるってもんだ。
…まあ、そこが彼女の魅力でもあるのだが。
「そうだよー。聞いた僕が馬鹿だった。もっと自分で考える癖をつけなければ…!」
「なんか、馬鹿にされた…」
「あ、いや、決してそういう意味では…」
「…そうかなー?」
そう言って、ジーっという効果音さえ聞こえてきそうな目線を僕に浴びせる。
今度は、さっきとは真逆の声音だった。
言ってることは同じなのに音の質が違うだけでここまで変わるかってくらいその言葉は真逆の印象を与えてくる。
「そうそう。言葉が過ぎたよ。僕の悪い癖だね」
「そうだよ、それ、直さないと友達に嫌われちゃうよ?」
「嫌われるような友達もあんまりいないけど、嫌われるのはやだから頑張るよ」
「私に嫌われるもの嫌?」
「…うん」
なんかどさくさに紛れてとんでも無いことを聞かれたので、とりあえず真剣に返しておく。
嫌に決まってるじゃん、全く。
多分全部分かって言ってる。
うーん、彼女のこういうところには敵わないなぁ。
僕はそんなことを思いながら彼女の反応をみる。
「ふふ、ありがと」
彼女は嬉しそうにそう言った。
どうやら機嫌は治ったようだ。
…これで本当に付き合ってはいないのだから、人間関係は面白いものだ。
そして、タイミングを計ったかのように二つのカップを持った店員がやってくる。
…本当にタイミングいいな。
ちなみに僕は抹茶ラテを、彼女は季節の限定メニューとやらを頼んでいた。
「飲み物も来たことだし、とりあえずコーヒーブレイクしますか」
僕がそう提案すると、
「ん?なにコーヒーブレイクって?」
「…」
なんて聞かれてしまった。
説明するのがめんどくさいけどーーー
「…飲みながら話すよーーー。はい、乾杯」
「ん」
手拍子とは違った、しかしこちらも小気味の良い音が奏でられる。
この音こそ、純粋に物と物による振動で引き起こされていると実感できるものだ、と思う。
この音は彼女にとって忘れられない音になっただろうか。
そしてこの音も、僕の耳に残りそうなことを彼女は見破るだろうか。
僕はそんなことを考えながら、最初の一口を口に含んだ。