水
僕にとって水とは、幸運の象徴のようなものだ。
幸運というより、純粋に幸せの象徴といったほうが正しいかもしれない。
それは単純に、相対的な問題だ。
世界中の国々と比べて、日本ほど水に恵まれた国はないといっても過言ではない。
蛇口をひねれば、いつでも綺麗な水が飲めるのは、実はとても幸せなこと。
そう思うようになったのはいつの頃からだったか。
ただ、水があるだけで幸せ。
存在そのものが幸せにつながる。
それが、僕にとっての水という存在。
「君ってさあ、色々考えすぎじゃない?」
彼女が半ば呆れ顔で言う。
もう半分は…なんだろう、苦笑しているように見える。
僕が水についてあれこれ考えていたことを明かした彼女の反応がこれだ。
こう、ひとことでバッサリと言われてしまうとぐうの音もでない。
でも、
「そんなに変かな?僕の考え」
とりあえず彼女に聞いてみる。
あ、彼女って言っても付き合ってるわけじゃない。
お友達だ。
「変とは言ってないよ。ただ、よくそんな事を考える気になるなって」
そう言った彼女の顔はやっぱり呆れが混じっていた。
僕たちは大学の講義室の一角に座って、そんな話をし始めていた。
講義が終わり、学生がぞろぞろと移動を始める。
皆食堂に行くのだろう。
その顔は一様に晴れやかと言えた。
見渡すと、講義室に残っているのは数人で、僕たちの周りには誰もいない。
あまりに人がいないと静かすぎて会話がしづらいのだが、まあ、あまり気にしないようにする。
なるべくいつもの調子で返す。
「なにせ、一人の時間が多いからね。まあ、最近は一緒にいる時間の方が長いかな?」
「うわ、ぼっち宣言だ。…まあ私も似たり寄ったりだけど、だからって好き好んでそんな事は考えないよ?」
「そうかな?」
「そうそう」
「そういうものか…」
なんだか、癪だ。
でも、みんなはもっと有意義な事を考えているのかもしれない。
自らの悩みについてや、講義の課題についてとか。
そう考えると、確かに僕みたいなのは少数派だろう。
「まぁ、そう落ち込まないで。君はそれでいいんだよ」
「…無条件の受容だね」
「そう言われればそうだね。そんなに深い意味はなかったけど」
彼女はそう言って苦笑する。
これだから天然はいけない。
周りの人がその言葉をどれだけ待ち望んでいるか知らないんだ。
たとえ深い意味がなくても、邪推したくもなるってもんだ。
「はあ…」
「なんで溜め息ついたの?」
あ、ちょっとムッとしている。
「いや、うん、まあ、あれだよ。そう、水についてどう思ってるのか気になって」
「露骨に逸らしたね…。それって私が?」
「うんうん」
僕の口から言うのは勘弁してもらいたい。
それは公開処刑に等しい。
ともかく今は水についてだ。
これで話を盛大に逸らそう。
「水かぁ。私あんまりそういうこと考えないからなぁ」
「別にゆっくりでいいよ?そんな焦らなくても」
「焦ってはいないよ。ただ、疲れることを考えてる自覚はあるね」
「…それは申し訳ない」
「…考えるのやめていいの?」
「え、っと、出来れば続けて欲しいなぁ、と」
「はぁ、しょうがないなぁ」
ごもっともです。
「うーん、水、ねぇ…どう思ってるのかって具体的には?」
「いや、そんなに深く考えずに、フィーリングでいいよ、フィーリングで」
「フィーリングねぇ…」
考えること数秒。
「私にとっては、便利な存在、かな」
「便利って?」
「そのままの意味だよ。便利でしょ、水って」
「まあね」
飲むだけでなく、水には様々な利便性があるのは確かだ。
水で発電もできるのだから驚いたものだ。
しかし、ここで肯定するだけだと話が終わってしまう。
とりあえず、話を続ける事を試みてみる。
「でもなんかあるでしょ?そう思うに至ったきっかけ的なものが」
「うーん、それこそフィーリングだったからなぁ。ただ、ないと不便だな、とは思ったかな」
「…なるほど、ないと不便、か…」
「そう。確かに、水がないと私たちって生きていけないよ?でも、そんな状況はほとんど起こり得ないし、実際私じゃ想像もつかないよ。でも、たくさん水が使えるから、生活を豊かにしているのは間違いない。だから、ないと不便」
彼女の言わんとすることは分かる。
つまり彼女は水はあって当たり前のもので、でも、それが当たり前じゃないことは理解しているけど、あることそのものには特に何か特別な思いがあるわけでもないという事で…
「…また深く考えようとしてる?」
色々と考えようとしていた矢先を、彼女に制される。
「…してるね」
素直に肯定しておく。
「そろそろご飯食べようよ。時間なくなるよ?」
「それもそうだね」
いつの間にか時間が過ぎていた。
なんで食べながら話さなかったのだろう。
そういえは、水の話になったのも、彼女がペットボトルの天然水を飲んでいたからで、それが珍しくてぼーっと眺めてたら益体も無い考えが浮かんできて…という感じだったのを思い出す。
水を飲んでてこの話になったら、ご飯を食べ出しづらいか…。
一人でそう納得しながら、自分の弁当箱をかばんから取り出す。
彼女も準備万端のようだ。
「じゃあ、食べますか」
僕が聞くと、
「うん」
彼女が頷く。
「それじゃあ…」
「「いただきます」」
二人で揃って食べる弁当は、いつもより美味しく感じた。
その間に交わされる会話も、僕にとっては水よりも幸せなものであった。