ネガティブフリーフォール!
嫌なことがあった。
ここのところ、何も上手くいかない。崖から落ちる夢で目覚めれば寝違えているし、自転車はパンクしている。仕方がなく母の自転車で登校したが、シールを貼っていなかったので撤去されてしまった。
職員室に回収に行ったらなんか先生の機嫌が悪くて怒られたし、管理してる先生はもっと機嫌が悪そうだった。正直帰りたかったが、母の自転車なので置きっぱなしにするわけにも行かない。仕方無く話しかけたら、最初の教師に言われたことと同じことを言われた。
そんな感じで、ロクなことがない。何か行動を起こしても、それはことごとく裏目に出る。明日また学校に行くと考えると憂鬱になる。そういえば、そろそろ中間テストの時期だ。前回の期末は、苦手な範囲ばかりが出て、芳しくなかった。今回も同様だ。
一つ一つは些細なことでも、重なり合えば心に大きなしこりを作る。
「辛い」
そう口にすれば、誰もがこう言う。
「人生は辛いことばかりだ。何をしても思い通りに行くことなんて無い。お前の辛さなんてまだまだ序の口」
ああ、確かにそうなのかもしれない。
だが、何をしても上手くいかないなら、思い通りにならないなら、一体何のために生きているのだろうか?
生きていても辛いことしか無いのなら、きっと、死んだほうが楽になれるだろう。
それは、ある意味では単純明快で、筋道の通った結論。年若い少年の出した、一つの答えだった。
ある晩、彼は家を抜けだした。
こんな時間に出歩いたのは初めてだ。いや、小学校の頃、友人達とキャンプに行った夜に、こっそり三人で抜けだしたのもこれぐらいの時間だった気はする。過去は美化される。あの頃は、楽しかった。
今この瞬間も、少し楽しいかもしれない。昼間は人で溢れているこの街も、今は夜の帳に包まれ、静けさの中で灯りを点している。十年以上この街で生きてきたが、こんな姿を見たのは初めてだった。
そのまましばらく歩いて行くと、徐々に明かりの数が減る。建物から漏れていた人気は消え失せ、いつしか完全な静寂が訪れていた。
そして目の前に現れた、大きな建造物。このビルは、以前大量の税金をつぎ込まれて作られたが、思ったより住人が集まらず、不幸な事件もあって結局は廃墟と化してしまったものだ。
誰もいないビルの階段を登り、鍵の壊れたドアを開けると、屋上に出る。この街に住んでいて、かつ少しでも茶目っ気のある子供なら、誰でも知っていることだ。
安全のために設置されたフェンスの一角が、錆びて朽ちている。ここは悪ガキ共の度胸試しの場として最近使われ始めたらしい。彼らには気の毒だが、遠からず、規制が入るだろう。
ここから、飛び降りるのだから。
なぜそこを選んだのか。警備が甘いから、人気がないから、まあ、理由はいろいろ思いつく。だが、ほとんど直感で選んだ。
多分、ここから見える夜景が綺麗だからだと思う。
何度嫌なことがあっても、死の淵まで追いやられても、心は自然と救いを求めてしまう。
きっと最後の瞬間だけでも美しさに包まれていたいと、心が導いたのだろう。
まあ、どうせ死ぬならどうでもいいことなのだが。
朽ちたフェンスは、ちょうど人が一人通り抜けられるぐらいの隙間が開いている。おあつらえ向きな自殺スポットのように思えたが、ここで死ぬのは自分で二人目だ。意外と、少ない。
どうでもいいことが頭の中でぐるぐると駆けまわる。これから死ぬというのに。未練でもあるのだろうか。
……未練がないといえば、嘘になるかもしれない。
でもいいのだ。生きていてもどうせ叶いっこないし、叶わないのなら死んでも変わらないだろう。
フェンスを超えて、縁に立つ。
ああ、綺麗な景色だ。
これが最後の記憶になるのなら、あながち悪い人生ではなかったのかもしれないと思える。これから起こるであろう辛い出来事から逃げ切って、この美しい景色に身を投げることができるのなら、それは幸せなことなのかもしれない。
多分、これが一番幸せな選択なのだ。
「いいや、違う」
不意に、背後から声がかけられた。若い女性の声だ。
振り返ると、そこには、くたびれたパンツスーツに身を包んだ女性が、腕を組んで立っていた。暗いので、顔はよく見えない。
「君は助けを求めている」
言いながら、女性はこちらに近づいてくる。近づいてきて初めて、自分よりも背が高いことがわかった。と、急に強い風が吹く。女性の手から何か軽いものが吹き飛ばされ――そちらに気を取られて、バランスを崩してしまった。寄りかかるもののない空間に、自分の体が投げ出されるのを感じる。
背中から飛び降りる気はなかった。それなのに、人生というのは、最期まで上手くいかないものだ。
本当に、上手くいかないものだ。
バランスを崩してビルから飛び出しそうになったその体は、間一髪で女性の手によってビルに引き戻された。
「私が、君を助けるよ」
やっと見えた顔は、どこか安堵の色を滲ませていた。
※
それから夜が明けるまで、女性と話していた。
最近あった嫌なこと、気に入らないこと。洗いざらい話した。
女性は嫌な顔ひとつせず、時々 「それは嫌だね」 などと共感や相槌を挟みながら、話を聞いてくれた。
まるまる話したことで、日が昇る頃には少し楽になっていた。
「家の人が心配するから、そろそろ帰ろうか」
「あなたは、どこに帰るんですか?」
「私は、私の家に帰るよ。放課後、今度は街外れの公園で会おうか」
帰って部屋に戻って、布団に潜った頃にようやく母親が目を覚ましたらしい。それから少し寝て、目覚まし時計に起こされる。
学校にいくのは嫌だったが、サボったことがないので今日も一応行くことにした。
ほとんど徹夜みたいなものだったので、授業中はずっと寝ていた。うるさく言わない先生だったのが幸いして、ぐっすりと眠ることができた。
帰宅部なので、放課後すぐに家に帰り、親には本屋に行くと言って、街外れの公園へと向かった。
誰もいない公園で、女性は一人、ベンチに腰掛けていた。
「ゲームは好き?」
「まあ……それなりに」
「そうか。じゃあ、私と一緒にやろう」
ゲーム機を一台渡される。入っていたのは、レーシングゲームだった。あまり得意なゲームではない。負けて笑われてしまうのではないかと、少しだけ憂鬱になった。
「君はゲームが上手いね」
「いえ……レースゲームは苦手な方です」
「そんなこと言わないでくれ。私は何度やっても君に勝てなかったんだ。君は上手だよ」
女性が特別下手だったわけではない。お互いコースから外れずに真面目に走っていたのに、何度やっても女性に負けることはなかった。
「次はこれで勝負だ!」
「格闘ゲームも苦手なんですよね……」
だが、結果は変わらなかった。
女性もいいところまでこちらを追い詰めるのだが、何回やってもこちらが勝つのだ。それは圧勝であったり、僅差であったり、どちらにせよ、気持よく勝つことができた。
少しだけ自信がついた頃には、辺りは暗くなっていた。女性が 「今日はもう遅いから、また明日会おう」 と言ったので、最後にこれだけ訊ねることにした。
「あなたは、どうして赤の他人の俺なんかに構ってくれるんですか?」
「私は、青少年の自殺防止NPOで働いてるんだ」
シンプルな答えは、とてもわかりやすく女性の動機を示していた。
※
それから毎日、放課後は女性と遊んでいた。
休日は、朝から女性の車でドライブに出かけたりしていた。
急に外出が多くなったので両親は心配していたが、構うこと無く女性と遊びに出かけた。
ある時は電子ゲーム、またある時はボードゲームをした。ただひたすら話を聞いてもらった日もあった。
女性と居た時間は、少しも辛いことが起きなかった。勝負事では必ず勝てたし、どんな無茶苦茶なことを言っても煩わしい反論をされることはない。本当に楽しい時間だった。
辛くない時間は、ここにあった。
全てを肯定してもらえるこの時間はあっという間に過ぎ去ったが、確かに生きる力になった。
あの時自殺しなくてよかったと、ようやく思えるようになった。
そんなある日の事だった。
「……ありがとう」
女性は急に礼を言った。礼を言うべきなのは自分のほうだと返そうとすると、女性はそれを制止する。
「本当は、私はNPOなんかじゃないんだ。むしろ、NPOの自殺防止指導を受けている」
それから、初めて女性は自らのことを語った。
彼女の家は貧しく、親には何度も苦労をかけてきたこと。大人になって、今度は自分が誰かを幸せにしたかったこと。社会貢献のために入った会社は、裏で沢山の人を不幸にしていたこと。それでも頑張っていたが、結局誰一人として幸せにできなかったこと。
そしてあの晩、本当は彼女も自殺をしようとしていたこと。
「会社の帰りに、人気のない駅で飛び込もうとしていたんだ。でも、引き止められてね。 『あなたはまだ死ぬべきではない』 とか 『我々の自殺防止指導を受けるべきだ』 とか言われてさ……。話半分についていったら、君が飛び降りようとしてたんだ。それで台詞を書いた紙を渡されて、 『あなたが彼を助けるんだ』 とか言われてさ……。色々訊きたかったんだけどね、いつの間にか居なくなってて……。早くしないと君が飛び降りそうだったから、とりあえず止めることにしたんだ」
台詞を書いたメモ。それがあの晩、彼女の手からこぼれ落ちたものだったようだ。
「でも、助けたのはいいけど、どうしたら君に喜んでもらえるかわからなくてさ……。とにかく、話を聞いてみることにしたんだ。で、それからは……君も知っての通りだよ」
「わざと負けてたんですか?」
「うーん……確かにわざと負けるつもりで居たけど、私もあんまりゲームが上手じゃないから……わざとやって負けた数のほうが少ないと思うよ」
実際にどちらが強いかなんて、どうでもいい。
どちらにせよ彼女は意図して負けていたし、なにを言っても反論しなかった。自らを哀れな存在とすることで、自分を持ち上げ、励ました。
つまり。
彼女は自らを道化に貶めることで、自分を救おうとしていたのだ。
確かに、おかげで自分は再び希望を持てるようになった。自殺しようなどとは思わなくなった。
だが。
それだけでは、道化になった彼女があまりにも報われないのではないか?
「……本当に、ありがとう。君のおかげで、私も自信を取り戻せたよ。私でも、誰かを幸せに出来るんだなって……」
彼女はそう言っている。それは本心からの言葉なのかもしれない。
しかし彼女が、こんなに素敵な女性が、自分のような不幸に酔った子供なんかのために道化になることを、どうしても許すことができなかった。
「……それだけじゃ駄目です」
どうせ我儘を聞いてくれるのなら。
「俺が……あなたのことを幸せにします。してみせます」
最後まで、付き合ってもらうことにした。
※
今度は、自分が女性をエスコートした。
頑張って面白い話を考えて、彼女に披露した。
生まれて初めてバイトをしてお金を貯めた。大した額にはならなかったが、それを予算にして必死にデートコースを考えた。
はやりの映画を見に行った。ちょっと高いレストランで食事をした。綺麗な花束をプレゼントした。
彼女は喜んでくれていたが、それが心からの笑みなのか、それとも自分のために喜ぶ演技をしているのかがわからず、不安になることもあった。
それでも必死に、彼女に喜んでもらうために思いつく限りの手を尽くした。
気がつけば、彼女に励まされていた期間よりも長く、彼女のために動いていた。
そこでふと思った。
迷惑なのではないか?
自分のような子供にずっと時間を取られていては、彼女の人生に支障をきたすのではないだろうか?
我儘に付き合ってもらうはずだったのに、それを気にしている自分が居た。
本当は、何がしたかったのか。
彼女を哀れんで、貢ぎたかったのか?
いや、違う。
本当に哀れなのは、自分だったのだ。
ずっと相手に立てられて、いい気分だけを味わい続ける。相手の良心で勝ち続け、肯定され続け、自尊心を満たす。それが哀れでなければ、一体何が哀れなのだろうか。
本当は、認められたかったのだ。
彼女に証明したかったのだ。
自分が哀れな人間ではないと。
自分一人では何もできない、情けない子供ではないと。
彼女の良心により掛かるだけではない、一人の男なのだと。
ある日のデートの帰り道、意を決して口にした。
「あの……迷惑だったら、言ってください……」
すると女性は少しの間ぽかんと口を開き、足を止めていた。まるで考えもしなかったことを訊ねられたかのようだった。
やがて我に返ったのか、ハッとした女性は、コホンと小さく咳払いして、口を開く。
「迷惑なんかじゃない……。信じてもらえないかもしれないけど、本当に、嬉しかったよ」
それから、少し屈んで付け足した。
「また……連れてってくれるかな?」
目線の高さが揃ったからか、初めて彼女の本当の姿を見られたような気がした。




