恋食
「――また無駄な涙を流してしまいました」
だからと言うか、彼女にはやはり笑顔が似合う。小洒落た事を言うみたいだが、特に彼女が見せる他の表情と比較するごとにそれは明らかであると言える。
だからと言って、彼女はいつも笑っているべきだとか、そんな事を考えているのではない。それは一つの解釈であって、私の勝手な価値観に過ぎない。もちろん時折彼女が見せる、寂しげな影の差す横顔。また別種の趣を醸し出しているために魅力的に映る。
彼女はとりわけ、目立つ存在では無い。目鼻立ちは整ってはいるが、人の印象にはあまり残らない。そう言う意味で言えば、彼女は努めて謙虚でもあるし、表情にも乏しい。あまり人と話すのは得意ではないのだ。セルフレームの淡い朱色の眼鏡は彼女の顔の一部の様に振る舞っている。そのヘーゼルの双眸は視線を合わせるごとに深みを増し、知的さと共にどこか子供らしい好奇心がとぐろを巻いている。何と言う表現だろう。しかし、何か長いモノが、待ち構えている。子供らしい、いや、純真さか。しかし名は体を表すとも言う。それともそう名が付いている所為で、そう見てしまうだけかもしれない。
私には解る。
彼女は、質問をしたがっている。私には解るのだ。努めて謙虚であると言ったのは、彼女が他人に迷惑をかける事をよしとしていない事に始まり、自分から何かを求めたりしない事、何かを享受する際にそれが等しく行き渡らないのであればその機会を人に譲る。何か選択を迫られた際には、他人の意見を尊重する。意見を求められた場合も、それが求められたから仕方なく答えると言う感じは極力抑えて、相手に迷惑がかからない範囲で自分の考えを述べる。
彼女は自分を必要以上に殺しているのではないか。ここまでの話からそう言う事を推察する事は出来る。誰かに好かれたい、誰にも嫌われたくない、そういう動機ではない。だから自分を殺していると言う仮定に相応しい理由は、彼女からは見出せない。自分が他人からどう思われているか、そんな事を考えているとは想像もできない。ただ、誰かに迷惑をかける事が嫌なのである。もちろん、迷惑をかけてしまったら自分の印象が悪くなるだとか、迷惑をかけてしまう以上のそれに付随する結果的な事実は彼女には関係の無い事なのであろう。関係性の発展については無頓着だ。だから私と彼女の関係が好転するような事もおそらくは無いのだろう。それならそれでも構わない。
往々にして、他人との関わりなどそのようなものだ。いちいち考えてられない。恨まれたとて、明日にでも殺されると言う訳ではない。そう言う人間に出逢う可能性は高くは無い。理由も無く嫌う相手だっているし、そう言う人とは関わらなければそれでいい。
こう言う話もある。今まで嫌いだった人間と何かのきっかけで共同作業(とても嫌な響きだ)をしなければならなくなったとして、作業の効率化を図るためにやむを得ずお互いの事情を打ち明ける事になったとして、結果似たような境遇にある事を知り(そううまく重なるとは限らないが)他人事ではないように感じ、以前のように理由なく嫌っていた時の感情が嘘のように無かった事になってしまう。確かにそう言う事もあるのかもしれない。昔ケンカばかりしていた相手と久し振りに会った時、一瞬嫌な気持ちにはなったものの何だかそれも遠い昔の事の様で妙に感傷的になってしまい、そのまま朝まで飲んでしまったりした事は私にだってある(朝まで何を話していたかは一切記憶に無い)。
しかし彼女にはそう言う気配が無い。と言うのは、他人を嫌っているとか、誰かとけんかしているとか、そういう風景は違和そのものである。彼女に限ってそれは有り得ない。彼女に限って――? しかし、それはある種の望みでもある。
嫌われるのでも良い。それは存在を認めた事に有る。受け入れた事になる。好かれようなどとは思わない。それは何か違う気がする。
初恋。
私の彼女に対するその感情を敢えて形容するならば、そうした意味愛を含む表現になるのだろう。好かれたいとか嫌われたいとか、相容れないものが綯い交ぜになっていようと、それに理由を付けるのは簡単だ。内に秘めたる複雑と葛藤。鉾と盾を構えている以上、それがどっちに転ぶのか試さなくてはならない。それまで経験した事はないのだから、それが正しいのかどうかも解らないが、その時は過ぎるだろう。やがて熱も冷める。
彼女は私の憧れだった――彼女は風景に同化する、そういう少女である。そこに居るが、誰も彼女を見つけられない。観念的な存在と言うのでも無い。彼女は生きた人間としてそこにいる――それを私は見つけてしまったのだ。
私の物語に、幻想的な物など何一つ無い。強いて言えば彼女がそうかもしれないという程度のものだ。
眼を閉じる。それから色々な事を考える。冷蔵庫のゼリーの賞味期限が切れそうだったのを思い出す。実に現実的な問題だ。賞味期限が切れる前に食べてしまった方が良い。自然な成り行きだ。それはともかくとして、果たしてゼリーというものに賞味期限があると言うのが良く解らない。それとも素材の方に問題があるのだろうか。あらゆる角度から、それはゼリーという本質に影響を及ぼしている。見た目。味。素材の方の都合で結局のところゼリーの価値は決められる。だから必ずしも透明感を備えているとは限らない。食感も違う。それでも良く解らない。夢から醒めた子供の様な気持で私は眼を開く。
私もゼリーの様なものかもしれない。今のところその喩えについて言えるのは、少なくとも合成着色料も保存料も使われてはいないと言う事だけだ。それなりに透明度もある。
しかしここはお伽の国では無い。ゼリーがあるいて喋ったりはしない。私は恐らく人間である。
「私、恋しちゃったんだ――」
見つけてしまった。その気持ちを。他の誰でも無い、彼女に対して抱いてしまったこの気持を。
声に出してたしかめてみる。恋した。好き。愛してる。
「私は・彼女を・愛してる」
「好き」
「大好き」
さあ、どうする? それとも愚問だろうか。この秘めた思いは、伝える事もせずに秘めた思いのままで過ごすつもりなのかと言う事だよ。その問いには予想外の答えが返ってきた。
「秘めた思いと言うのはね」
「抱えた分だけ大きく膨らむものなんだよ」
思わず笑みがこぼれる。ああ、そう言う事を考えてしまう物なのか。あたかも、翼を持った天使たちが空から微笑みかけているかのように。蒼穹を渡る風が鳴る。時として、人は何かに踊らされているかのような感覚に陥るものだけれど。間違いなく自分の意思だと言えるのだろうか。私はそんな事を言う人間だったか。小洒落ている。いっそのこと美しい愛の物語でも紡ごうか。
私は彼女に近付いた。もちろん思いを伝える為だ。何故かと言えば簡単な事で、膨れたものはいつかは破裂する。いつまでも膨らみ続ける、そういう都合のいい器は生憎と世の中には無いのだ。喩えそれがあったとしても、どちらにせよいつまでも抱えておくことはできそうにも無い。私たちに与えられた時間に限りがある様に。ここはお伽の国では無い。そして夢の世界でも無い。小洒落ている。
ほんの少し、軌道修正。いつも通りの私に戻る。恋する気持ちに気付いて浮かれている程、私の心は乙女では無い。蕭然。
「ねえ、蛇穴さん」
私の話しかけた声が届き、声の主が私である事を理解したのかどうか、とにかく振り向いた彼女は、その瞳から一筋の涙を零した。頬を伝い、顎から雫が落ちる。ああ、この人は涙を流す事があるのか。それもこんなに美しく。私が話しかけたから彼女は振り向いた。その事実を忘れかけるほどに、私は息を飲み凍りついていた。なぜ彼女が涙を流さねばならないのか。私たちはこんなにもモダニズムの虜なのだ。
「あ、――」
彼女――蛇穴さんが言葉を紡ごうとすると、また涙が一つとなく零れ落ちて行く。彼女はそっと指先で持って目尻を拭う。そんな事を慕ってごまかせないと言うのに、少し赤くなった眼でいつものように笑う。そうではない、彼女はごまかそうとなどは思っていない。鏡を覗くまでもなく、解りきった事だ。彼女にとっては。
「蛇穴さん、何かあったの」いかにも自然体。驚く風でも無く、ただ問いかける。しかし彼女はそんな質問には答えない。自分が私、いや他人に心配をかけてもらう事それすらを迷惑をかけている事と同義に見做している彼女はきっと、何でも無いの、目にゴミが入っただけだから――とでも言うに違いない。しかしそれもまた勘違いに終わる。既に彼女は解っている。ごまかしに意味は無い。
「……ええ、少し哀しい事があって。そういう時って自然に涙がこぼれてしまうのね。泣きたい訳じゃないのに。おかしなものだわ」
「私はあなたにそれを聞いてもいいの」
「と言うのは、私に起こった哀しい事について、あなたが私に聞くと言う事かしら」
「……迷惑でなければ」
「迷惑だなんて思わないわ。だって、待っていたのよ」
待っていた。何かを待っていた。何か――それは人であり、――私
「誰かに、私に、聞いて欲しかったの」
「そう」、一呼吸置いて彼女はまた微笑み、「だってあなたは私を見ていたから」
――アナタハワタシヲミテイタカラ――
「そう。私はあなたを見ていたから――」いつも見ていたから。だってあなたはとても「あなたはとても美しいから」
「そう。あなたは私が好き?」
「好き。大好き」ここはお伽の国では無い。
「――不思議ね。あいも変わらずこうして私にそう言う気持ちを持ってくれる人がいるなんて。だから私もあなたが好きよ、川津さん」夢の世界でも無い。
「それで、哀しい事と言うのはね」現実なのだと。
ここで一瞬記憶が途切れる。彼女は泣き顔すら美しかった。もっと見ていたくなるほどに。私が彼女を泣かせてしまいたくなるほどに。それほど煽情的だった。
それでも、彼女が泣かなければならない世界なんて。
「――そう、流す涙に意味なんて無いの」
「それを捨てる為に、人は泣くのよ」
ああ、これが最後だって言うのに、涙の一滴だって出やしない。思い残す事があるとすれば、冷蔵庫のゼリーの事だった。
オイシクイタダイチャッテ
「ごめんなさい。これはそういう呪いだから」、人は悲劇の坩堝である。彼女は待っていたのだ。次の獲物を。自分を見つけてくれる人を。遅かれ早かれ、彼女を愛してしまった時からこうなる事は決まっていたらしい。「それじゃあ、いただきます」
すっかり食べ終わってしまった後で、彼女は言った。
「――また無駄な涙を流してしまいました」