【03】
「……はい、仁吏ですが」
「おはよう仁吏。いきなりですまないんだが」
台詞通りいきなり本題に入る父親に仁吏は嫌な予感がした。
「部下の母親が今朝死んだらしく、今日俺が急に出勤することになったんだ。申し訳ないんだが母さんのことを看ててやってくれないか」
仁吏の父親は高給多忙の外食業界の会社員だ。休日に出勤だなんてブラックだなあ、と仁吏は思ったが「死んだっていうなら仕方ないものか」と思い直した。それにしても、仁吏に義理の母の面倒を看させる申し訳なさより「休日に仕事なんて」という不満がひしひしと伝わる声色だった。別に、俺にものを頼む態度なんて、どうでもいいけれど。
「母親が死んだなら仕方ないね」
彼とは逆に、声に感情をこめずにそう言うと、何を勘違いしたのかスピーカーから焦ったような音声が流れてくる。
「……すまん、翠のことを思い出させたか」
翠。仁吏が子供のころに交通事故で亡くなってしまった仁吏の母親の名前。あの時、あの真っ赤な車が彼女を轢くことがなければ。仁吏はそこまで考えて首を振った。
「父さんのその言葉で思い出しちゃったよ」
「――ひと……」
「ああ、それで面倒を看ればいいんだっけ。どうせ暇だし任せてよ」
彼の言葉を遮る。ばつの悪そうな返事にいい気味だと少し思い、俺って性格悪いなあ、と自己嫌悪した。ちゃんと頼まれごとには応えるから許して頂戴。どうせ俺以外に頼れる人はいないんだし。
義母は実家と事実上の絶縁状態で親族からの援助は期待できない。それゆえに仁吏は義母が妊娠している間は彼女の面倒を看て欲しいと頼まれているのだ。今日に限った話ではない。一ヶ月半前くらいから、ずっとだ。断るという選択肢は恐らく最初から用意されていないし、断る気も仁吏にはなかった。復讐のいい機会だったのだ。
「いつも通りでいいんだよね」
「あ、ああ」
実母の翠が亡くなってから一年経たずに父は再婚した。再婚自体は仁吏も賛成だった。翠が亡くなってからの父親の病みっぷりは尋常ではなかった。病むという表現は適当なのかどうか微妙だが、他に形容のしようがない。毎日墓に通っては泣き、まるでアンドロイドになったかのように毎日寝て起きて会社へ行って寝るというサイクルを繰り返すだけの空っぽな生活を送っていた。たまに仁吏のことを「翠」と呼び、壊れたような慈愛に満ちた視線をくれる。仁吏は母親似だからそれ自体はしょうがないと受け入れていた。恐怖を感じながら、母親同様に完璧な家事を遂行しながら毎日を過ごしていたらいつの間にか父親は翠が生きているとき同様に目に光が宿り、仕事もしっかりとするようになった。理由は簡単、新しい恋人ができたらしい。名前は「碧」、どこか母親の面影がある新しい恋人に、「ああ、父さんはまだ病んでるままなんだな」と感想を抱いた。別に反対する理由も見当たらなかったため、そのまま父と碧は再婚した。
「あと、林檎が切れているから、どこかで買ってきて食わせてやってくれ」
「ああ」
そして現在、「新婚夫婦の邪魔になってはいけない」という名目で仁吏は大学に推薦合格してから一人暮らしをしている。実際は義母と仁吏の折り合いが悪く確執があったからだが。仁吏は義母が苦手だ。容姿が似ているとはいえ、控えめで夫を立てる実母と明朗快活で自己主張が強い義母は正反対であったし、再婚当時義母はまだ二十四歳で、母親とはとても見ることができなかった。料理の味付けが違うことも受け入れられなかった。理由ならいくらでも出てくるが決定打がある。義母は友達が多く、自室でよく電話でおしゃべりをしていたのを仁吏はよく聞いていた。自発的に聞いていたのではなく、ただ部屋が隣だったからなのだが、そのときに聞いてしまった
「やっぱり高給取りの旦那はいい」
「この前は大きなエメラルドのピアスをプレゼントされた」
「彼の実家はもっとお金持ちなの」
「自慢しているときが一番楽しい」
という言葉に仁吏は「彼女は父さんのことを金蔓にしか思っていないんだ」と思い知らされた。それと、実母の趣味である家具や食器を次々と処分し義母好みのものに買い替え、実母の生きていた痕跡を抹消しているのに感づいたことも理由だ。処分されていくそれらを仁吏はひっそりと自室に持ち帰り段ボール箱に隠した。家に母さんの居場所がなくなる。死んだ人間に居場所が必要なのかはわからないが、とにかくかわいそうだという一心で詰めた箱。だんだん箱が増えていき、義母に見つかったときからか確執が始まったのだ。
テンプレート通りの嫌がらせは一通り受けたと思うし、仁吏の嫌いな香りの芳香剤をリビングに、車に、玄関に置かれたりだとか(ひどい時は布団に嫌な香りの消臭剤を撒き散らされた)、弁当に嫌いなおかずを入れられたりだとか、わざと腐らせたジュースを飲ませたりだとか、とにかく仁吏が家での居心地を悪く感じさせるために義母はいろいろやってきたのだ。唯一仁吏にプラスに働いたのは、賄賂を担任に渡して大学の指定校推薦を取らせたことぐらいだ。受験勉強の必要が無くなった仁吏はマンションに追いやられ、仁吏はそこに喜んで住み着き例の段ボール箱を開封し部屋を思い出の空間に仕立て上げひとり悠々自適に過ごしていた。
こんなことを頼まれるまでは。
「じゃ、頼んだぞ」
わかったと短い返事をして電話を切ろうとすると、仁吏、と名前を呼ぶ声がした。まだ何かあんのかよ。
「……おまえが碧と合わないことを知っててこういう役目を押し付けるのはよくないってわかってる。でもなんだかんだ請け負ってくれて」
息を吸う音。
「いつもありがとう」
耳朶まで粟立つような不快感が携帯を持つ腕からぞわりと這い上がってくる。あぁ、そう、と通話終了ボタンをタップし荒い息を整えようとする。
どくん、どくんと心臓の音が無音の空間に大きく響いている。あ、あ、あり……ああああ。この気持ちは何だ。罪悪感? 今更何を言っている? あの生活の続きを、俺たちは……。まっすぐな感謝の言葉を、まっすぐな父からの愛に対する拒否反応とリョウシン、良心の呵責を感じているのだろうか。
「俺、は――――」
妊娠している義母に嫌がらせをしに今日もあの家に向かう。仁吏は洗面所まで走り、鏡の前で笑ってみせた。心が落ち着いてくる。心拍が安定していく。よし、大丈夫。
そういえばグラスを割ったんだっけ、と仁吏は思い出し、手についていたレモネードを水に『流し』た。