【02】
ガチャン。少年の手から滑り落ちたマグカップはどこかチープな音を立ててフローリングに落ち、割れた。ついこの間買って貰ったばかりの、少年の大機好きなゲームのキャラクターがデフォルメされたマグカップ。母親と、父親と。家族で色違いで買ったお揃いだった。
「…………うう」
父親に怒られることを想像すると少年は泣かずにはいられなかった。何をやってるんだ、と溜息混じりに呆れられるのだろうか、買ってやったばかりなのにと怒鳴られるだろうか。どうしよう、どうしよう。少年は慌て、悩み、ひとつの結論を出した。父より先に母にマグカップを割ってしまったことを言ってしまおう。たぶん、お母さんはちょっとたしなめるくらいでガミガミ言わない。そう決めて、少年は溢れた涙を手の甲で拭い、破片とともに撒き散らされた母特製のレモネードを片付けることにした。
母親は甘いもの……こういうレモネードやフルーツのスムージーやクッキーなどを手作りすることが趣味だった。中でもレモネードは少年の大好物だ。口に広がるはちみつの甘い味とレモンのさわやかな後味の相性がばつぐんでいくらでも飲むことができる。暑い夏は氷をいっぱい入れて、寒い冬はホットで。風邪で元気がないときはこれを飲むとのどの調子がよくなる気がする。少年はいつでも母のレモネードを飲んでいたのだ。
破片を手でよけながら、キッチンペーパーでレモネードを吸わせていると、びりりと手のひらに電流のようなものが走った。一瞬何が起きたのか少年はわからなかったが、少し遅れてその手に赤い線が引かれているのを見て、怪我をしたのだと理解した。そして次の瞬間、破片で手を切ったときより数倍大きい痛みが神経を駆け巡り、少年は我慢できずに悲鳴をあげた。
傷口にレモンが沁みて手が最大限に訴えてくる痛覚。それに抗おうと傷口に新しいキッチンペーパーをあてがうと白い紙にちいさく赤が染みた。レモンが沁みるせいで死ぬほど痛いが、その赤い部分の面積は痛みの強さとあまりにも比例しない。
「仁吏、どうしたの!?」
少年の悲鳴を聞いて駆けつけた母親は痛みに苦しむ一人息子と床にまとめられたマグカップだったものを見て瞬時に状況を理解した。
「大丈夫、仁吏」
少年を安心させるように母は優しく彼を抱きしめる。
「お母さ……ごめんなさい、ボク、買ってもらったばかりの……」
「それより手の傷でしょう? いま、救急箱を取ってくるから」
痛みを訴えるより先に謝罪をするところが真面目な息子らしい、と母親は小さく笑うと、少年の背から手を離し患部を観察した。絆創膏とガーゼ、どちらが適当か考え、次に泣きじゃくる息子に掛けてやる言葉を選ぼうとする。「痛いの痛いの飛んでけー」と、痛みを紛らわせる魔法の呪文――気休めにしかならないが。それとも、「ちゃんと謝れてえらいね」と褒めてやるか、「コップより、小さな怪我はしたけど仁吏が無事でよかった」と素直な気持ちを伝えるか。「悲鳴を聞いたとき、心臓が止まるかと思うほど心配した」それとも。
「仁吏、あのね……」
「馬鹿じゃないの」
破片をひとつ拾い、飛び散ったレモネードのせいでべとついた足に不快感を覚えながら手のひらの傷を睨みつける。母親の趣味である小花柄のマグカップ。大切な遺品なのにうっかり割ってしまった。はは、と仁吏の口から自嘲に乱れた息が漏れた。レモネードが入ったたいせつなマグカップを落としてあの時と同じように怪我をするなんて、デジャヴュを感じずにはいられない。あの時と違うのは仁吏に優しい言葉を掛ける人がいないということだけだ。
「結局今日は休みだし、飲みながらゲームでもって思った矢先に……」
一人ごちたそれを聞く人もいない。仁吏はひとりなのだ。団欒をする家族もいない、一緒に遊ぶ友達もいない。上の階に住んでいるあの家族のおかげで今日が日曜日だと判明したが、いつもどおり誰とも言葉を交わすことがなかったら、一人で学校へ行って何もせず一人でとぼとぼ帰ることになっていただろう。学校へ向かっても部屋でゲームをするにしても一人だ。
家にこもってゲームをすること、それだけが仁吏の原動力であり生きがいだった。仁吏はゲームが好きだ。仁吏はゲームが好きだ。ストーリーを進めるごとに物語の続きを見ることができる楽しさ。キャラクターに共感し、笑ったり泣いたりできること。単体で聴いてもいいゲームミュージックとBGM。ゲームの世界そのものであるグラフィック――味のあるドットも、最近のまるで本物であるかのようなクオリティのものも良い。何よりも現実を忘れて没頭できることが好きなのだ。 仁吏はお気に入りのBGMを口ずさみながら床の片づけを始めた。最近はボーカル入りのゲームBGMがマイブームだ。英語詞のものが多いから勉強になるし、歌があることで気分が高揚する。人間の歌がBGMとして流れるなんて十数年前では考えられなかった。しかし、6bitや8bitの昔のBGMにもよさがある。例えば……
『ピコピコピーピコピコ』
そう、こんなピコピコした昔ならではの音。これは某RPGのダンジョン第三層の戦闘曲だ。これを聴くと、敵を倒したくなる好戦的な気持ちになり、仁吏は同時に暗い気持ちになるのだ。仁吏はカバンにつけた耐水性スマホケースからスマートフォンを取り出し、通話のマークをタップした。この曲は仁吏の父からの着信を告げる戦闘曲でもあるのだ。
「……はい、仁吏ですが」
次の話くらいから軽い残酷描写が出てくるので、苦手な方は用心を。