蝶の見る夢
日曜日の昼下がり、休日にも関わらず僕は出勤していた。あの見るからに胡散臭い依頼人に調査の報告をしなければならないためだ。
同じ理由で佐々木さん、ついでに所長が来ていることが唯一の救いか。
「……ということで、IMLでの研究内容には特に異常はありませんでした。しかし訪問者の記録が消されていたり、うちのメンバーがちょっとしたプログラムに引っかかったりと気になる点がいくつかありまして……」
所長は依頼主である宮本に今回の件を説明していく。特に異常がないからか報告を受ける宮本の顔はどこか満足そうであった。
「……それで、その遠藤のチャットなのですが…それはこちらを見ていただいた方が早いかと」
そう言うと所長はパソコンの画面を回転させて宮本にチャットの結果をみせる。その内容を見て、宮本は笑いを堪えきれなかったのか思わず噴き出した。
そんなに面白い内容なのかなあとモニターを見てみるも、僕の目に映るのは「Hello world」の一文のみ。
やっぱり一昨日のあれは夢じゃなかったのだと改めて思い知らされたような気がして気持ちが落ち込む。
僕の記憶とホノカさんの記憶が食い違っているというのは説明がつく。
情報を感覚的に受け取れるというCONNECTの特性を利用した幻覚プログラムがこの世には存在しているため、内容はともかくとしてあり得ることなのだ。
ただ現実世界でまで幻覚を見せるプログラムはこういった分野に精通していると自負している僕ですら知らない。
「Hello world」これは文字列を画面に表示するプログラムの際に使われる有名な例文で、そのプログラム自体がとても簡単でその言語を学ぶ時の最初にやる事が多い。
僕は誰かの作った「何か」の最初の実験台にされたということを暗に示唆されているようでなんだか気味が悪い。
問題は僕がその「何か」にどこで引っかかったのか、である。ホノカさんによれば僕はずっとログを漁っていたらしいが、僕にはコントロールルームで謎の結晶に触れたというもう一つの記憶が存在する。
これから考えると脳自体が完全に乗っ取られている可能性もある。もしや今いるこの世界も、脳が操られ見せられている幻覚なのかもしれない。考えれば考えるほど思考の闇に引き摺り込まれていく。
ふと、白い手が二本闇の中で光った。その手はこちらへ一直線に伸び、僕の脇へ――
「ふあぁあっ!!?」
気がつくと佐々木さんが前から両脇を手刀で叩いていた。人体の隠れた急所を思いっきり殴られた僕は情けない掛け声とともに床へ崩れ落ちる。
「考え事してる最中になにするんだよ」
「えっ、あ、あの所長さんがやれって」
彼女が指差した方を見ると社長椅子にゆったりと座っている所長がいた。気づけば依頼人はもう帰ったようだ。
「正気に戻ったか?叩き役がいないとろくに話もできないなんてお前はラピュータにでも住んでるのか?」
「……人が真面目に悩んでるときにやめて下さいよ」
「Hello world」の件を報告するかしないかで真剣に悩んでいたことがなんだか急に馬鹿らしく思えてきて僕はため息をつく。
そんな姿を見た所長は笑いながら話を始める。
「時にナオ君、胡蝶の夢というのを知っているかね?」
「胡蝶の夢ですか?」
「そうだ。蝶になった夢から覚めた時、『果たしてこれはあの蝶が見ている夢なのか、それともあの蝶が私の見た夢なのだろうか』というどうでもいいことを考えてた昔の人の話だ」
「はぁ…それがどうしたんですか?」
「その昔の人は最後には『こんな無駄なことを考えるのはやめて、その時を楽しめばいいだろ』という結論に至った」
つまりだな、と所長は背筋を伸ばし、足を組み替える。
「考えても無駄なんだからそれを受け入れろということだ。『胡散臭い奴から依頼を受けてあれだけ面倒なことをしたのに報酬がこれだけっておかしいだろ』とか決して思ってはいけないということだな」
そう言って所長は茶色い封筒で自身を扇ぐ。ぺらんぺらんと情けなく揺れるところを見るとどうやらそれなりも貰えなかったようだ。
「心配しなくても先日の怪盗とネトゲの際の金がまだ余ってるから給料なら払ってやるぞ」
そう言って佐々木さんを首で合図する。彼女はそれを確認すると僕に封筒を渡してきた。以外にも厚い封筒にテンションが微増した僕はもらったその場で封を切る。
「怪盗で思い出しましたけど、あの事件模倣犯が出たりしてまだ続いてるらしいですよ…ってあれ?」
僕の話が途中で止まる。封筒の中身が千円札十枚と山のような請求書だったからだ。その紙に書いてある大量の0を見て思わず呟く。
「うわあ…これ僕に全部押し付けるんですか」
「押し付けたわけじゃない、ここに住み込みで働いてるんだから家賃や光熱費、その他諸々を給料から引くのは当然だ。むしろ千円札が十枚残ったことに驚け」
領収書の額に戦々恐々としてると今度は所長が佐々木さんに茶色い封筒を渡した。彼女のそれは僕のとは違いかなり分厚かった。僕も普通に働けばあれだけ貰えたのかなあと思わずため息が漏れる。
「あれ、そういえばあの黒い箱ってどこにやったんですか?」
黒い箱というワードに佐々木さんがピクリと反応した。それを見て所長は言う。
「そこから記憶がないのか…箱ならお前がアホ面晒している間に彼女がそっちの資料室に隠してくれたよ。彼女はお前と違って平均的に有能だから給料もその分高いんだろうな」
佐々木さんがコクリと頷いたのが癪に障るが封筒の中の領収書に並ぶ0の数字を見る限りでは生活面では無能と言わざるをえない。
僕はまた一つ、大きなため息をついた。
次の日、学校の前を流れる川は海の近くという悪条件と四月下旬特有の暑さが合わさりドブ以下の臭いを放っていた。川沿いに植えられた桜の花びらは全て散り、残りカスは早くも毛虫の揺りかごと化している。
こんなクソみたいな光景を朝から見せられて元気を出せと言われても無理だよなあ、と半ば強引な言い訳を盾に僕は今日も朝から机に突っ伏していた。
「ほーん、それで今日はお疲れってわけか。佐々木ちゃんと一晩中ヤってたとかそういうわけじゃないのね」
そうやって僕の佐々木さんの机に大股開いて座って煽ってきたのはクラスメイトの西野琴美だった。机に顔を乗せている僕の位置からだとパンツが見えそうで見えないのがなんか腹立つ。
この時代でも学生の染髪やパーマは許されていないはずなのだが何故だか西野の髪は驚くほど安っぽい金色に染まり、髪の毛は真面目な先生方を煽るように首元でクルクルっとしていた。
西野はどうやら探偵に興味があるらしく、ことあるごとに仕事の内容を聞いてくるのだが聞く度に煽ってくる。
今回の件も色々と話してやったのにこのざまだ。
「そもそも佐々木さんとはそういうのじゃないし、それに僕は事務所に住み込みな訳だから佐々木さんを連れ込んだりしたら所長に殺されるわ」
「でもホテルに連れてけばなんとかなる訳じゃん?てか自分の彼女を苗字で、しかもさん付けで呼ぶのはどうなの?」
「だから彼女じゃねえよ!!」
僕の大声にクラス中が静まり返り、一斉にこちらを向く。この中に佐々木さんがいなくて本当に良かった。
バツの悪くなった僕は人目を避けるように再び机に身体を預ける。
こんな状況になったにもかかわらず西野は僕との会話を続行してくる。
「一言で皆の注目を集めちゃうとはまるでアイドルにでもなったみたい」
「西野、アイドルはそんなガニ股で机の上には座らないんだよ」
「おっと失敬…って志賀、私のスカート覗いてたな?」
「勝手にほざいてろ。お前のパンツなんか見ても嬉しくもなんともないわ」
「じゃあ佐々木ちゃんのパンツを見たいわけ?佐々木ちゃん確かにアイドルみたいだし覗きたくなるのも分かるけど、彼女のは予想通りすぎてつまらないよ」
私のは予想外にもフリフリだけどね、と無駄な情報をぶち込んでくる。佐々木さんの情報はともかくとして何故鬱々とした朝からこんな下世話な話をしなければならないのだろうかとため息をつく。
その後も二人でくだらないやりとりを続けていると始業の鐘とほぼ同時に佐々木さんが駆け込んできた。彼女の自然ながらも計算し尽くされたミディアムカットは少し崩れ、その目の下にはうっすらとだがクマができていた。そんな異変を察して西野は僕の頭をはたいてくる。僕に理由を聞けということだろう。
先程の無駄な情報のせいで妙に意識をしてしまうが意を決して質問する。
「おはよう、今日は結構遅かったね」
「おはようございます。ちょっと考え事をしてたらそのまま夜が明けてしまって…えっと、その…」
佐々木さんは何か言いたげにモジモジする。机に座る西野を見つめているあたりおそらく
「おおっとこれは失礼、佐々木ちゃんは私の方が好きみたい」
「お前が邪魔で座れないんだろ!!」
再びクラス中の注目が僕らへと集まる。
こんなだから元気をなくすのだろうなと僕は肩を落とした。
放課後、僕は佐々木さんと二人で電車に乗った。いつもは片倉や西野なんかとも一緒に帰っているのだが彼らは今日はミステリー愛好会の集まりがあるらしい。
午後四時前後という微妙な時間や元々電車に乗る人も少ない為電車内に人がいないというのは珍しい出来事ではないのだが、思春期男子が同い年の女の子と二人きりとなるとやはり緊張してしまう。
こういう時は何か話さなきゃいけないのかなと何か話題を探そうと佐々木さんの横顔を覗き込む。
彼女のやや幼さが残る横顔で最初に目に付くのはやはり美しいプラチナブロンドか。
根元までしっかりと色素が抜け切った天然の銀髪は窓から射し込む西日によって緋色に染められていた。
そういえば遠い昔、こんな風な場面があった気がする。行き先はたしか海、姉とその友達の三人で行ったはずだ。当時の僕にとって徒歩圏外は未知の世界、その中で微塵の迷いも見せない姉の横顔がやけに頼もしかった。
「あ、あの…私の顔、何か変ですか?」
佐々木さんの一言でふと我にかえる。話題探しに必死になっていたせいで気づけば佐々木さんの横顔を睨みつけていた。
咄嗟に目を逸らすも必然的に生じる気まずい雰囲気、何か話題を見つけようと必死で車窓から見える景色からヒントを探す。
その時目に入ったのはフェイフュア総合探偵事務所という大きな事務所の広告看板であった。
やはりこれしかないかと共通の話題である探偵業の話を切り出す。
「あのさ、今回の案件なんか怪しくなかった?」
「怪しい、ですか?」
佐々木さんの小さい顔がわずかに傾く。
食いついたことに安堵を感じ、話を続ける。
「だってうちみたいな極小零細事務所に情報省の官僚様がわざわざ依頼をしてくるなんて怪しさここに極まれりって感じじゃない?」
「確かにそうですけど…でも調べて何も出てこなかったし、宮本さんがただ怪しいだけだったんじゃないですかね」
彼女はそう言うと人差し指を立てる。
そういえば「Hello world」の件は知らないんだったなと思い返し返答を考える。
「でもさ、僕が引っかかったプログラムは何だったんだろう。内容も僕がコントロールセンターに行くという意味不明なものだったし何かしら意味があってやってるとしか思えないんだけど」
「それは…その…遠藤さんが誰かが通信のログを漁ることを見越して対策した…なんてどうですか?」
「それこそ意味が分からないな…やっぱりあの黒い箱に残ってるデータを調べるしか」
「それはやめた方がいいと思います」
何かを拒絶するように佐々木さんは僕の言葉を突然遮った。
びっくりした僕は背けていた顔を佐々木さんの方へ向ける。対する佐々木さんもこちらを睨み返す。どうやらここだけは譲れないということだろうか。
「あの…なんでやめた方がいいのかな」
「それは…志賀君が変なプログラムに引っかかってるから危ないんじゃないかなって」
「いや、そのプログラムを調べたいんだけど」
「所長さん達が調べたけど通信ログからは結局何も出てきませんでしたよ」
唐突に始まった心理戦、返答次第では情報を何もつかめずにうやむやにされてしまう。
「じゃあCONNECTを通さないで調べるなら大丈夫でしょ?何かあっても最悪僕のガラス板が壊れるだけだし」
「……それが壊れたら給料一万円しかもらってない志賀君の唯一の情報手段がなくなりますよ」
えーなんでそんなに嫌がるのーと僕は頭を抱える。佐々木さんがここまで頑なにデータ解析を拒むのかが理解できない。
佐々木さんはというとこちらにドヤ顔に安堵の表情を混ぜた顔を向けている。おそらく彼女なりの勝利宣言なのだろうがものすごく反撃したくなる。
彼女のその顔に反旗を翻すためにここ数日の彼女の行動を振り返ってみよう。
そういえば昨日、佐々木さんは僕の"黒い箱"というワードに反応していた気がする。
その時は彼女が箱を片付けたから反応したのかと考えていたが今思えば絶対怪しい。
一か八か、カマをかけてみる。
「…………黒い箱」
ピクッと彼女のドヤっとした表情が歪む。
ビンゴだな、と対照的に僕の口角は少し上がる。
まさか僕自身も避けてきたワードが切り札となるとはなあと神様の悪戯を実感しながら攻め込んでいく。
「知ってるよ、黒い箱のこと。僕知ってるよ」
「………ダウトですね。志賀君がこういう時にフェイクを入れてくるのは今までの行動から予測できます」
佐々木さんはニヤリと笑う。だがその額に僅かに汗が滲んでいるのを、膝についている手が震えていることを、僕は見逃さなかった。
おそらく、彼女は黒い箱を壊したか、或いは中のデータを消去してしまったかどちらかだろう。
もしここで僕が箱を壊したと言えば、壊していない場合そこで話が終わってしまう。
じゃあ壊してないか確認しようとなっても本当に現物が壊れてないかを確認してはい終わりとなりかねない。
だがしかし、ここで中のデータについて言及すればどう事が運ぶだろうか?
触っていない→じゃあデータを確認してみよう、とどちらにせよデータに触る機会を得ることができるのだ。
ここで勝負が決まると踏んだ僕はさらにしかけていく。
「…………情報機器には何をしてもログというものが残る。佐々木さんが何をしたかなんてすぐに分かるんだよ」
僕の言葉で彼女の小ぶりな頭は今度こそ稲穂のように垂れていった。
勝ったか、と僕は天を仰ぐ。この謎の達成感を鑑みれば先程の彼女のドヤ顔も納得がいく。
こちらの勝利の表情を見せつけてやろうと横を向く。
「……ごめんなさい…ゔぅっ…ごめんなさぁい」
隣で佐々木さんが肩を震わせて泣いていた。
そんな時にタイミング良く駅に到着する。しかもそこにタイミング良くおばさんたちが乗り込んできた。
傍から見れば可愛い女の子を泣かすアホな男子高校生にしか見えない。
「あの、ただ僕は佐々木さんが何をやってるかを知りたかっただけで」
「で、でもぉ、志賀君は全部知ってるってぇ…」
「それは僕がカマをかけただけだから!お願いだから泣くのをやめて!」
泣き止まない佐々木さん、懐疑の目を向けてくるおばさん達、とりあえず電車から降ろさないと僕に無実の罪が着せられてしまう。
「こんなところでやるもあれだし一回電車から降りて落ち着こうか」
「降りたって何も解決しないですよぉ」
埒が明かねえと再び頭を抱える。こうなったら強硬手段に出るしかない。
「いいから降りよう佐々木さん!胡蝶の夢だよ!」
「胡蝶の夢…?ひゃあ!?」
僕は泣きじゃくっている佐々木さんを腕に抱えて電車を飛び出す。おばさん達の目にこの行動はどう写ったのだろうか?
読んでくれてどうもありがと(・ω<)☆




