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名も無き戦場  作者: 六花
境界
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53/76

第52話「揃わない日常」

レイの店は、静かだった。


いつも通りのはずだった。


皿が並び、椅子があり、人がいる。


会話もある。


笑い声もある。


それなのに、どこかだけが噛み合っていない。


レイはカウンターの中に立っていた。


手は自然に動く。


注文も、配膳も、問題なく流れている。


(問題はない)


そう判断できる程度には、店は正常だった。


だが。


コップの位置が、さっきと違う。


ほんの数センチ。


誰かが動かした形跡はない。


見間違いでもない。


それでも、その差は“記憶に残らない”。


レイは一度、コップを戻した。


次の瞬間には、またずれている。


今度は逆側に。


「……は?」


小さく声が漏れる。


だが客は誰も気にしていない。


気づいていないのではない。


気にするという行為自体が成立していないようだった。


レイは皿を拭く。


その動作は正しい。


手順も間違っていない。


なのに、布が通った場所だけがわずかに“遅れて綺麗になる”。


(いや、違う)


(遅れているんじゃない)


結果が、後から追いついてくる。


レイは息を吐く。


視線を上げる。


店内は変わらない。


変わらないのに、確かに変わっている。


「位置が……合ってない」


呟いてから、自分の言葉に違和感を覚える。


“位置”という概念が、少しだけ薄い。


扉が開く。


カラン、と音が鳴る。


その音は、ほんの一瞬だけ遅れて響いた。


客は普通に入ってくる。


普通に席に座る。


普通にメニューを見る。


ただ、その一連の動きの“順番”が、ほんの少しだけ前後している。


レイは目を細める。


(ズレてる)


(でも、ズレてることを説明できない)


皿を持つ。


その瞬間、皿が「持たれる前の位置」に一瞬戻る。


すぐに現実が追いつく。


「……なんだこれ」


声は出る。


だがその言葉の意味は、少しだけ遅れて成立する。


レイはカウンターに手を置く。


その感触は確かにある。


だが“あることの確信”が、わずかに薄い。


(航の時と同じか?)


そう思いかけて、すぐに思考が途切れる。


“思考の続き”がつながらない。


店は動いている。


問題なく。


それなのに。


すべてが、ほんの少しだけ「揃わない」。


レイは静かに息を吐いた。


「……気持ち悪いな、これ」


その言葉だけが、店の中で少しだけ遅れて残った。


そしてすぐに、何事もなかったように消えていく。

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