第四十四話「揃いすぎた日常」
レイの店は、いつも通りだった。
木の床は軽く軋み、窓から光が差し込む。
客は少ないが、途切れることもない。
静かで、忙しすぎず、退屈でもない。
「……いつも通りね」
レイは帳簿をめくりながら呟いた。
誰に向けたわけでもない。
ただの確認だった。
ペンを走らせる。
売上。仕入れ。在庫。
数字は、合っている。
問題はない。
――はずだった。
レイは一度、手を止める。
(……全部、合ってる)
もう一度、最初から計算する。
やはり合っている。
それなのに。
「……気持ち悪いわね」
小さく呟く。
間違っている方がまだマシだった。
“正しすぎる”。
それが一番引っかかる。
レイは帳簿を閉じる。
その音が、ほんのわずかに“遅れて”響いた。
「……今の何?」
顔を上げる。
店内は変わらない。
客が食事をしている。
皿の音。椅子の軋み。会話の断片。
すべて正常。
正常なはずなのに。
コップの位置だけが、違っていた。
「……は?」
カウンターの上のコップ。
さっきと数ミリ違う。
いや、違う“気がする”。
レイは目を細める。
(どっち?)
元の位置を思い出そうとする。
だが思い出せない。
記憶が曖昧なのではない。
“どの状態を基準にしていたか”が曖昧になる。
レイはそっとコップに触れる。
冷たい。
確かにそこにある。
だがその瞬間。
コップの位置が一度だけ、“正しい位置に再確定された”ように見えた。
「……やめてよそれ」
思わず声が出る。
誰もいない。
当然、返事もない。
レイは深く息を吐く。
(疲れてるだけ)
そう処理しようとする。
帳簿を開く。
数字は正しい。
何度見ても正しい。
だがその“正しさ”が、少しずつ怖い。
「正しいって、こんなに揃ってたっけ……」
そのときだった。
カラン、と扉が鳴る。
風が入る。
一瞬だけ、音が“遅れて”届く。
レイは顔を上げない。
「今日は妙に静かね」
客は答えない。
皿の音だけが、少しだけ遅れて響く。
コップが、また動いた。
今度ははっきりと見える。
“誰かの視線に合わせるように”。
位置が修正されている。
レイは目を細める。
「……あー、なるほど」
苛立ちではない。
恐怖でもない。
ただ理解できないものに対する、静かな拒絶。
レイは帳簿を閉じる。
その音は今度、きれいに揃いすぎていた。
「揃いすぎてるのよ、全部」
小さく呟く。
その瞬間。
コップが一度だけ揺れる。
まるで同意するように。
レイはそれを見て、ため息をついた。
「……仕事増やさないでって言ったじゃない」
誰にでもない言葉。
だが店の空気が、ほんの少しだけ“整い直した”。
それが逆に、いちばん気持ち悪かった。
窓の外で風が吹く。
その風は確かにそこにあるのに。
どこから来たのかだけが、分からなかった。




