第四十話「日常の誤差」
レイの店は、いつも通りだった。
木の床は軽く軋み、窓から光が差し込む。
客は少ないが、途切れることもない。
静かで、忙しすぎず、退屈でもない。
「……いつも通りね」
レイは帳簿をめくりながら呟く。
誰に向けたわけでもない。
ただの確認だった。
ペンを走らせる。
売上。仕入れ。在庫。
数字は合っている。
問題はない。
――はずだった。
「……ん?」
レイの指が止まる。
帳簿の一行だけ、違和感がある。
数字は正しい。
計算も合っている。
なのに。
“結果だけが一つ余っている”。
「またこれ?」
小さく呟く。
昨日から続いている、あの感覚。
説明できないズレ。
店の中を見渡す。
客は普通に食事をしている。
皿が置かれ、会話があり、時間が流れている。
問題はない。
だが――
カウンターのコップが、わずかに位置を変えていた。
「……は?」
誰も触れていない。
風もない。
ほんの数ミリ。
それだけなのに、確かに“違う”。
レイはコップを見る。
そして一度、目を逸らす。
もう一度見る。
位置は戻っている。
「……どっち?」
呟きが漏れる。
戻ったのか。
戻されたのか。
その差が、もう区別できない。
レイはコップに手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
確かにそこにある。
なのに。
(さっきの位置は、どこだった?)
記憶が曖昧になる。
ほんの数秒前のはずなのに、整合性が取れない。
レイは息を吐く。
「疲れてるわね、ほんと」
そう言い聞かせる。
帳簿に視線を戻す。
数字は正常。
売上も正常。
問題はない。
――なのに。
“どこか一箇所だけ、前提が合っていない”。
そのとき。
カラン、と扉が鳴る。
風が入る。
一瞬だけ、店の音が遅れて届く。
足音。
呼吸。
気配。
レイは顔を上げないまま言う。
「今日は妙に静かね」
客は答えない。
代わりに、コップがほんの少しだけ揺れた。
今度は、理由が分かるように。
“誰かの視線に合わせるように”。
レイは目を細める。
「……何それ」
苛立ちではない。
恐怖でもない。
ただ、整合が崩れている。
帳簿を閉じる。
音が、わずかに遅れて響いた。
「……日常って、こうだったかしらね」
誰に向けたわけでもない言葉。
窓の外で風が吹く。
その風は、確かにそこにあるのに。
発生源だけが、どこにも結びつかない。




