ep.39 "雨が不幸を連れてくる"
エイワの町へ、一歩ずつ近づいていく
風が吹き道端の草を揺らす
空はさっきまで黙っていたが
ふいに、冷たいものが首筋を叩いた
指先で触れると濡れている
…雨だ。
最初は一粒ずつ、静かに落ちてきた
弱い雨だ…そう思ったのはほんの数秒。
次の瞬間
空が息を吸い込んで、吐き出したみたいに
雨脚が一気に太くなる
土が叩かれ視界が白く滲む
もう雨じゃない、土砂降りだ。
「おいおい、いきなりかよォ…!」
アスノが空を睨むように言い肩の荷を抱え直した
僕らは荷物を濡らさないよう走った
屋根、庇、軒先
とにかく雨を避けられる場所を目がけて。
跳ね返る水が靴にまとわりつき泥が足を奪う
息が白くなるほど冷たい
首元から背中へ、嫌な冷たさが流れ落ちた。
ようやく古い建物の軒下へ滑り込み
頭を振り水を払い、布で顔を拭く。
雨の轟音が、耳を塞いだ。
この雨のおかげで町へ入る瞬間
誰の視線にも引っかからなかった
…だが、同時に思う
こんな土砂降りじゃ、人影も消える。
「…参ったな」
僕は通りを覗いた
いつもなら町人の往来があるであろう道が
まるで雨で流れたようにに空っぽだ。
宿の場所を聞く相手もいない
知らない町で地図もない
雨が止むまで…動けない
僕らはしばらく、軒下に留まることにした。
ロジェロは
僕が貸した羽織をしっかり掴んでいる
薄い布が、冷えた雨風を少しだけ遮ってくれていた。
「…雨が降ると、不幸を連れてくる」
ぽつりとロジェロが言った
沈黙に沈みかけた空気を、彼女の声が切り裂く。
「ツワブキ母さんに、そう教えられた」
「そうなのかァ?」
アスノが興味津々に聞き返す
ロジェロは外を見て続ける。
「幸せの裏には必ず不幸がある…という話だ」
雨が軒先から滝みたいに落ち、地面を削る
跳ねた水が彼女の靴先を濡らした。
「雨が畑を潤し、農家が笑うとき
同じ雨はどこかで災いになり
誰かがその不幸を背負わされる」
「…面白い話だな」
僕はその話を聞き答えた。
「だが私は…珍しく
ツワブキ母さんのその話が嫌いだった」
彼女は手のひらを見て、握りしめる。
「…理屈はわかる
世界はそうやって釣り合いを取って動く
恵みがあるなら、どこかに損が出る
…当然のことだ」
雨音が一段強くなる
まるで彼女の言葉に空が被せてくるように。
「当然だと理解した瞬間に
不幸になった者の痛みが消えるわけじゃない」
「誰かの幸せが、誰かの犠牲の上にあるなら
私はその幸せを仕方ないで片づけたくない」
「私の理想は…
幸せが、誰かの不幸を踏まずに増えることだ」
「無理だと言われてもいい
綺麗事だと笑われてもいい
…それでもそれを理想だと言えなくなったら…
私は、私でいられなくなる」
「…ただの言い伝えに、真剣になりすぎだろうか」
ロジェロが僕を見る
僕は首を振り、微笑む。
「真剣でいいよ」
彼女は息を吐き、雨の向こうを見た
一人でも多くが救われることを願い続ける…
きっと本心からそう思っているんだろう。
そんな話をしている時
遠くから、雨音とは別に水が跳ねる音がした
濡れた地面を蹴る音が
軒下の僕らへまっすぐ近づいてくる
雨の幕の向こうに、誰かがいる。
「うへぇ…急に降ってきて…やられたなぁ」
降りしきる雨の中を走り
軒下の端にすっとその声と一緒に
一人の女性が滑り込む。
髪はくしゃくしゃで
寝不足をそのまま形にしたような乱れ方
白衣を着て分厚い眼鏡
背は高すぎず低すぎず、平均的な女の身長
そして、目の下の深いクマ。
見た瞬間、ここにいた全員の体が固まった。
…いかにも、異形研究所の関係者
それも、ただの従業員じゃない
研究員の匂いがする…現場の人間だろう
僕らの空気が一気に重くなる
嫌になるな…今の話の直後にこれだ
胸の奥で嫌な連想が弾けた。
…雨が不幸を連れてきた。
女は濡れた前髪を指で払い、僕らを見上げた
「見ない顔だねぇ…君たちも雨宿りかい?」
声は柔らかく
人を安心させる声を、使い慣れている。
言葉が詰まった
ただ自然に会話をすればいい
旅人のふりをするだけだ
…分かっているのに、相手が相手だ。
沈黙が一拍空き、違和感がある空気になった時
僕は無理やり口を開いた。
「そ、そう…です、旅行でこの町に来て
いきなり降られたんで
たまったもんじゃないですよ…」
必死に笑顔を作る
楽しむために旅してる人間を演じる
声が震えないように、ゆっくり息を吐いた。
女はふうんと相槌を打ち僕の顔をじっと見た
眼鏡越しの視線が
皮膚の下まで覗いてくるみたいで背中が冷える。
「この町に旅行とは…物好きもいるんだねぇ」
そして、思い出したように言った。
「あ…遺物館を見に来たのかい?
この辺りじゃ珍しく少し大きめの施設があるから」
遺物の博物館…そんな話は聞いたことなかった
けれど、少し興味を持ってしまった
ほんの一瞬気が逸れた。
その隙を裂くように
別方向から声が差し込む…ロジェロだ
低く落ち着いた声で
雨音の中でもはっきり届く。
「この町で宿屋はどこにあるのだろうか
私たちは旅の疲れを癒したい
できれば、すぐにでも泊まりたいのだ」
焦って言葉が続かない僕に助け舟
それだけじゃない
この場から離れる理由まで一緒に作ってくれた。
白衣の女は、その方向を指さしながら話す。
「宿ね…この先をまっすぐ行って十字路を左
突き当たりに穴場の宿屋があるよ」
「…感謝する」
ロジェロは一歩前に出て
雨に濡れながら頭を下げた
礼儀正しいが動きは速い
ロジェロは振り返り、僕らに言った
「行くぞ」
僕とアスノも頷く
白衣の女性は焦った声で言った
「ええっ、もう行っちゃうのかい?
旅人ともっと話したいのになぁ…」
アスノが答える
「すまんなァ姉ちゃん
昨日遅くまで起きてたもんで、もう眠てェんだ」
白衣の女は、露骨にしゅんとした
子犬みたいに眉が下がる。
「そうか…まあ、エイワの町を楽しんでおくれよ」
僕らは手を上げ
別れの挨拶をして雨の中へ踏み出した
土砂降りが地面を叩きつけ、泥水が跳ねる
視界は白く滲む。
背後では白衣の女が手を振っている
そして、雨音に紛れそうな声で
ぼそりと呟いた。
「…雨も幸せを連れてくることがあるんだなぁ」




