巣立ちの盃
倒れたティナートをどうにか背負おうと腕を回す。
けれど、体格も重さもまるで違う。びくともしない。
そのとき、無言で片手が差し出される。
顔を上げると、そこに立っていたのはフェルキールだった。
「早くつかまれ、置いていくぞ」
あれほどティナートを嫌っていたフェルキールが、ためらいなく差し伸べたその手。
あまりに意外な光景に、ティナートも珍しく目を丸くした。
「なんだよフェルちゃん……マジに惚れちまったかァ……?」
ティナートが伸ばした手が、その手に触れる──はずだった。
だが、フェルキールの手はそこにはなかった。
「あ、あれェ?」
フェルキールは背を向けて、すでに歩き始めていた。
「おい、こいつを置いてさっさと下りるぞ」
「フェルちゃん!冗談だってェ!」
ティナートが慌てて叫ぶ。
フェルキールの表情は見えなかった。
それでも、なぜか分かった。
あの背中には、もう露骨な拒絶がない。
ティナートを受け入れるまではいかなくても、どこかで認め始めている──そんな気がした。
山道を下る。
夜明けの光に、長かった夜が確かに終わったのだと知らされる。
ふもとには、組長が腕を組んで立っている。
僕らの足音が近づいても、血に濡れた姿が目に入っても、その顔つきは微塵も変わらない。
驚きも、労いも、称賛もなかった。
越えて当然、と言いたげな表情だった。
「伍朏刀……持ち帰りました」
「……及第点だな」
たった一言。
苦い笑いがこぼれた。
「……厳しいですね……」
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この試練を越えられたのは、僕ひとりの力じゃない。
フェルキールとティナートがいてくれたからだ。
今の僕にはまだ、禍異を倒せるほどの力がない。覚悟も足りていない。
……苦しい現実だけど、ここで折れるわけにはいかなかった。
皆と肩を並べて進むために。
守られる側で終わらないために。
『何度でも死ね。そして学べ。そして……立ち上がれ』
ひとつずつ越えていく。必ず強くなる。
そう自分に刻みながら、僕は朝の光を受けて静かに輝く伍朏刀の刀身を見つめた。
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目が覚める。
ぼやけていた天井の木目がはっきりしていく。
双竜組の天井だ。
昨夜の戦いは夢じゃない。
禍異の腕に裂かれた感触も、刀に斬られた痛みも、身体は確かに覚えている。
思い出しただけで無意識に腹へ手が伸びた。
窓の外はもう明るい。
昼はとうに過ぎ、夕方にさしかかろうとするほどの時間。
庭から音がした。
のぞき込んだ先で、ティナートがひとり拳を振っていた。
裸足で土を踏みしめ、休みなく打ち込まれる拳。
昨夜、あれほどの戦いをくぐった後とは思えない動きだった。
僕は布団を払いのけ、庭へ飛び出した。
「ティナ!僕も混ぜてよ!」
拳を振るう音が止み、ティナートがこちらを振り向いた。
「おォ、シル助、起きたか」
僕は庭へ降りると、ティナートの前で拳を構えた。
今の僕に出せる力をぶつける。
だが拳は受け流され、あしらわれるたびに実力差を思い知らされる。
何度目かで息が上がり、膝へ手をついて荒い呼吸を繰り返す。
「ティナの技……僕も、使えるようになるかな」
息の合間にそう聞くと、ティナートは笑った。
「シル助なら余裕だぜェ!教えてやるよ」
迷いのない即答。その自信が眩しい。
「本当?じゃあ……教えてほしい」
「よっしゃァ!まずは筋肉を笑わせてな……」
「ごめん、前提がわからないや……」
ティナートは筋金入りの感覚派だった。
理屈より体感。説明より直感。
僕はそこで、理解しようとするのを諦めた。
「あれ、そういえばフェルさんは?」
庭を見回しても、そこに彼女の姿はない。
「まだ寝てんじゃねェか?」
「そっか……もう昼も過ぎたし、そろそろ起こさないと」
「これからどう動くかも聞きてェし、行くかァ」
僕らは並んで廊下を進み、フェルキールの寝室の前で立ち止まった。
女性の部屋だ。無遠慮に入るのはさすがに気が引ける。
だが、僕がためらっているうちに、ティナートは遠慮なく襖へ手をかけ、そのまま開け放つ。
「フェルちゃーん!起き──」
部屋へ声が転がり込んだ直後、剣が飛んだ。
刃は僕の頬をかすめ、背後の柱へ深く突き刺さる。
頬から血が流れたが、傷はたちまち閉じた。
だが冷や汗は止まらない。
僕もティナートも、その場で固まった。
部屋の奥で、フェルキールが手で顔を隠しながら半身を起こしている。
髪の乱れた寝起き姿、無言なのに、機嫌の悪さが部屋いっぱいに溢れた。
やがて舌打ちとともに、掠れた声が返った。
「……眩しい、閉めろ」
フェルキールは眉間に皺を寄せ、布団を引き上げて顔を隠した。
起きる気がないことが、その動きで伝わってくる。
「フェルさん……もう日が沈みますよ」
「何……?そんなに寝ていたのか……」
「……だが、まだ寝足りん……先に行ってろ、後から追いかけるから」
「そんな軽いノリで……」
フェルキールの視線が、再びこちらへ向く。
刃を向けられたような視線に、僕は思わず口をつぐんだ。
そっとティナートの腕を引く。
「……ティナート、完全に起きるまで待とう」
ここで無理に起こしたら、顔の傷ひとつでは済みそうになかった。
~~~~~~~~~~
僕らはフェルキールが起きるまで待っていた。
並んで縁側に腰を下ろしていると、ティナートは煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点けた。
好きな匂いではない。けれど、不思議と落ち着いた。
「寝起き悪いんだなァ」
「しかもかなり寝るね……僕でも寝すぎたと思ったのに」
「こりゃァ……大変な旅になりそうだァ……」
ティナートはぼやきながら、頭をかいた。
僕はティナートの横顔を見つめた。
「ティナート……ありがとう」
「んァ?」
「僕に……ついてきてくれて」
軽く流したくはなかった。
けれど、気負った言い方をするのも違う気がした。
迷って、僕はようやくその一言を口にした。
ティナートは目を逸らし、照れを隠すように笑った。
「なんだよ……幼馴染の頼みなら、当たり前だろ」
「危険な旅になる……幼馴染だからって、ここまで付き合ってくれるやつなんていないよ」
「……そうかァ……」
ティナートは空を仰ぎ、煙を吐いた。
「まァ、言っただろ?退屈な道は選ばねェ主義だって」
「それに……俺たちが国をひっくり返して、苦しんでる連中が少しでもマシになるなら
俺の筋とも合ってるしなァ」
そう話していると、縁側の奥から足音が近づいてきた。
現れたのは組長だった。
ティナートの隣へ腰を下ろし、煙草に火を点ける。
「オヤジ、煙草なんて珍しいじゃねェか」
「……たまにはな」
組長は、自分から多くを語る人ではない。
黙って煙草を吸う姿を見て、僕は今のうちに口にしておこうと思った。
「組長さん……ありがとうございます。
僕を見捨てずに、半端だった覚悟を叩き直してくれて」
「あのままだったら僕は……きっとどこかで旅を諦めていました」
「仲間も、守れないまま終わって──」
そこで、組長がかすかに笑った。
「何をもう終わったようなことを言っている。まだこれからだぞ」
少し先走った言い方だったと気づき、僕は照れくさく笑った。
「主には期待している」
「……!」
「ティナートがずっと話していた幼馴染が
ある日突然妙な術を引っ提げて現れて、反逆を口にする」
「……こんな面白れぇことはないからな」
組長の言い方に、反逆と聞いたあのときのティナートが重なり、双竜の血を感じた。
しばしの沈黙のあと、組長が口を開いた。
「ティナート」
「おう?」
その呼びかけはいつもより低く、どこか寂しさを含んでいた。
「……終いの言葉は、儂の前で言えよ」
ティナートは笑った。
「当たり前だぜェ……土産、待っててくれよ」
いつも通りの軽口だった。
だが、必ず生きて帰ると告げる確かな言葉だった。
そのとき、どたどたと騒がしい足音が響いた。
転んだのか、何かを蹴ったのか、空気がたちまち騒がしくなる。
寝癖を残した髪のフェルキールが姿を現した。
「おい!何故起こさない!日が沈みかけているではないか!」
「お……起こしたんだけどな……」
「こりゃァ……大変な旅になりそうだァ……」
ティナートは、またぼやきながら、頭をかいた。
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僕らは双竜組を出た。
空はもう夕方へ傾いていて、じきに日も沈む。
本当なら明日に回した方が無難だった。
暗くなれば足場は見えにくくなるし、余計な危険も増える。
それに、二人とも昨夜の傷が残っている。
僕としては、せめて半日ほど休んだ方がいいと思っていた。
けれど、フェルキールもティナートも、その程度で足を止める気はないようだった。
全員が万全になるのを待っていたら、出発はいつまでも先へ延びる。
それなら、すぐに出るしかないということになった。
僕らの目的は変わらず───
「仲間を探しに行く」
歩きながら、フェルキールが言った。
「向かうのはプラティカム……帝都に次ぐ規模の都市だ」
「プラティカム……都市……すごそうだな」
僕の村では想像もつかないような街並みを思い浮かべて、すこし胸が躍った。
「プラティカムは人が集中している。思想を同じくする者も多いはずだ」
「でも、兵の数も他より多いんじゃ……?危険じゃないですか?」
その問いに、フェルキールは迷いなく答えた。
「そうだな……兵の数だけ見れば危険は増すだろう」
「だが、人が多ければそのぶん盲点も生まれる」
「そして、小規模な町なら異変は即座に共有されるが……大都市では反応に遅延が生まれる」
「その差が、退く猶予を生む」
「なるほど……一概に不利とも言えないんですね……」
「そういうことだ……無論、何も起きないのが一番だがな」
ティナートは、戦いの熱に酔ったときのような狂気的な笑顔を浮かべて言った。
「楽しみだなァ、プラティカム……帝国の連中の面ァ、どう歪ませてやろうか……」
「おいお前、話聞いてたか?」
僕らは道を進んだ。
反逆の旅路が、静かに幕を開ける。




