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『天使と紫の炎』  作者: Bro_Be_Like_83
第4部 — 優しきヴォルタ王国および氷霜のエーテル王国における数多の戦闘。
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チャプター53 ― 「――そこまでよ…」

チョコレートを受け取ったあと、俺たちは塔沿いの通りを進む。

人混みが押し合い、建物の影が路上に揺れている。

俺は少し後ろを歩き、買い物袋を抱えたまま、まだ朝の余韻に半分浸っていた――そのとき、不意に誰かの肩とぶつかった。


「……あ、すみません。」


反射的にそう言って振り返る。


目の前に立っていた男は、俺とほぼ同じ背丈で、肩幅が広く、全身に苛立ちをまとっている。

まるで罵倒されるのを待っていたかのように、一歩引いた。

鋭く、落ち着きのない目つき。


「チッ……前、ちゃんと見て歩けよ、ガキ。」

男は低く唸るように言う。

「誰だお前。どうせ、自分は何しても許されると思ってる勘違い野郎だろ?」


俺はゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示す。


「わざとじゃない。……本当に、すみません。」


だが男は鼻で笑い、落ち着くどころか身を乗り出し、荒々しく俺の胸に手を置いて突き飛ばした。


「誰に向かって口きいてんだ?」

歯を食いしばり、吐き捨てるように言う。

「敬意ってもんを、身体で覚えさせてやるよ。」


周囲の空気が張り詰める。

通行人たちの足が次々と止まり、視線が一点に集まる。

背後でエリーが小さくため息をつくのが分かるが、俺は動かない。

――衝突を避けたいときは、まず静かに。エリーに教えられた通りに。


「……離してください。」


抑えた声で言う。


男は歪んだ笑みを浮かべ、今度は明確な悪意を込めて肩をぶつけてきた。

腕を掴まれ、乱暴に押される。よろめくが、反撃はしない。


男の顔が苛立ちで歪む。


「へぇ……天使ヅラしてやがるな?」

脅すように続ける。

「そのツラ、どうなるか教えてやるよ。身の程ってやつをな。」


再び突き飛ばされる。

屈辱的で、乱暴な力。

口の中に金属の味が広がり、古い本能が一瞬、頭をよぎる――それでも、俺は動かない。


周囲に満ちた怒りが、否応なく伝わってくる。

ヴァイオレットの身体が強張り、エスターが一歩下がり、エリーの拳がきつく握られる。


――その瞬間。


周囲の空気が、急激に冷えた。

まるで冬の影が通り過ぎたかのように。


冷気のオーラが男を撫で、細かな霜が彼の上着に結晶する。

男は困惑したように身を震わせた。


理解するより先に――

ブランシュが、男の前に立っていた。


無表情。

無駄のない動き。

彼女の右手に、氷が形を成す。

それは“出現”というより、“彫刻”だった。


澄み切った青――氷河の心臓から切り出したかのような、細く鋭い氷の刃。

朝の光を受け、霜の火花を散らす。


ブランシュは、その刃の切っ先を、男の喉元にそっと当てる。

皮膚に触れた部分から、乳白色の冷気が立ち上る。


「……その汚い手を、今すぐ離しなさい。」


声は凍るほど静かで、完璧に冷たい。


男は息を呑み、後ずさる。

刃の存在を理解した瞬間、首元に赤みが走る。


「な、なんだよ……このクソ金髪女……!」

憎悪を込めて吐き捨てる。

「調子に――」


言葉は、途中で断ち切られた。


ブランシュは、一瞬で距離を詰め、男の喉に手を当てる。

皮膚が彼女の指の下で張りつめるのが見えた。


次の瞬間、短く、鋭い動き。


男の身体が宙を舞い、石畳に叩きつけられる。

血は流れない。過剰な音もない。

ただ、冷気に足場を奪われたかのような、鈍い衝撃音。


ブランシュは身を屈め、氷の刃をなおも男に向けたまま、唇に残酷な笑みを浮かべる。

声は甘く、しかし確実に脅迫だった。


「あら……見て、この取るに足らない小ネズミ。」

「エンジェルくんに触れたの?」

「届かないものに手を伸ばす愚かさ、教えてあげるわ。」


男は起き上がろうとするが、床が拒むかのように手が滑る。

ブランシュが刃をわずかに押し込むと、接触点に薄い氷結が広がり、男は歯を軋らせた。


「……もういい、ブランシュ……」


エリーが低く言う。

怒りも驚きもない。ただ、彼女が何者かを知っている声音。

彼の手が、守るように俺の肩に置かれる。


「ブランシュ……お願い……やりすぎないで……」


ヴァイオレットが、今にも泣きそうな声で言う。


「やりすぎ?」

ブランシュはヴァイオレットを見もしない。

「彼はエンジェルくんに触れた。それだけよ…」

「“やりすぎ”じゃないわ。“越えてはいけない線”の問題よ。」


彼女は男を見下ろし、久しく見せなかった暗い情熱を瞳に宿す。


「……名前を言いなさい。」


男は咳き込み、言葉にならない声を漏らす。

ブランシュは首を傾け、まるで遊ぶように言った。


「名前。さもないと、二度と誰も傷つけられない身体にしてあげる。」


周囲では、目撃者が端末を向け始め、誰かが警備隊を呼ぶ声がする。

男は屈辱に震え、ついに途切れ途切れに名前を吐き出した。


ブランシュはそれをゆっくり復唱し、価値を削ぐように響かせ、男の頬に霜の線を刻む。


胸の鼓動がうるさいほど鳴る。

彼女の暴力に恐怖を覚えながらも、同時に――強烈な安心感があった。

まるで、巨大な重圧が遠ざかったかのように。


「もう消えなさい。」


一歩下がり、刃を警告のように構えたまま言う。


「帰りなさい。

 次に会ったら、“敬意の代償”を教えるわ。」


彼女は立ち上がり、氷の剣を消す。

まるで冷気が幻だったかのように。


そして、俺を見る。


その表情は一変し、驚くほど優しい。


「……大丈夫?」


すぐには答えられなかった。

足が震える。


ヴァイオレットが駆け寄り、俺を強く抱きしめる。

必死に堪えた嗚咽が、腕の中で震える。


「クソ野郎……」


エリーが低く吐き捨て、周囲に危険が残っていないか確認する。


エスターは震える手で男のそばに膝をつき、呼吸を確かめる。

治癒者としての本能が前に出ていた。


「警備隊を呼ぶ。」

エリーが言う。

「任せよう。……ブランシュ、さすがに直球すぎる。気をつけろ。」


ブランシュは軽く頭を傾ける。

叱責すら遊びのように受け流しながら、俺を見る。


そこにあるのは、誇りでも勝利でもない。

ただ、獣のように真っ直ぐな忠誠。


「……エンジェルくん、本当に大丈夫?」


ヴァイオレットが、絞り出すように聞く。


「うん……大丈夫。」


やっと、そう答える。


俺は彼女の手――まだチョコレートの箱を持つ手に、自分の手を重ねる。

その肌は熱い。

冷たさではない。感情の熱だ。


街は、ゆっくりと呼吸を取り戻していく。

囁き声、好奇の視線――そして、この朝が、もう元には戻らないという予感。


ブランシュは俺を守った。

それは確かだ。


だが同時に、胸の奥で新しい問いが燃え始めていた。


――俺たちは、大切なものを守るために、どこまで行くのだろうか。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


私たちはカフェ「ポーズ・ラテ!」の前に到着する。扉を開けた瞬間、コーヒーと焼き立ての菓子の香りが一気に包み込んできた。

明るい木製のテーブル、風に揺れるカラフルなパラソル。

小さなアイアン製の看板が静かに揺れ、「ようこそ!」と迎えてくれる。


「わあ……いい匂い……」

エスターが鼻をひくりと動かし、甘いものが並ぶショーケースに早くも視線を奪われる。


「うん、それにここのカプチーノ、絶対おいしそう。」

ヴァイオレットも目を輝かせながら言う。


ブランシュとエリーは楽しげに視線を交わし、俺は深く考えずに軽くうなずく。

そして扉をくぐった、その瞬間――言葉のない衝撃が走った。


カウンターの向こうに立っていたのは、かつて俺が救った女性たち。

寒さと貧困の中を彷徨っていた、あの頃の彼女たちだった。


顔はすぐに分かる。だが俺は何も気づいていないふりをする。足取りは淡々と、どこか無関心を装って。


「いらっしゃいませ、『ポーズ・ラテ!』へようこそ!」


明るい笑顔で迎えたのは、淡い金髪に澄んだ青い瞳の女性。

きっちりまとめたシニヨン、ピンク色のエプロンには小さなハート模様。

――ミア。(何年も前、俺が最初に救った七人のうちの一人。)


「こんにちは……」


彼女は温かな声でそう言い、俺を見ると、その瞳が一瞬、確かに輝いた。


俺は視線を上げる。背筋に小さな震えが走る。

口元が、どこか申し訳なさと可笑しさの混じった微妙な笑みに歪む。

だが何も言わない。気づいていないふりを貫く。

――俺はエンジェル。再会に感傷を見せない、少し冷めた存在のままで。


「じゃあ、朝の常連さんたちですね?」

ミアはそう言って微笑み、軽く頭を下げる。


俺はカウンターの横を通り過ぎる。その指先が、先ほどヴァイオレットからもらったチョコレートの箱に、かすかに触れた。


「エンジェルくん……」

ヴァイオレットが耳元で囁く。目はきらきらしている。

「……気づいてるよ、あの人たち……」


俺はわざとため息をつき、無関心を装う。


「まあ……昔の知り合いってだけだよ。」

(――それほど昔でもないけど)


「じゃあ、今朝は何にする?」

壁のメニューに見入ったまま、エスターが尋ねる。


「俺はブラックコーヒーだな。」

エリーが口元に笑みを浮かべ、周囲を観察しながら答える。


ブランシュは腕を組み、無言のままミアを見つめている。

言葉はないが、あの微妙な空気の変化を、彼女が見逃すはずがない。


「私は……」

ヴァイオレットが続ける。

「ホットチョコレート! クリームたっぷりで!」


ミアは少し身を乗り出し、柔らかく温かな声で言った。


「了解よ、お姫さま。

それで……エンジェルくんは?」


俺は肩をすくめる。


「ラテでいい……」


一瞬の沈黙。

ミアは、今度はどこか意味ありげな笑みを浮かべた。


「かしこまりました。今朝のラテは特別なんですよ。」

彼女は振り返りながら続ける。

「……ちょっと、思い出みたいな味で。」


くすっと笑う声。

俺は慌てて視線を逸らす。頬が勝手に熱を持つのを感じながら。


エリーが低く笑い、からかうように言う。


「おいおい、エンジェル。

ウェイトレス相手に赤くなってるぞ?」


「なってない。」

俺は眉をひそめつつ、飲み物を用意するミアをちらりと見る。


「ふーん……それ、完全に“通じ合ってる笑顔”だよね。」

ヴァイオレットが小声で囁く。楽しげで、少しだけ嫉妬を含んだ声。


ブランシュは黙ったまま、控えめな微笑みを浮かべている。

何も言わないが、その視線は確実に俺を捉えていた。


俺は一息つき、窓際のテーブルへと向かう。

コーヒーの香り、カップの触れ合う音、カウンター越しのミアの気配。

温かさと郷愁が混じった、不思議な空気。


外から見れば、ただの仲のいい友人たち。

だが、笑顔と沈黙の隙間に、もっと深い何かが確かに漂っている。


「ねえ……」

エスターが言う。

「みんな、ここの人たちと知り合いみたいね。」


俺は視線を上げ、淡々と答える。


「……ただの、古い知り合いだよ。」


ミアはそれを聞き、そっと瞬きをして、意味ありげに微笑む。

一瞬、視線が交わる。

言葉のない合意。

そして彼女は何事もなかったかのように、再び作業に戻った。


俺はそこに座り、平然を装ったまま思う。

この「何もない」は――

実は、すべてに近いのかもしれない、と。


俺は窓の外に視線を向けたまま、黙っている。

眼下に広がる都市の景色――それは、奇妙なほど時代と様式が混ざり合った光景だった。

整然と並ぶオスマン様式の石造りの建物は、凍りついた記憶のように街路を縁取り、その上にガラスと鋼鉄の近代建築が重なり、さらにその奥には、現代的な高層タワーの細長いシルエットがそびえている。


その中でもひときわ目を引くのが、《ブルー・タワー》。

朝の光を受けてきらめき、荘厳で、どこか冷たい存在感を放っていた。


カフェの前を行き交う人々――学生、会社員、恋人同士、雑多な人波。

街は呼吸している。

生きていて、騒がしい。


そんな光景をぼんやり眺めながら、俺は指先で無意識にテーブルを叩いていた。

そのとき、聞き慣れた優しい声が、現実へと引き戻す。


「お待たせしました。」


ミアだ。

彼女は丁寧にトレイを置きながら言う。


「ブラックコーヒー、ホットチョコレート、カプチーノ、ブラックラテ、それから月花のアイスティーです。」


からかうような輝きを宿した瞳で微笑み、続ける。


「全部で二十オーラルになります。」


俺はほんの少しだけ顔を向け、彼女と視線を交わす。

一拍、長すぎる沈黙。まるで俺が小銭を出すのを待っているかのように。


だが、俺が動くより早く、ブランシュが静かにポケットから二十⌖Ar’の紙幣を取り出した。


「私が払います。」


淡々としながらも、わずかに柔らいだ声。


ミアは紙幣を受け取る。その指先が一瞬、ブランシュの指に触れ、すぐにコインケースへ滑り込む。


「ありがとうございます、お嬢さん。」


ブランシュは軽く会釈し、そして視線を俺へ戻す。


俺は窓の外を見続け、気取られまいとする。

だが感じてしまう――

ミアの、控えめだが意味を含んだ視線。

そしてブランシュの、静かで観察するような視線。


ヴァイオレットはホットチョコレートにそっと息を吹きかけ、

エリーはコーヒーをかき混ぜ、

エスターは店内の装飾を目を輝かせて見回している。


すべては穏やかだった。


ミアは少しの間、テーブルのそばに立ったまま微笑み、軽やかな声で言う。


「何かあれば、いつでも声をかけてくださいね。

――特に、エンジェルさん。」


首筋に小さな違和感が走るが、俺は曖昧にうなずくだけだ。


「その時は呼ぶよ、ミア。」


彼女は静かに離れていく。

滑らかな足取り。

残るのは、甘いコーヒーの香りと……

懐かしさと戸惑いが混じった、名付けられない感覚。


俺はカップを手に取り、ラテを口に運ぶ。

その温もりが、意識を現在へと引き戻す。

外では、ブルー・タワーがガラスと石の海の中で、灯台のように陽光を反射していた。


カフェの空気は柔らかい。

穏やかな囁き声、カップの軽い音、挽きたてのコーヒーの香り。


俺が再び、窓越しの光を眺めていた、その瞬間――

扉が荒々しい音を立てて開いた。


チリン、という鈴の音は、もはや歓迎ではなく、警報だった。


俺はゆっくりと振り返る。


――あいつだ。

さっき通りで俺にぶつかってきた男。


大柄な体躯。焦点の定まらない目。

その歩き方は、危うい神経質さを露骨に示している。


重たい足取りで、テーブルの間を進んでくる。

噛みつく理由を探している獣のように。


最初は、誰も大きく反応しなかった。

だがすぐに、彼の声が大きくなる。


標的にされたのは、ミアではない――

若い黒髪のウェイトレスだった。


「おい、まだかよ!

さっさと来いって言っただろ! 二分だぞ、二分! 分かってんのか!?」


怒声が店内に響き、会話を断ち切る。


それでも彼女は下がらない。

背筋を伸ばし、両手を前で揃え、礼儀正しく、しかし毅然として言う。


「お客様、声をお下げください。

ここは公共の場です。」


「はぁ? 俺に説教かよ?」

唇を歪め、下卑た笑みを浮かべる。

「誰に口きいてるか分かってんのかよ、なあ?」


一歩、距離を詰める。

彼女は冷静を保っているが、呼吸が早くなっているのが分かる。


俺の背筋を、あの冷たい緊張が這い上がる。


ヴァイオレットは視線を伏せ、居心地悪そうに身をすくめる。

エリーはコーヒーを半分持ち上げたまま、暗い目で成り行きを見ている。


ブランシュは動かない。

だが、テーブルの縁にかけた指が、わずかに強く締まる。

彼女の右手を、ほとんど見えないほど薄い霧が撫でた。


男は、さらに下品な言葉を吐く。


「ほら、笑えよ。

偉そうにすんな。給料もらってんだろ?

それに……そんな脚してるなら、客の扱い方も分かってるはずだろ?」


重苦しい沈黙が落ちる。

全員の視線が、男に集まる。


それでも、ウェイトレスは震えない。


「出て行ってください。

あなたは一線を越えています。」


男は大笑いした。


「俺が? 超えてねえよ。

お前が礼儀ってもんを覚えるだけだ!」


そして――

誰かが止める間もなく、彼は手を振り上げた。


時間が凍りつく。


血がこめかみで脈打つのを感じる。

椅子がわずかに軋む。

俺は立ち上がりかける。


だが、俺より先に――


彼の手が彼女に届く前に、

細く、しかし絶対的な力を持つ別の手が、空中でその手首を掴んだ。


鈍い、嫌な音がカフェに響く。


男は目を見開き、動けない。


そして、静かで、氷のような声が、刃のように沈黙を切り裂いた。


「――そこまでよ…」


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