チャプター2.5 ― 優しいひととき
訓練を終えた直後、僕は岩の上に腰を下ろしていた。左手はまだ訓練の疲労でしびれている。掌は赤く、マナが溢れた跡が細かく残っていた。夜の風はゆっくりと静まり、焚き火のパチパチという音だけが静寂を彩る。その時、軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。
目を上げる必要すらない。その足取りが土をそっと撫でる様子、少し緊張した柔らかさ…それは間違いなく、彼女だった。
—「エンジェル…」
声は柔らかく、少しためらいがあるが、いつも僕の胸を温める、説明できないほどの温かさを帯びていた。
—「また怪我したの?」
アンジェリーナは僕の目の前にひざまずき、長い黄金の髪が肩を滑るように流れ落ちる。彼女は両手で僕の手を包み込む。冷たい肌触りに思わず顔をしかめる。まだ痛む左手の傷がじんじんと響いた。
—「私に任せて…」
彼女は目を閉じ、深く息を吸う。掌が淡い紫色に光り、指先に優しい温もりが広がる。痛みはしびれに変わり、ほのかに心地よい感覚が残る。僕はその姿を見つめる。集中した顔立ちは、まるで神聖な儀式を行うかのようだった。
唇はほとんど動かず、理解できない呪文をそっとつぶやく。光が生きた糸のように肌を伝い、肉を癒し、神経の痛みを静める。
—「本当に頑固ね、エンジェル…」
ため息混じりの声が、僕の胸に響く。
—「傷つくまで止まれないの?」
僕は視線をそらす。少し恥ずかしい。 — 止まれば、進めなくなるからだ。
—「手を傷めずに進める方法もあるのよ。」
軽く叱るような声で、でもその目は優しさで溢れている。
—「そっか。でも、そうしたらあなたの小言も、手当ても受けられない。」
彼女は赤面し、首を振る。
—「話をそらさないで。あなたが自分を痛めつけるのを見て喜ぶわけないでしょ?もっと自分を大事にしなさい、エンジェル。」
その声には微かに揺れがある。親指で僕の掌の縁をなぞる。皮膚が癒えた部分に触れるたび、ぞくっとした。
—「見てよ…」
少し声を強めて言う。
—「包帯もまた雑ね。手当もさせてくれなかったし…黙って苦しむなんて、やめてほしい。」
僕は俯く。 — いつもそうしてきた。
—「なら、やめなさい…」
迷いのない声。
—「もうあなたはひとりじゃないのよ。」
その言葉には、不思議なほどの優しさと、抑えた怒りが混ざる。
—「あなた、どれだけ頑固か…想像もつかないわ。」
ため息交じりの微笑みがこぼれる。子供を叱り疲れた母のように。指先がゆっくりと僕の左手を撫で、完全に治った傷跡を確認する。彼女は僕の瞳をまっすぐ見つめ、その紫色の瞳には、温かさと危うさ、そして美しさが宿っていた。
—「ほら…」
—「もう全部治った。」
—「ありがとう。」
僕は淡々と答える。
彼女は首を横に振り、神経質そうに小さく笑う。
—「ありがとうなんて言わないで。次は自分で手当してね。」
その声は本心とは少し違う。僕が微笑むと、さらに赤面する。
—「そう言うけど、自分でやったら叱るんでしょう?」
—「かもしれない…」
視線をそらし、でもすぐに小さく頷く。
—「でもそれが私の役目でしょ?」
—「役目?」
—「そう。あなたの世話をすること。私が…ずっとしたいこと。」
言葉の温もりに、僕は沈黙する。彼女は左手の包帯を丁寧に整え続ける。必要なくても、触れ続けることでその温もりを長く感じさせてくれるかのように。
—「アンジェリーナ…そんなにしなくてもいいんだよ。」
—「いや!」
少し怒ったように返す。
—「あなたは…私の天使だから。」
その囁きは夜に溶ける。手はしばらく僕の手に残り、ゆっくりと離れる。焚き火の音だけが静かに響く。
彼女は立ち上がり、優しい笑みを浮かべる。頬はまだ赤い。
—「今夜は少しでも寝てね。そして夜明けまで訓練しないって約束して。」
僕は目を向け、微笑む。
—「約束…君がそばにいてくれるならね。」
彼女は視線を落とし、髪で顔を半分隠す。それでも笑顔は見えた。
—「わかった…」
—「今回だけよ。」
彼女は僕のそばに腰を下ろし、沈黙が戻る。風と焚き火の温もりに包まれ、長い間感じなかった穏やかさが胸に広がる。
訓練の疲れを引きずりつつ、僕はゆっくりと伸びをし、ため息をつく。焚き火の光が僕たちの顔を温かく照らす。アンジェリーナはいつも通り、そっと僕を見守る。
言葉なく、僕は仰向けになり、そっと頭を彼女の膝にのせる。彼女は驚き、一瞬固まる。
—「エ、エンジェル?!」
目を閉じ、微笑みを浮かべる。
—「地面より、君の膝のほうがずっと楽だ。」
彼女は数秒静止し、心臓が跳ねる。頬は真っ赤に染まる。ゆっくりと、非常にゆっくりと、僕を見下ろす。彼女の天使。金色の髪は炎に照らされ、穏やかな表情が幻想的に輝く。
胸がぎゅっとなる。どうしてこんなにも純粋で、美しくて…彼なのだろう?
アンジェリーナは何も言わないが、心の中で思考が暴れまわる。
「あははっ…あああ…いる! 私の天使が、ここに…私の膝の上に…信じてくれてる…完璧!」
指先が微かに震え、やっと銀色の髪に触れる。そっと撫でる手の感触。
僕の天使…私の英雄…私を救い、名前と生きる意味をくれた人…
彼女は唇を噛み、込み上げる感情の奔流を抑えようとする。しかし、叶わない。僕の一つ一つの呼吸、そして穏やかに打つ心臓の鼓動が彼女の肌に伝わるたび、慈愛と崇拝が入り混じった圧倒的な感情に彼女は飲み込まれる。
—「守る…ずっと守る…どんな未来でも、どんな運命でも…」
僕は少し体を寄せ、安らぐ。無意識に、アンジェリーナは片手を肩に、片手を髪に置き、優しく守る。
彼女の視線はさらに柔らかくなる。
—「気づいてない…私の全てはあなたに捧げられてる…離れるなんてありえない…絶対に離さない…!」
柔らかく、夢見心地の笑みを浮かべる。夜風が木々を揺らし、焚き火が揺らめく。そしてその一瞬、アンジェリーナは天にも昇る気持ちだった。




