チャプター50 ― 再び、月影に交わした約束。
王城のバルコニーの一角、石壁にもたれかかるようにして、俺は座り込んでいた。
膝の上には大太刀。月光を受けて、刃が静かに輝いている。
俺はゆっくりと布で刃を拭い、その微かな摩擦音だけが、静まり返った夜に溶けていった。
その背後――
彼女たちは、まるで無言の軍勢のように、整然と並んで立っている。
だが、漂う気配はまるで違う。
温かく、濃密で、胸を締めつけるほどに強い。
彼女たちは俺を「仲間」や「一時の英雄」として語っているわけじゃない。
俺は――
彼女たちの世界に意味を与える存在として、そこにいた。
アンジェリーナは背筋を伸ばしつつ、バルコニーの手すりにわずかに身を預けていた。
夜風にマントが揺れる。
「……あの月、見て……」
彼女は、独り言のように、しかし熱を帯びた声で呟く。
「綺麗に輝いてる……でも、あれよりも輝いてるものがある。」
そして、確信に満ちた声で続けた。
「エンジェル……私たちの光。私たちの天使。」
ステラが少し首を傾げ、月光を受けた栗色の髪が銀色に煌めく。
「本当ね……」
彼女は微笑みながら言った。
「どんな闇の中でも、彼はそこにいる……いつも。強くて、揺るがなくて……本当に、すごい人。」
ローザはくすりと笑い、肩をすくめる。
「本人は気づいてないでしょ?」
「自分のことを言われてないと思ってる。でも――私たちがすること、感じること、全部……彼のためなのに。」
紫紺の瞳で夜空を見つめながら、オーレリアが静かに言葉を重ねる。
「彼は……私たちが前に進む理由。
すべてを失いそうな時でも……エンジェルは、私たちの道標。闇を照らす光よ。」
胸の前で手を組み、疲労を隠すように背筋を伸ばしたルナが、息を吐く。
「どうして、あんなふうに……
いつも私たちを守って、導いてくれるのか……」
「ただの英雄なんかじゃない……あの人は……私たちの“すべて”」
クララはブーツの上で軽く跳ね、元気よく言う。
「私たちの天使! 光! 力!」
「彼が笑うだけで、全部大丈夫って思えるんだもん! あんなことがあった後でも!」
ミアは、控えめながらも芯のある声で続けた。
「えへへ……どれだけ感謝しても足りないよ……」
「全部……戦いも、笑顔も……助けてくれた、あの一瞬一瞬も……」
アンジェリーナは深く息を吸い、夜風に負けない声で言い切る。
「彼は、私たちの宇宙の中心。導きであり、生きる理由」
「彼がいなければ……私たちは何も残らなかった。息も、希望も……何ひとつ。」
俺はすべてを聞いていた。
だが、動かない。答えない。
ただ、大太刀を磨き続ける。
冷たい風が頬を撫で、背後から彼女たちの気配が伝わってくる。
その一言一言が、どんな攻撃よりも、どんな脅威よりも――
深く、胸に突き刺さった。
ステラが、夢見るようにため息をつく。
「何も言わなくても……ただ、そこにいるだけで……
私たちに語りかけてくれるみたい。」
ローザが、からかうように、でも真剣に頷く。
「うん。黙ってても分かる。聞いてるって。感じてるって。全部。」
アンジェリーナは、ほとんど独り言のように付け加えた。
「知ってほしいの……
何があっても、私たちは彼から離れないって……」
俺は静かに彼女たちを見つめ、刃を拭き続ける。
そして――
思わず、ほんの少しだけ、笑ってしまった。
顔を上げ、眉を片方だけ上げる。
疲れと冗談が入り混じった声で言う。
「なあ……俺を生き神みたいに扱う前にさ」
「他のみんなは、どこにいるんだ?」
アンジェリーナが振り返り、悪戯っぽく微笑む。
月光を受けて、髪が滝のように流れ落ちる。
彼女はゆっくりと近づき、甘く囁いた。
「知りたいの? 天使くん……」
そして、優雅な仕草で眼下を指す。
「……ほら、見て。」
俺は立ち上がり、バルコニーの縁へ歩み寄った。
――その光景に、息を呑む。
城の前。
フード付きの外套をまとった女性たちが、統率の取れた動きで作業している。
魔物の死体を運び、黒い血を清め、戦闘の痕跡を消していく。
数十……いや、数百。
ローザが腕を組み、笑う。
「すごいでしょ? しかも、ここだけじゃないよ。」
彼女は遠くの塔、眠る都を指した。
「南区、中央街、王立学院にもいる。どう?」
俺は目を細めた。
「……待て。何人いるんだ?」
ルナが静かに答える。
「少なくとも、二千人。」
「……二千?」
オーレリアが穏やかに頷く。
「二千人。全員が、あなたに恩があるのよ、エンジェル。」
アンジェリーナが俺を見つめ、優しく言う。
「あなたの優しさが……彼女たちに“新しい人生”を与えたの」
「新しい人生?」
「そう……奴隷だった者、捨てられた者、傷つけられた者……
でも今は、あなたのおかげで、再び息ができる。」
「あなたの名前を、祈りみたいに呼んでるのよ」
「恐怖じゃない。信じてるから、ついてきてる」
「あなたとなら……独りじゃないって。」
俺は視線を逸らし、苦笑する。
「……大げさだ。ただの、やるべきことをやってるだけだ。」
アンジェリーナが微笑む。
「それが理由よ、エンジェル……」
――静寂。
風が吹き、マントと髪が揺れる。
ステラがそっと言った。
「あなたは……命を救っただけじゃない。未来を、創ったの…」
俺は月を見上げた。
初めて――この混沌が、無駄じゃなかったと思えた。
大太刀を置いたその時、アンジェリーナが静かに言った。
「……一つ、伝えなきゃ。」
「何だ?」
「地下のカプセル……子供たちは全員、ルドヴァーンの殺戮光線で……
一人を除いて。」
「……一人?」
「茶色の髪の女の子。
エリーなら……正体が分かるかもしれない。」
俺は首を振った。
「……今はいい。眠りたい。」
「分かった……休んで。後は私たちがやる。」
「……ありがとう。」
背を向け、部屋へ向かう。
ルナの声が背後から届いた。
「おやすみ、天使くん……」
「……ああ。明日は、また明日だ……」
夜風が彼女たちの髪を撫でる。
――そして、この夜は終わった。
静寂と、忠誠と、消えない誓いと共に。
このたび、
チャプター50 ― 再び、月影に交わした約束。
をもちまして、
『天使と紫の炎』
第3部――賑わう王都の中の天使。
は、ひと区切りを迎えることとなりました。
ここまで読み進めてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
物語はここで終わりではありません。
第4部の執筆もすでに進めておりますが、少しだけお時間をいただくことになります。
お待たせしてしまい申し訳ありませんが、どうか今しばらくお待ちいただけましたら幸いです。
これからも『天使と紫の炎』を、温かく見守っていただければ幸いです :)
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。




