チャプター41 ― 「ねえ……友だちになってくれる?」
バルコニーで朝食を分け合っている最中、俺がようやくコーヒーの味を楽しみ始めた頃、ヴァルダはふいにカップを置き、思いがけないほど真剣な表情で俺を見た。
「エンジェル……あなたに、お礼を言いたかったの。本当に。」
俺は少し驚いて顔を上げる。ブラウニーの欠片が、まだ口元に残ったままだった。
「え? 王族仕様のコーヒーを味わわせてくれたこと?」
彼女は小さく笑い、首を振る。
「いいえ。それ以上のことよ。」
俺は皮肉っぽく眉を上げた。
「なるほど……八年前に助けてあげたこと、とか?」
澄んだ笑い声が、バルコニーの柱の間に響いた。
「それも、もちろん感謝してるけど……違うわ。」
俺はカップを置き、興味を引かれて身を乗り出す。
「じゃあ、何の話だ?」
「ヴァイオレットにとって、あなたが本当に素敵な友達でいてくれたこと。」
一瞬、言葉に詰まった。
ヴァルダは視線を海へ向けたまま、続ける。
「知ってる? ヴァイオレットがこの世界で望んでいることは、たった二つだけ。
もっと強くなること……そして、自分を救ってくれた紫眼のエルフを大切にすること。」
俺は天を仰ぎ、溜息をついた。
「はいはい……だから、もう何度も言っただろ――」
だが彼女は、穏やかでありながらはっきりと遮った。
「私が言いたいのは、そこじゃないの。
あの子はその二つに夢中になるあまり……孤立してしまった。
本当の意味で“友達”と呼べる存在が、今までいなかったのよ。」
俺は少しの間彼女を見つめ、それから息を吐いた。
「……じゃあ、エリーは?」
彼女はくすっと、困ったように笑う。
「あなたのお兄さんのエリー? それは……少し複雑ね。
大好きなのは確かだけど、エリーは落ち着きがなくて、時々それが癇に障るみたい。
成績が優秀なところや、長所もちゃんと認めているけれど……同じじゃないの。」
俺は気まずさを隠すように、コーヒーを一口飲んだ。
「……じゃあ、俺は?」
ヴァルダは俺を見て、心からの笑みを浮かべる。
「あなたは、エンジェル……特別な存在よ。
“友達”なのは確か。でも、それだけじゃない。
あの子は本気で、あなたが幸せでいてほしいと思ってる。」
胸の奥がじんわり熱くなり、俺は視線を落とした。
こういう話は苦手だ。直接的すぎて、正直すぎて。
ヴァルダは、さらに柔らかな声で言う。
「彼女があなたのことを話すときね……
本当に、“天使”の話をしているみたいに聞こえるの。」
俺は即座に不満げな声を漏らす。
「……やめろよ、それ。」
彼女は今度はからかうでもなく、静かに笑った。
その眼差しは優しく、どこか感情を帯びている。
「本気よ、エンジェル。
あなたは……何かを放っている。
必死に隠そうとしても、消せない光を。」
しばらく、俺は黙って海を見つめていた。
潮と蜂蜜の香りを含んだ風。
波音が、二人の間に落ちた沈黙を包み込む。
やがて、少しだけ観念したように息を吐く。
「……ヴァルダ。あんた、優しすぎるって分かってる?」
「よく言われるわ。」
彼女は微笑む。
「でも、本気でそう言ってくれる人は……あまりいないの。」
俺がようやくパンにもう一口かじった、その直後だった。
ヴァルダが再び口を開く。声は柔らかく、それでいてどこかからかうようだった。
「ねえ、エンジェル……それ以上にね。
ヴァイオレットは、あなたのことが――大好きで大好きで、仕方ないのよ。本当に。」
俺は口いっぱいのまま彼女を見上げ、思わず固まった。
「だ……だいすき?
さすがにそれは言い過ぎじゃないか?」
「いいえ、全然。」
彼女は微笑む。
「あの子、あなたの話ばかりするの。
落ち着いていて、ミステリアスで、優しくて……それでいて、なぜかすごく惹きつけられる、って。」
俺は盛大にむせかけた。
「ひ、惹きつけられる!?
ちょっと待て、それ本当に俺の話か?
目の下にクマがあって、二日に一回は頭痛を起こしてる白エルフの?」
ヴァルダは腹を抱えて笑った。
「ええ、そのあなたよ。
ヴァイオレットは、あなたを“そう”見てないの。」
俺は眉を寄せ、居心地悪そうに視線を逸らす。
「好かれてるのは分かるけどさ……さすがに盛りすぎだろ。
俺たち、ただの友達だろ?」
ヴァルダは肘をつき、顎に手を乗せる。
その瞳は、楽しそうに輝いていた。
「友達? ああ……もし、あなたが知ってたらね。」
「……どういう意味だよ。」
彼女は意味ありげな視線を向け、ほとんど内緒話のような声で言った。
「ヴァイオレットね、あなたのことを話すとき、目が本当にきらきらするの。
それに一度――本当に一度だけど……
あなたと結婚できたらいいな、って言ったこともあるのよ。」
俺は数秒、完全に思考が停止した。
「……け、結婚?」
「ええ、結婚」
ヴァルダは悪戯っぽく笑う。
「二人で一生を誓うやつ。
みんなが泣いて、花を投げて、幸せいっぱいの、あれ。」
俺は両手で頭を抱えた。
「いやいやいや……冗談だろ?
本気で、そんなこと言ったのか?」
「本気も本気よ。」
彼女は笑いながら頷く。
「あなたは白い衣装、彼女は銀のドレス。
ヴォルタの庭園で……って。
それ、エリーにも話してたわよ。」
「――ちょっと待て!
エリーが知ってるのか!?」
「ええ。だから、彼はよくからかってるわ。」
ヴァルダは楽しそうに続ける。
「そのたびに、ヴァイオレットは真っ赤になるけど。」
俺は肘をテーブルにつき、大きく溜息をついた。
「……なんで、こういうこと、全部俺に降りかかるんだよ。」
ヴァルダは、心底面白そうに俺を見ている。
「それはね、エンジェル。
あなたが、自分で思っている以上に特別だからよ。」
「それか、俺が恥ずかしい状況を引き寄せる体質なだけだ。」
彼女はさらに笑う。
「違うわ。
あなたはただ、あの子の心を救ったの。
尊敬して、信頼して……そして、惚れ込んでる。
溺愛、と言っていいくらい。」
その言葉は、思った以上に胸に響いた。
俺は黙って海のほうへ視線を向ける。
「……ヴァルダ。
それ、ちょっと重すぎるぞ。
俺……そんな価値、あるのか分からない。」
彼女はそっと、手袋越しに俺の手に触れた。
「価値の問題じゃないの、エンジェル。
それが……あなたが“彼女にとって何者か”ってだけ。」
喉が、少しだけ詰まる。
だから俺は、無理やり軽い調子で言った。
「……じゃあさ。
いつか指輪渡されたら、文句はあんたに言うからな。」
ヴァルダは胸に手を当て、大笑いした。
「その時は、私が一番に出席するわ。
花嫁介添人としてね!」
俺は呆れたように目を回す。
「笑えない冗談だぞ、王女様。」
そう言いながらも、胸の奥には妙な熱が残っていた。
気恥ずかしさと、温かさが入り混じった、不思議な感覚。
そしてこの笑い合う時間が――
なぜか、とても救いのあるものに思えた。
...
時間は、波の音と遠くで鳴くカモメの声に包まれながら、穏やかに流れていった。
朝食もほとんど終わり、俺はクリームと蜂蜜のかかったブラウニーを味わっていた――少し急ぎすぎたかもしれない。
一方でヴァルダは、珍しく黙り込み、地平線の向こうをじっと見つめていた。
俺は彼女を見上げ、口いっぱいのまま声をかける。
「……なあ、何か気になることでもあるのか?」
彼女はゆっくりとこちらを向いた。
唇には優しい笑みを浮かべているのに、その瞳には――どこか儚くて、幼い光が宿っていた。
いつもは揺るがない彼女の声が、少しだけ震える。
「ねえ……エンジェル……
もし、よかったら……
あなたも……私の友達に、なってくれない?」
俺は固まった。
ブラウニーを半分噛んだまま。
「……え?」
ヴァルダは少し俯き、指先をぎゅっと握りしめる。
「急なのは分かってる……でも……
私もね、友達ってものを持ったことがなかったの。」
小さく息を吸い、続ける。
「何年もずっと、同じ二つのことしか考えてこなかった。
紫の瞳のエルフを探すこと……そして、強くなること。
そのせいで……気づかないうちに、私も孤立してた。」
その声には、王女の仮面なんてどこにもなかった。
ただの、一人の少女の本音だった。
俺はごくりと喉を鳴らし、口いっぱいのまま、ほとんど反射的に答えていた。
「……いいに決まってるだろ。」
ヴァルダが、ぱちっと目を瞬かせる。
「……え……?」
「ほ、本当に……?」
「もちろん!」
少しこもった声で言いながら、俺は続ける。
「まあ……変なエルフの伝説とか、結婚の話とかをやめてくれたら、
かなりいい友達になれると思うけどな。」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間――
「……ふふ……っ……」
堪えきれなかったように、ヴァルダは澄んだ笑い声を零した。
「ひひ……本当に、あなたって……」
くすくすと笑いながら、肩を揺らす。
「口いっぱいなのに、そんな返事をされるなんて……
それでも、ちゃんと笑顔にしてくれるのね。」
俺は肩をすくめる。
「だって……友達がいないって言ってたろ。
じゃあ、今できたってことでいいだろ。」
その瞬間だった。
彼女の表情が、文字通りぱっと輝いた。
まるで、世界で一番嬉しい言葉を聞いたみたいに。
「……あは……」
そして、少し潤んだ声で。
「ありがとう、エンジェル……本当に、ありがとう……!」
「どういたしまして、姫様」
「……違うの」
彼女は首を振り、胸に手を当てる。
「冗談じゃなくて……本当に。
これを聞けて……すごく、救われた。」
ふう……と、安堵の息をつき、照れたように小さく笑う。
「子供みたいに喜んでて、ちょっと恥ずかしいけど……
でも……嬉しくて仕方ないの。」
俺は視線を逸らし、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……それなら、よかった。
俺、周りの人が落ち込んでるの、あんまり好きじゃないからさ。」
ヴァルダはしばらく俺を見つめ、柔らかな声で言った。
「……本当に、不思議な人ね。
ヴァイオレットがあれほど大切にする理由、やっと分かったわ。」
俺は気まずそうに首の後ろを掻く。
「や、やめろって……
そんなこと言われると、顔熱くなるだろ。」
「ふふっ」
彼女はまた笑う。今度は、完全に安心しきった笑いだった。
「もう遅いわ。ちゃんと赤くなってるもの。」
「……これは太陽のせいだ。」
「はいはい。」
くすっと笑って、頷く。
少しの沈黙のあと、彼女は優しく言った。
「ありがとう……私の友達。」
そして、照れたように付け加える。
「これからは……ヴァルダちゃんって呼んで。
――小さな天使さん。」
潮風が吹き抜け、
その笑顔と小さな安堵の吐息が、静かに溶けていった。




