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『天使と紫の炎』  作者: Bro_Be_Like_83
第3部 — 賑わう王都の中の天使。
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チャプター40 ― 王宮での朝食……そして大胆な姫君。

一時間後、俺たちはヴォルタ王国の王宮の正面に立っていた。

海に面してそびえ立つ巨大な宮殿。白亜の塔が、まるで完璧な鏡のように、透き通った碧い海に映り込んでいる。


潮と砂の香りを含んだ海風が吹き抜け、俺はしばらく言葉を失っていた。


「圧巻でしょう?」


誇らしげな微笑みを浮かべ、ヴァルダが言う。


……正直、すぐには返事もできなかった。

金色に縁取られたステンドグラス、彫刻の施された柱、王家の紋章を掲げた旗が、風を受けて静かにはためいている。


「……すごい。」


ようやく、かすれた声で呟く。


「綺麗すぎて……夢みたいだ。」


ヴァルダは腕を組み、楽しそうに頷いた。


「ヴォルタ王宮は、八百年以上前に建てられたの。」


「一日のどの時間でも、太陽の光を反射するよう設計されている、と言われているわ。」


俺は首を傾げたまま、目を離せずにいる。


「確かに……どこもかしこも輝いてますね。石まで生きてるみたいだ。」


彼女は満足そうに微笑む。


「ああ、やっぱり。気に入ったみたいね。」


「異国の者は、最初は声も出なくなることが多いわ……」


「あなたは違う。」


「驚いているのに、どこか落ち着いている目をしている。」


「落ち着いてるかは分かりませんけど。」


俺は少し笑った。


「ただ……本当に、ここにいるって実感が湧かなくて。」


「本でしか見たことのない場所に、実際に立ってる気がして。」


ヴァルダは一歩近づき、柔らかな視線を向けてくる。


「なら、光栄に思いなさい。」


「ここまで近くで宮殿を眺められる者は少ないし……中に入れる者は、もっと少ないわ。」


俺は少し迷いながら聞いた。


「……え、入るんですか?」


「もちろん。」


落ち着いた声で言う。


「王宮のバルコニーからの景色を見せたいの。」


「ヴォルタの街も……水平線まで続く海も、全部見えるわ。」


数秒、俺は固まったまま。


「……本気ですか?」


「俺、入っていいんです?」


ヴァルダはくすっと笑う。


「招いたのは私でしょう?」


「それに……あなたは“普通の客”じゃないもの。」


俺は視線を逸らす。


「それ、褒められてるのか、警戒したほうがいいのか分からないんですけど。」


「両方かしら。」


彼女は楽しそうに笑った。


沈みゆく夕日が、宮殿の壁を黄金色に染める。

風が髪を揺らし、久しぶりに、俺はすべてを忘れていた。


「……本当に綺麗だ。」


「何時間でも、ここで見ていられそうです。」


ヴァルダは優しい眼差しを向ける。


「なら、来なさい。」


「中は……もっとすごいわよ。」


王宮に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした、香り高い空気が肌を撫でる。

重厚な金色の扉が、鈍い音を立てて閉まった。


大理石の回廊。その両脇に整列した王宮守護兵たちが、一斉に深く頭を下げる。


「栄光あれ、ヴォルタ王国第一王女、ヴァルダ様。」


ヴァルダは優雅に、軽く頷いただけだった。


……だが。


俺は気づく。

彼らの視線が、彼女ではなく——俺に向いていることに。


刺さるような視線。

すぐに逸らす者、ひそひそと囁く者、顔を真っ赤にして固まる者。


「……あれが?」


「噂通りだ……」


「エルフというより……天使じゃないか?」


「馬鹿、黙れ! 殺されたいのか!?」


俺は軽く咳払いをした。

……まあ、無駄だったけど。


「ふふ。」


ヴァルダが楽しそうに言う。


「どうやら、注目の的みたいね、エンジェル。」


「え? いや、違いますよ。」


「たまたま……俺の方向を見てただけで……」


「いいえ。」


彼女は腰に手を当てる。


「見てみなさい。誰も呼吸すらできていないわ。」


頬が熱くなる。


「……正直、居心地悪いです。」


「あなたにとっては、ね。」


「でも彼らにとっては奇跡よ。」


「これだけ規律正しい兵が動揺するなんて。」


「もし宮廷の令嬢たちの前に出したら……どうなるかしら。」


「冗談きついです、ヴァルダ姫。」


「少しだけよ。」


「ねえ、エンジェル。」


「男性すら赤面させるなら……女性相手だと、どうなると思う?」


「ちょ、ちょっと待ってください! 何言ってるんですか!?」


彼女は首を傾げ、悪戯っぽく微笑む。


「性別の壁すら越える魅力……危険ね。」


「暴動防止のため、あまり人前に出さないほうがいいかしら。」


「俺、暴動の原因扱いですか、それ!?」


「事実を述べているだけよ。」


「ほら、近衛隊長ですら、天井を見つめてる。」


俺もちらりと見る。

……本当に、ものすごい集中力で天井を見ていた。


「……はあ。」


「俺、公共の邪魔者になりました。」


「そんな言い方しないで。」


ヴァルダの声が、少し柔らかくなる。


「“ありのまま”を愛されることより、悪いこともあるわ。」


「……まあ。」


「裸で行進しろ、とか言われないなら。」


「ふふっ!」


高い笑い声が、回廊に響く。


「約束するわ。」


「今のところは、ね。」


「今のところ?」


「気にしないで。」


俺は大げさに溜息をついた。


「……来たこと、後悔しそうな予感しかしません。」


「正解よ、エンジェル。」


「でも、後悔しているあなたも……きっと美しいわ。」


「性格悪いですよ、ヴァルダ。」


「怒ってるあなたが可愛いだけ。」


俺は天を仰いだ。

……顔が、熱い。


やがて、王女の私室の前に辿り着く。

扉の両脇に立つ二人の衛兵。片方が恭しく扉を開く。


……俺は、動かない。


「どうしたの?」


ヴァルダが振り返る。


「入らないの?」


「無理です。」


「は?」


「ここ、女性の部屋ですよ? しかも王女の。」


「見つかったら、挨拶する前に牢屋行きです。」


彼女は腕を組み、わざとらしく不満そうにする。


「私が、そんな些細なことで怒る王女に見える?」


「はい、完全に。」


即答。


「てへっ!」


「正直なのは好きよ。」


「でも、入るの。」


「拒否権はなし。」


「ちょ、ヴァルダ——」


言い終わる前に、彼女は俺の手を掴んだ。

黒いベルベットの手袋越しの、意外なほど強い力。


「ほら、照れない。」


「俺、照れてません!」


「はいはい、行くわよ。」


抗議する間もなく、引きずられるように部屋へ。


……そして。


俺は、完全に言葉を失った。


部屋は……本当にすごいですけど。

天井には、古代の戦争や星座を描いた壮大なフレスコ画。床には、金糸で刺繍された深い青の絨毯が敷かれている。

王族の大きな寝台は、絹の天蓋に覆われ、学生用の部屋など丸ごと収まりそうなほどだ。


右手には、開かれたままの衣装棚。

精巧な衣装、希少な布地、マント、そしていくつものティアラが並んでいる。


……だが、何よりも俺の視線を奪ったのは、壁だった。


そこには、まるで展示室のような光景が広がっている。


装飾された皿の数々。

金や銀で作られた、ヴォルタの英雄たちの像。

そして——


完全な武器庫。


彫刻の施された柄のレイピア、騎士の剣、巨大なハルバード、棍棒、優美な槍、精巧な弓。

さらには、儀礼用と思われる短剣までもが、シャンデリアの光を受けて輝いていた。


「……冗談ですよね。」


思わず、小声で呟く。


「何が?」


「ここ、展示場ですか? それとも寝室ですか?」


ヴァルダは誇らしげに微笑んだ。


「どちらも、かしら。」


「これらは、私の祖先の武具と遺物よ。中には、ヴォルタ建国者が使っていたものもあるわ。」


俺は、青紫色のサファイアが埋め込まれたレイピアに近づく。


「……これ、すごく綺麗だ。」


「祖母の剣よ。」


ヴァルダは胸を張る。


「国境戦争で、将軍ドラスを討ち取ったときに使われたもの。」


俺は低く口笛を吹いた。


「それは……すごい。」


「で、全部使えるんですか? これ。」


彼女は肩をすくめ、悪戯っぽく笑う。


「時々ね。」


「教官たちを驚かせるの、嫌いじゃないの。」


俺は腕を組む。


「……でしょうね。」


ヴァルダはくすっと笑い、俺に近づく。


「それで、エンジェル。」


「まだ、落ち着かない?」


俺は少し困ったように彼女を見る。


「当たり前じゃないですか。」


「王女の私室ですよ? ここ。」


「誰かに見られたら、首が飛びます。比喩じゃなく。」


「はあ……」


彼女は呆れたように目を回す。


「大げさね。」


「大げさじゃないです!」


「“紫眼のエルフ、ヴァルダ王女の寝室で発見”とか、噂になったら終わりです。」


ヴァルダは腰を押さえて笑った。


「あはははっ!」


「その顔……今にも倒れそうよ。」


「全部あなたのせいです!」


「かもしれないわね。」


彼女は一歩近づき、穏やかに言った。


「でも、私は王女よ。」


「責任を取るなら、私が取るわ。」


俺は大きく息を吐いた。


「……最高ですね。」


「つまり、俺は共犯者。」


ヴァルダは楽しそうに頷く。


「その通り。」


「覚悟しなさい。」


俺は天井を見上げた。


「まあ……」


「部屋は、本当にすごいですけど。」


彼女は、さっきより少し柔らかい笑みを向ける。


「ありがとう、エンジェル。」


「ここに入れたのは、家族以外ではあなたが初めてよ。」


俺は動きを止めた。


「……本気ですか?」


「本気。」


視線を落とす。


「……じゃあ、何も触らないようにします。」


「ふふ。」


「大丈夫よ。」


「ここに入れたのは、あなたを信頼しているから。」


その声の真剣さに、俺は一瞬、言葉を失う。


「……相変わらず、変な選択しますよね、ヴァルダ。」


「そうかも。」


彼女は微笑む。


「でも、私は“選ぶ価値のある危険”が好きなの。」


俺は小さく息を吐き、苦笑した。


「俺から言わせると……頑固なだけです。」


「あなたは可愛すぎるのよ。」


「自覚がないのが、なおさら。」


俺は顔を背ける。


「はいはい……」


「それ、さっきの守衛たちに言ってください。」


「きっと、俺を信用しますから。」


「あら。」


ヴァルダは楽しそうに笑う。


「もう、とっくに心を奪われてると思うけど?」


俺は首の後ろを揉んだ。


「……今日は、頭痛コース確定ですね。」


彼女は目を輝かせる。


「そうかもしれないわ。」


「でも……退屈はしてないでしょう?」


俺は肩を落としつつ、笑った。


「……残念ながら。」


「一秒も。」


ヴァルダは顎で、奥を示す。


「来て、エンジェル。」


「見せたいものがあるの。」


俺は少し警戒しながら、ヴァルダの後を追って宮殿の大きなバルコニーの一つへ向かった。

扉が開いた瞬間、海からのやわらかな潮風が頬を撫でる。眼下に広がる海の塩気を含んだ空気。朝の陽光が波に反射し、金色の光がテラス全体を満たしていた。


そして――白い大理石の広いテラスの中央に、一つのテーブルが用意されている。


薄手のテーブルクロス。磁器のカップ。香り高い湯気を立てるティーポット。

そして何より、王族仕様の朝食だった。

湯気の立つコーヒー、まだ温かいミルク、焼き立てのパン、苺のジャム、香ばしいシリアル。

その中央には、クリームと蜂蜜を添えたブラウニーの皿。


俺は思わず立ち止まり、目を見開いた。


「……待って。これ……俺の、ため?」


ヴァルダは当然のように椅子に腰を下ろし、楽しそうな視線を俺に向ける。


「私たちの、よ。」

そう言って、くすりと笑った。

「でも正直に言えば、あなたのことを一番に考えたわ。」


俺は眉をひそめる。


「本気で? しかも、俺が朝に食べるものと完全一致なんだけど。」


彼女はカップを手に取り、優雅に息を吹きかけてから答えた。


「ええ。ただ……分かるの。」


俺は目を細める。


「“分かる”ってさ。それ、答えになってない。」


「でも、それが唯一の答えよ。」


苦笑しながら首を振り、俺は彼女の向かいに腰を下ろした。


「……ほんと、変な人だな。」


「褒め言葉?」


「いや……まあ、少しだけ、かな。」


ヴァルダは小さく笑い、その澄んだ声が風と波音に溶け込んだ。


そして突然、彼女は肩の力を抜いた。

長い王族の外套を流れるような動作で脱ぎ、軽やかで上品な装いを露わにする。

手袋を外して丁寧にテーブルへ置き、袖をまくる。

細身ながら引き締まった腕――一流の剣士であることを隠しきれない。

最後に白銀の髪を高い位置で束ね、数本の髪が肩に落ちた。


俺は少し驚きながら、その様子を見ていた。


「……なに、してるんだ?」


「朝食よ。」

落ち着いた声で言う。

「あなたも、食べたら?」


数秒沈黙してから、俺は自分がまだ背筋を伸ばし、手袋も外さず、袖も整えたままだと気づいた。


彼女は楽しそうに俺を見る。


「あなた、手袋は外さないの?」


俺は自分の手を見る。


「外さない。」


「どうして?」


「……好きじゃないんだ」


「何が?」


「素手になるのが。」


ヴァルダは首を傾げる。


「何かを隠しているの?」


俺は片口だけ笑った。


「“そうだ”って言ったら、信じる?」


「ええ。もちろん。」


小さく笑い、誇れるわけでもない嘘を口にしかけて――やめた。


「いや。ただの癖だよ。それだけ。」


彼女はカップを置き、指を組む。

俺の内面を探ろうとしているのが分かる。


「あなた、本当に上手に隠すわね、エンジェル。理解したと思うたびに、また別の層、別の謎が現れる。」


「……ただの普通、って可能性は?」


「いいえ。あなたは普通じゃない。」


即答だった。


俺は少し戸惑いながら彼女を見る。


「……ずいぶん断言するな。」


「事実だからよ。あなたが思っている以上に、私はあなたを知っている。」


俺は海へ視線を逸らし、コーヒーを一口飲む。


「……朝っぱらから、そんな話し方されるの、普通の人なら引くと思うけど。」


「あなたは、好意を向けられるのが不思議なの?」


不意を突かれ、眉をひそめる。


「そんなこと、言ってない。」


「でも、思ったでしょう?」


数秒、言葉を失ってから、俺は吹き出した。


「……怖いな、あんた。」


「宮廷育ちなの。人を読む力は、本よりも実践で学ぶのよ。私のエルフさん。」


「じゃあ、俺は相当難敵だな。自分でも読めないし。」


彼女はブラウニーを一つ取り、軽くコーヒーに浸してから優雅にかじった。


「読めない、かもしれない。でも――見えない存在じゃないわ。」


俺は溜息をつきながらも、思わず微笑んでしまう。


「……そんな言い方されると、口説かれてる気がしてくる。」


「もし、そうだとしたら?」


眉を上げて言う彼女に、俺はコーヒーでむせた。


「ちょっ……!」


ヴァルダは心から楽しそうに笑う。


「冗談よ、エンジェル。……半分くらいは、ね。」


額に手を当て、俺は肩を落とした。


「……ヴァイオレットさんより厄介だ……。」


「あら。それ、褒め言葉?」


「褒めてない」


彼女はまた軽やかに笑い、ふと海を見つめた。


「こんなに心地いい朝食、久しぶりだわ。」


俺も少し力を抜いて笑う。


「……俺も、そうかも。」


彼女は振り返り、穏やかで深い眼差しを向けてくる。


「じゃあ、楽しみましょう。護衛も、政治も、過去もなしで。

 ただ……静かな時間を。」


俺はゆっくり頷いた。


「それなら、できる。」


ほんのひととき、世界は驚くほど単純に思えた。

風と、海と、温かいコーヒー。

そして――音楽のように澄んだ、彼女の笑い声。

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