チャプター40 ― 王宮での朝食……そして大胆な姫君。
一時間後、俺たちはヴォルタ王国の王宮の正面に立っていた。
海に面してそびえ立つ巨大な宮殿。白亜の塔が、まるで完璧な鏡のように、透き通った碧い海に映り込んでいる。
潮と砂の香りを含んだ海風が吹き抜け、俺はしばらく言葉を失っていた。
「圧巻でしょう?」
誇らしげな微笑みを浮かべ、ヴァルダが言う。
……正直、すぐには返事もできなかった。
金色に縁取られたステンドグラス、彫刻の施された柱、王家の紋章を掲げた旗が、風を受けて静かにはためいている。
「……すごい。」
ようやく、かすれた声で呟く。
「綺麗すぎて……夢みたいだ。」
ヴァルダは腕を組み、楽しそうに頷いた。
「ヴォルタ王宮は、八百年以上前に建てられたの。」
「一日のどの時間でも、太陽の光を反射するよう設計されている、と言われているわ。」
俺は首を傾げたまま、目を離せずにいる。
「確かに……どこもかしこも輝いてますね。石まで生きてるみたいだ。」
彼女は満足そうに微笑む。
「ああ、やっぱり。気に入ったみたいね。」
「異国の者は、最初は声も出なくなることが多いわ……」
「あなたは違う。」
「驚いているのに、どこか落ち着いている目をしている。」
「落ち着いてるかは分かりませんけど。」
俺は少し笑った。
「ただ……本当に、ここにいるって実感が湧かなくて。」
「本でしか見たことのない場所に、実際に立ってる気がして。」
ヴァルダは一歩近づき、柔らかな視線を向けてくる。
「なら、光栄に思いなさい。」
「ここまで近くで宮殿を眺められる者は少ないし……中に入れる者は、もっと少ないわ。」
俺は少し迷いながら聞いた。
「……え、入るんですか?」
「もちろん。」
落ち着いた声で言う。
「王宮のバルコニーからの景色を見せたいの。」
「ヴォルタの街も……水平線まで続く海も、全部見えるわ。」
数秒、俺は固まったまま。
「……本気ですか?」
「俺、入っていいんです?」
ヴァルダはくすっと笑う。
「招いたのは私でしょう?」
「それに……あなたは“普通の客”じゃないもの。」
俺は視線を逸らす。
「それ、褒められてるのか、警戒したほうがいいのか分からないんですけど。」
「両方かしら。」
彼女は楽しそうに笑った。
沈みゆく夕日が、宮殿の壁を黄金色に染める。
風が髪を揺らし、久しぶりに、俺はすべてを忘れていた。
「……本当に綺麗だ。」
「何時間でも、ここで見ていられそうです。」
ヴァルダは優しい眼差しを向ける。
「なら、来なさい。」
「中は……もっとすごいわよ。」
王宮に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした、香り高い空気が肌を撫でる。
重厚な金色の扉が、鈍い音を立てて閉まった。
大理石の回廊。その両脇に整列した王宮守護兵たちが、一斉に深く頭を下げる。
「栄光あれ、ヴォルタ王国第一王女、ヴァルダ様。」
ヴァルダは優雅に、軽く頷いただけだった。
……だが。
俺は気づく。
彼らの視線が、彼女ではなく——俺に向いていることに。
刺さるような視線。
すぐに逸らす者、ひそひそと囁く者、顔を真っ赤にして固まる者。
「……あれが?」
「噂通りだ……」
「エルフというより……天使じゃないか?」
「馬鹿、黙れ! 殺されたいのか!?」
俺は軽く咳払いをした。
……まあ、無駄だったけど。
「ふふ。」
ヴァルダが楽しそうに言う。
「どうやら、注目の的みたいね、エンジェル。」
「え? いや、違いますよ。」
「たまたま……俺の方向を見てただけで……」
「いいえ。」
彼女は腰に手を当てる。
「見てみなさい。誰も呼吸すらできていないわ。」
頬が熱くなる。
「……正直、居心地悪いです。」
「あなたにとっては、ね。」
「でも彼らにとっては奇跡よ。」
「これだけ規律正しい兵が動揺するなんて。」
「もし宮廷の令嬢たちの前に出したら……どうなるかしら。」
「冗談きついです、ヴァルダ姫。」
「少しだけよ。」
「ねえ、エンジェル。」
「男性すら赤面させるなら……女性相手だと、どうなると思う?」
「ちょ、ちょっと待ってください! 何言ってるんですか!?」
彼女は首を傾げ、悪戯っぽく微笑む。
「性別の壁すら越える魅力……危険ね。」
「暴動防止のため、あまり人前に出さないほうがいいかしら。」
「俺、暴動の原因扱いですか、それ!?」
「事実を述べているだけよ。」
「ほら、近衛隊長ですら、天井を見つめてる。」
俺もちらりと見る。
……本当に、ものすごい集中力で天井を見ていた。
「……はあ。」
「俺、公共の邪魔者になりました。」
「そんな言い方しないで。」
ヴァルダの声が、少し柔らかくなる。
「“ありのまま”を愛されることより、悪いこともあるわ。」
「……まあ。」
「裸で行進しろ、とか言われないなら。」
「ふふっ!」
高い笑い声が、回廊に響く。
「約束するわ。」
「今のところは、ね。」
「今のところ?」
「気にしないで。」
俺は大げさに溜息をついた。
「……来たこと、後悔しそうな予感しかしません。」
「正解よ、エンジェル。」
「でも、後悔しているあなたも……きっと美しいわ。」
「性格悪いですよ、ヴァルダ。」
「怒ってるあなたが可愛いだけ。」
俺は天を仰いだ。
……顔が、熱い。
やがて、王女の私室の前に辿り着く。
扉の両脇に立つ二人の衛兵。片方が恭しく扉を開く。
……俺は、動かない。
「どうしたの?」
ヴァルダが振り返る。
「入らないの?」
「無理です。」
「は?」
「ここ、女性の部屋ですよ? しかも王女の。」
「見つかったら、挨拶する前に牢屋行きです。」
彼女は腕を組み、わざとらしく不満そうにする。
「私が、そんな些細なことで怒る王女に見える?」
「はい、完全に。」
即答。
「てへっ!」
「正直なのは好きよ。」
「でも、入るの。」
「拒否権はなし。」
「ちょ、ヴァルダ——」
言い終わる前に、彼女は俺の手を掴んだ。
黒いベルベットの手袋越しの、意外なほど強い力。
「ほら、照れない。」
「俺、照れてません!」
「はいはい、行くわよ。」
抗議する間もなく、引きずられるように部屋へ。
……そして。
俺は、完全に言葉を失った。
部屋は……本当にすごいですけど。
天井には、古代の戦争や星座を描いた壮大なフレスコ画。床には、金糸で刺繍された深い青の絨毯が敷かれている。
王族の大きな寝台は、絹の天蓋に覆われ、学生用の部屋など丸ごと収まりそうなほどだ。
右手には、開かれたままの衣装棚。
精巧な衣装、希少な布地、マント、そしていくつものティアラが並んでいる。
……だが、何よりも俺の視線を奪ったのは、壁だった。
そこには、まるで展示室のような光景が広がっている。
装飾された皿の数々。
金や銀で作られた、ヴォルタの英雄たちの像。
そして——
完全な武器庫。
彫刻の施された柄のレイピア、騎士の剣、巨大なハルバード、棍棒、優美な槍、精巧な弓。
さらには、儀礼用と思われる短剣までもが、シャンデリアの光を受けて輝いていた。
「……冗談ですよね。」
思わず、小声で呟く。
「何が?」
「ここ、展示場ですか? それとも寝室ですか?」
ヴァルダは誇らしげに微笑んだ。
「どちらも、かしら。」
「これらは、私の祖先の武具と遺物よ。中には、ヴォルタ建国者が使っていたものもあるわ。」
俺は、青紫色のサファイアが埋め込まれたレイピアに近づく。
「……これ、すごく綺麗だ。」
「祖母の剣よ。」
ヴァルダは胸を張る。
「国境戦争で、将軍ドラスを討ち取ったときに使われたもの。」
俺は低く口笛を吹いた。
「それは……すごい。」
「で、全部使えるんですか? これ。」
彼女は肩をすくめ、悪戯っぽく笑う。
「時々ね。」
「教官たちを驚かせるの、嫌いじゃないの。」
俺は腕を組む。
「……でしょうね。」
ヴァルダはくすっと笑い、俺に近づく。
「それで、エンジェル。」
「まだ、落ち着かない?」
俺は少し困ったように彼女を見る。
「当たり前じゃないですか。」
「王女の私室ですよ? ここ。」
「誰かに見られたら、首が飛びます。比喩じゃなく。」
「はあ……」
彼女は呆れたように目を回す。
「大げさね。」
「大げさじゃないです!」
「“紫眼のエルフ、ヴァルダ王女の寝室で発見”とか、噂になったら終わりです。」
ヴァルダは腰を押さえて笑った。
「あはははっ!」
「その顔……今にも倒れそうよ。」
「全部あなたのせいです!」
「かもしれないわね。」
彼女は一歩近づき、穏やかに言った。
「でも、私は王女よ。」
「責任を取るなら、私が取るわ。」
俺は大きく息を吐いた。
「……最高ですね。」
「つまり、俺は共犯者。」
ヴァルダは楽しそうに頷く。
「その通り。」
「覚悟しなさい。」
俺は天井を見上げた。
「まあ……」
「部屋は、本当にすごいですけど。」
彼女は、さっきより少し柔らかい笑みを向ける。
「ありがとう、エンジェル。」
「ここに入れたのは、家族以外ではあなたが初めてよ。」
俺は動きを止めた。
「……本気ですか?」
「本気。」
視線を落とす。
「……じゃあ、何も触らないようにします。」
「ふふ。」
「大丈夫よ。」
「ここに入れたのは、あなたを信頼しているから。」
その声の真剣さに、俺は一瞬、言葉を失う。
「……相変わらず、変な選択しますよね、ヴァルダ。」
「そうかも。」
彼女は微笑む。
「でも、私は“選ぶ価値のある危険”が好きなの。」
俺は小さく息を吐き、苦笑した。
「俺から言わせると……頑固なだけです。」
「あなたは可愛すぎるのよ。」
「自覚がないのが、なおさら。」
俺は顔を背ける。
「はいはい……」
「それ、さっきの守衛たちに言ってください。」
「きっと、俺を信用しますから。」
「あら。」
ヴァルダは楽しそうに笑う。
「もう、とっくに心を奪われてると思うけど?」
俺は首の後ろを揉んだ。
「……今日は、頭痛コース確定ですね。」
彼女は目を輝かせる。
「そうかもしれないわ。」
「でも……退屈はしてないでしょう?」
俺は肩を落としつつ、笑った。
「……残念ながら。」
「一秒も。」
ヴァルダは顎で、奥を示す。
「来て、エンジェル。」
「見せたいものがあるの。」
俺は少し警戒しながら、ヴァルダの後を追って宮殿の大きなバルコニーの一つへ向かった。
扉が開いた瞬間、海からのやわらかな潮風が頬を撫でる。眼下に広がる海の塩気を含んだ空気。朝の陽光が波に反射し、金色の光がテラス全体を満たしていた。
そして――白い大理石の広いテラスの中央に、一つのテーブルが用意されている。
薄手のテーブルクロス。磁器のカップ。香り高い湯気を立てるティーポット。
そして何より、王族仕様の朝食だった。
湯気の立つコーヒー、まだ温かいミルク、焼き立てのパン、苺のジャム、香ばしいシリアル。
その中央には、クリームと蜂蜜を添えたブラウニーの皿。
俺は思わず立ち止まり、目を見開いた。
「……待って。これ……俺の、ため?」
ヴァルダは当然のように椅子に腰を下ろし、楽しそうな視線を俺に向ける。
「私たちの、よ。」
そう言って、くすりと笑った。
「でも正直に言えば、あなたのことを一番に考えたわ。」
俺は眉をひそめる。
「本気で? しかも、俺が朝に食べるものと完全一致なんだけど。」
彼女はカップを手に取り、優雅に息を吹きかけてから答えた。
「ええ。ただ……分かるの。」
俺は目を細める。
「“分かる”ってさ。それ、答えになってない。」
「でも、それが唯一の答えよ。」
苦笑しながら首を振り、俺は彼女の向かいに腰を下ろした。
「……ほんと、変な人だな。」
「褒め言葉?」
「いや……まあ、少しだけ、かな。」
ヴァルダは小さく笑い、その澄んだ声が風と波音に溶け込んだ。
そして突然、彼女は肩の力を抜いた。
長い王族の外套を流れるような動作で脱ぎ、軽やかで上品な装いを露わにする。
手袋を外して丁寧にテーブルへ置き、袖をまくる。
細身ながら引き締まった腕――一流の剣士であることを隠しきれない。
最後に白銀の髪を高い位置で束ね、数本の髪が肩に落ちた。
俺は少し驚きながら、その様子を見ていた。
「……なに、してるんだ?」
「朝食よ。」
落ち着いた声で言う。
「あなたも、食べたら?」
数秒沈黙してから、俺は自分がまだ背筋を伸ばし、手袋も外さず、袖も整えたままだと気づいた。
彼女は楽しそうに俺を見る。
「あなた、手袋は外さないの?」
俺は自分の手を見る。
「外さない。」
「どうして?」
「……好きじゃないんだ」
「何が?」
「素手になるのが。」
ヴァルダは首を傾げる。
「何かを隠しているの?」
俺は片口だけ笑った。
「“そうだ”って言ったら、信じる?」
「ええ。もちろん。」
小さく笑い、誇れるわけでもない嘘を口にしかけて――やめた。
「いや。ただの癖だよ。それだけ。」
彼女はカップを置き、指を組む。
俺の内面を探ろうとしているのが分かる。
「あなた、本当に上手に隠すわね、エンジェル。理解したと思うたびに、また別の層、別の謎が現れる。」
「……ただの普通、って可能性は?」
「いいえ。あなたは普通じゃない。」
即答だった。
俺は少し戸惑いながら彼女を見る。
「……ずいぶん断言するな。」
「事実だからよ。あなたが思っている以上に、私はあなたを知っている。」
俺は海へ視線を逸らし、コーヒーを一口飲む。
「……朝っぱらから、そんな話し方されるの、普通の人なら引くと思うけど。」
「あなたは、好意を向けられるのが不思議なの?」
不意を突かれ、眉をひそめる。
「そんなこと、言ってない。」
「でも、思ったでしょう?」
数秒、言葉を失ってから、俺は吹き出した。
「……怖いな、あんた。」
「宮廷育ちなの。人を読む力は、本よりも実践で学ぶのよ。私のエルフさん。」
「じゃあ、俺は相当難敵だな。自分でも読めないし。」
彼女はブラウニーを一つ取り、軽くコーヒーに浸してから優雅にかじった。
「読めない、かもしれない。でも――見えない存在じゃないわ。」
俺は溜息をつきながらも、思わず微笑んでしまう。
「……そんな言い方されると、口説かれてる気がしてくる。」
「もし、そうだとしたら?」
眉を上げて言う彼女に、俺はコーヒーでむせた。
「ちょっ……!」
ヴァルダは心から楽しそうに笑う。
「冗談よ、エンジェル。……半分くらいは、ね。」
額に手を当て、俺は肩を落とした。
「……ヴァイオレットさんより厄介だ……。」
「あら。それ、褒め言葉?」
「褒めてない」
彼女はまた軽やかに笑い、ふと海を見つめた。
「こんなに心地いい朝食、久しぶりだわ。」
俺も少し力を抜いて笑う。
「……俺も、そうかも。」
彼女は振り返り、穏やかで深い眼差しを向けてくる。
「じゃあ、楽しみましょう。護衛も、政治も、過去もなしで。
ただ……静かな時間を。」
俺はゆっくり頷いた。
「それなら、できる。」
ほんのひととき、世界は驚くほど単純に思えた。
風と、海と、温かいコーヒー。
そして――音楽のように澄んだ、彼女の笑い声。




