チャプター39 ― 天使は説得を試みるが、姫は最後まで信じようとしなかった。
「エンジェル……少し、話があるわ。」
俺は心の中で小さく唸いた。
(……またかよ。)
そう思いながらも、立ち上がるしかなかった。ヴァルダ姫の命令を拒む、なんて選択肢は最初から存在しない。
彼女は俺の前を歩き出す。ゆっくりと、静かに。
床に響く足音はどこか厳かで、踏むたびに空気が引き締まるように感じられた。ときおり、ほんのわずかに首を傾け、青紫の瞳が俺を捉える。そのたびに、柔らかな微笑みが唇に浮かぶ。
……その視線が、胸を締めつける。
「今朝は、ずいぶん早起きだったそうね。」
試すような、けれどどこか優しい声。
「あ、ああ……まあ……」
我ながら歯切れの悪い返事だ。
(違う……俺はあのエルフじゃない。俺じゃない……この話とは何の関係もない。)
そう言い聞かせると、彼女の放つ気配が曖昧な既視感を呼び起こした。思い出したくもない、輪郭のぼやけた感覚。
「体調はどう?」
王族らしい落ち着いた口調。その奥に、確かな関心が滲んでいた。
「……まあ、普通です。」
眉をひそめて答える。
「エンジェル。」
彼女は足を止め、静かに言った。
「何か……悩んでいるように見えるわ。」
(当たり前だろ。悩んでるに決まってる。)
(俺が“そのエルフ”じゃないってことを、どう否定するかでな。)
彼女は再び微笑む。穏やかで、それでいて核心を覗き込むような笑み。心臓が、嫌なほど速く打つ。
「あなたは、自分が思っている以上の存在よ。」
独り言のように呟き、再び歩き出す。
俺は視線の置き場を失った。
足取り、かすかな香り、揺れる白い髪……すべてが、信じることを拒んできた出来事を思い出させる。
(違う……違うんだ、俺じゃない……)
そう繰り返していると、彼女が振り返る。その優しい眼差しに、決意がなんだか少しずつ削られていく。
「エンジェル。」
突然、呼び止められ、思わず顔を上げる。
「話さなければならないことが、たくさんあるわ。」
肩をすくめ、平静を装う。
(話したところで、何が変わるっていうんだ……。)
俺たちは廊下を進む。
磨き上げられた大理石に、足音だけが響く。警護の兵たちはヴァルダに深く頭を下げるが、俺の意識は、廊下の先にそびえる黄金の扉に釘付けだった。
心臓の音が、やけにうるさい。
扉の前で、俺は立ち止まった。
数歩先で、ヴァルダが振り返る。その眼差しは相変わらず柔らかく、どこか母性的で……もう我慢ならなかった。
息を吸い、言葉を吐き出す。
「あの……聞いてください、姫様……」
「紫の瞳をしたエルフを探してるなら……それ、俺じゃありません。」
彼女は黙っている。
俺は続けた。自分を納得させるように。
「誰かを救った記憶もない。あなたも、妹君も、誰一人。」
「そもそも、物理的に不可能なんです。」
指を折り、順に示す。
「ヴァイオレットが言ってた牢獄は、聖地の近く。つまりソラリア王国か、獣人領。」
「八年前、俺は六歳でした。六歳で、すでにヴォルタの農村でエリーと暮らしてた。」
言葉は止まらない。
「ソラリアからヴォルタまで徒歩で一年半。あの頃、転移魔法なんて知らなかった。教わったのは十歳のときです。」
「仮に誰かが俺を転移させたとして……どうして、カルトの計画を潰したガキを助ける理由がある?」
最後に、はっきりと言い切る。
「……つまり、あなたは勘違いしてる。俺は、そのエルフじゃない。」
沈黙。
だが、次の瞬間——
ヴァルダは、微笑んだ。
怒りでも、作り笑いでもない。
穏やかで、どこか愛おしむような笑み。
「ええ、分かっているわ、エンジェル。」
「あなたは、そのエルフじゃない。」
言葉を失う。
「……え?」
「じゃあ、なんでみんな——」
彼女は静かに首を振った。
「放っておきなさい。」
「噂は、いつも真実と伝承を混ぜてしまうものよ。」
俺は大きく息を吐いた。
「……やっと、まともな人がいた。」
だが、視線を落とした瞬間、気づかなかった。
彼女の唇が、かすかに震えていたことを。
(……なんて真面目なの。)
胸元に指を当て、彼女は内心で笑う。
(本気で、私が信じたと思ってる?)
(距離も理屈も、もうどうでもいい。)
(その目、その気配、その声——私は、間違えない。)
笑みは内側で膨らみ、抑えきれなくなる。
(ああ……なんて素敵な喜劇。)
(ええ、もちろん“知ってる”わ。あなたが違うって。)
(——なんて、嘘。)
狂おしいほどの確信を胸に、彼女は表情を整える。
「行きましょう。」
「別の話をしなくては。」
俺は従った。
彼女の完璧な微笑みの裏で、まだ笑い続けていることなど、知る由もなく。
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ヴァルダは廊下を進みながらも、思考だけは先ほどの俺の言葉に引っかかったままだった。
(八年前、六歳……)
その瞬間、彼女はぴたりと足を止め、わずかに眉を寄せる。
頭の中で、即座に計算が走った。
ゆっくりと振り返り、その鋭い視線が俺を射抜く。
「……ちょっと待って。」
落ち着いた声だが、どこか興味深そうだ。
「八年前に六歳だったということは……今は、十四歳ということになるわよね?」
俺は思わず瞬きをした。完全に不意打ちだ。
「え、あ……まあ……だいたい、そんな感じです。」
彼女は腕を組む。
「だいたい? それは、十四歳じゃないという意味?」
「い、いや! 十四です、十四!」
慌てて言い切る。
「……正確には、十四歳と、数か月。まあ、その……数え方にもよりますけど。」
ヴァルダは目を細め、楽しそうに微笑んだ。
「なるほど。では教えてちょうだい。」
「十四歳の生徒が、どうして学院に在籍しているのかしら? 正式な入学条件は、十五歳以上のはずよ。」
俺は一瞬、やけに深刻な表情を作った。
まるで重大な秘密を明かすかのように。
……そして、次の瞬間、すべてを台無しにした。
「えーっとですね……十三歳だったんですけど……」
「それで、エリーが帰ってきて……」
「それで、手紙をくれて……」
「それで、開いて……読んで……」
「それで、ヴォルタの王様が“今年から学院に入れ”って……」
「それで、十四歳になって……」
「それで、入学しました。」
「以上です。」
ヴァルダは一秒、沈黙し――
次の瞬間、吹き出した。
「あははははっ!」
澄んだ、柔らかな、本気の笑い声が、広い廊下に響く。
「なるほど、なるほど! 王からの直々の手紙、というわけね?」
「それを、そんな真剣な顔で語るなんて……!」
俺は少し拗ねたふりをする。
「いや、本当ですからね!?」
彼女は身を乗り出し、からかうように言った。
「それで? 王様が、あなた個人に宛てて?」
俺は誇らしげにうなずき、人差し指を天に向ける。
「もちろんです。“親愛なるエンジェルへ”って、ちゃんと書いてありました。」
ヴァルダは口元を押さえ、笑いを堪える。
「もう……可愛すぎるわ。」
「そんなこと、世界の理みたいに言うのね。」
「だって普通じゃないですか?」
俺はきょとんとして答える。
「王様、俺のこと気に入ってるんですよ。」
「“王国に若々しい活力をもたらす存在”だって。」
「……たぶん、“若い”って意味だと思います。」
「あはははっ!」
彼女はお腹を押さえるほど笑った。
「本当に、あなたはすごいわ、エンジェル。」
「狙っていないのに、こんなに面白いなんて。」
俺は肩をすくめる。
「生まれつきの才能です。」
彼女は目尻の涙をぬぐいながら、微笑んだ。
「ええ。その才能のおかげで……あなたがいると、とても心地いい。」
俺は照れくさくなり、首の後ろを掻く。
「あ、えっと……どうも?」
「いいえ、本心よ。」
ヴァルダは優しく言った。
「あなたといると、政治も、伝統も……少し忘れられる。」
俺は思わず顔を上げる。
「……なんか、すごく年寄りみたいな言い方ですね。」
「そうかもしれないわ。」
彼女は微笑む。
「でも、あなたは行く先々に光を連れてくる。」
俺は視線を逸らした。
「俺は……ただの俺です。」
ヴァルダはその背中を見つめ、楽しげに目を輝かせる。
「ええ。それが、あなたが“一緒にいて心地いい”理由よ。」
彼女は再び歩き出す。
俺は後ろで小さく呟いた。
「……“一緒にいて心地いい”って。」
「それ、“面白いバカ”って意味じゃないですか……?」
振り返らず、彼女はくすっと笑う。
「かもしれないわね。」
「でも、私は堅苦しい会話、あまり好きじゃないの。」
しばらくの間、宮殿の長い廊下には、
足音の反響と――軽やかな笑い声だけが、静かに溶け合っていた。




