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『天使と紫の炎』  作者: Bro_Be_Like_83
第3部 — 賑わう王都の中の天使。
48/63

チャプター39 ― 天使は説得を試みるが、姫は最後まで信じようとしなかった。

「エンジェル……少し、話があるわ。」


俺は心の中で小さく唸いた。

(……またかよ。)

そう思いながらも、立ち上がるしかなかった。ヴァルダ姫の命令を拒む、なんて選択肢は最初から存在しない。


彼女は俺の前を歩き出す。ゆっくりと、静かに。

床に響く足音はどこか厳かで、踏むたびに空気が引き締まるように感じられた。ときおり、ほんのわずかに首を傾け、青紫の瞳が俺を捉える。そのたびに、柔らかな微笑みが唇に浮かぶ。


……その視線が、胸を締めつける。


「今朝は、ずいぶん早起きだったそうね。」


試すような、けれどどこか優しい声。


「あ、ああ……まあ……」


我ながら歯切れの悪い返事だ。

(違う……俺はあのエルフじゃない。俺じゃない……この話とは何の関係もない。)


そう言い聞かせると、彼女の放つ気配が曖昧な既視感を呼び起こした。思い出したくもない、輪郭のぼやけた感覚。


「体調はどう?」


王族らしい落ち着いた口調。その奥に、確かな関心が滲んでいた。


「……まあ、普通です。」


眉をひそめて答える。


「エンジェル。」


彼女は足を止め、静かに言った。

「何か……悩んでいるように見えるわ。」


(当たり前だろ。悩んでるに決まってる。)

(俺が“そのエルフ”じゃないってことを、どう否定するかでな。)


彼女は再び微笑む。穏やかで、それでいて核心を覗き込むような笑み。心臓が、嫌なほど速く打つ。


「あなたは、自分が思っている以上の存在よ。」


独り言のように呟き、再び歩き出す。


俺は視線の置き場を失った。

足取り、かすかな香り、揺れる白い髪……すべてが、信じることを拒んできた出来事を思い出させる。


(違う……違うんだ、俺じゃない……)


そう繰り返していると、彼女が振り返る。その優しい眼差しに、決意がなんだか少しずつ削られていく。


「エンジェル。」


突然、呼び止められ、思わず顔を上げる。


「話さなければならないことが、たくさんあるわ。」


肩をすくめ、平静を装う。

(話したところで、何が変わるっていうんだ……。)


俺たちは廊下を進む。

磨き上げられた大理石に、足音だけが響く。警護の兵たちはヴァルダに深く頭を下げるが、俺の意識は、廊下の先にそびえる黄金の扉に釘付けだった。


心臓の音が、やけにうるさい。


扉の前で、俺は立ち止まった。

数歩先で、ヴァルダが振り返る。その眼差しは相変わらず柔らかく、どこか母性的で……もう我慢ならなかった。


息を吸い、言葉を吐き出す。


「あの……聞いてください、姫様……」


「紫の瞳をしたエルフを探してるなら……それ、俺じゃありません。」


彼女は黙っている。

俺は続けた。自分を納得させるように。


「誰かを救った記憶もない。あなたも、妹君も、誰一人。」


「そもそも、物理的に不可能なんです。」


指を折り、順に示す。


「ヴァイオレットが言ってた牢獄は、聖地の近く。つまりソラリア王国か、獣人領。」


「八年前、俺は六歳でした。六歳で、すでにヴォルタの農村でエリーと暮らしてた。」


言葉は止まらない。


「ソラリアからヴォルタまで徒歩で一年半。あの頃、転移魔法なんて知らなかった。教わったのは十歳のときです。」


「仮に誰かが俺を転移させたとして……どうして、カルトの計画を潰したガキを助ける理由がある?」


最後に、はっきりと言い切る。


「……つまり、あなたは勘違いしてる。俺は、そのエルフじゃない。」


沈黙。


だが、次の瞬間——

ヴァルダは、微笑んだ。


怒りでも、作り笑いでもない。

穏やかで、どこか愛おしむような笑み。


「ええ、分かっているわ、エンジェル。」


「あなたは、そのエルフじゃない。」


言葉を失う。


「……え?」


「じゃあ、なんでみんな——」


彼女は静かに首を振った。


「放っておきなさい。」


「噂は、いつも真実と伝承を混ぜてしまうものよ。」


俺は大きく息を吐いた。


「……やっと、まともな人がいた。」


だが、視線を落とした瞬間、気づかなかった。

彼女の唇が、かすかに震えていたことを。


(……なんて真面目なの。)


胸元に指を当て、彼女は内心で笑う。


(本気で、私が信じたと思ってる?)


(距離も理屈も、もうどうでもいい。)


(その目、その気配、その声——私は、間違えない。)


笑みは内側で膨らみ、抑えきれなくなる。


(ああ……なんて素敵な喜劇。)


(ええ、もちろん“知ってる”わ。あなたが違うって。)


(——なんて、嘘。)


狂おしいほどの確信を胸に、彼女は表情を整える。


「行きましょう。」


「別の話をしなくては。」


俺は従った。

彼女の完璧な微笑みの裏で、まだ笑い続けていることなど、知る由もなく。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ヴァルダは廊下を進みながらも、思考だけは先ほどの俺の言葉に引っかかったままだった。


(八年前、六歳……)


その瞬間、彼女はぴたりと足を止め、わずかに眉を寄せる。

頭の中で、即座に計算が走った。


ゆっくりと振り返り、その鋭い視線が俺を射抜く。


「……ちょっと待って。」


落ち着いた声だが、どこか興味深そうだ。


「八年前に六歳だったということは……今は、十四歳ということになるわよね?」


俺は思わず瞬きをした。完全に不意打ちだ。


「え、あ……まあ……だいたい、そんな感じです。」


彼女は腕を組む。


「だいたい? それは、十四歳じゃないという意味?」


「い、いや! 十四です、十四!」

慌てて言い切る。

「……正確には、十四歳と、数か月。まあ、その……数え方にもよりますけど。」


ヴァルダは目を細め、楽しそうに微笑んだ。


「なるほど。では教えてちょうだい。」


「十四歳の生徒が、どうして学院に在籍しているのかしら? 正式な入学条件は、十五歳以上のはずよ。」


俺は一瞬、やけに深刻な表情を作った。

まるで重大な秘密を明かすかのように。


……そして、次の瞬間、すべてを台無しにした。


「えーっとですね……十三歳だったんですけど……」


「それで、エリーが帰ってきて……」


「それで、手紙をくれて……」


「それで、開いて……読んで……」


「それで、ヴォルタの王様が“今年から学院に入れ”って……」


「それで、十四歳になって……」


「それで、入学しました。」


「以上です。」


ヴァルダは一秒、沈黙し――


次の瞬間、吹き出した。


「あははははっ!」


澄んだ、柔らかな、本気の笑い声が、広い廊下に響く。


「なるほど、なるほど! 王からの直々の手紙、というわけね?」


「それを、そんな真剣な顔で語るなんて……!」


俺は少し拗ねたふりをする。


「いや、本当ですからね!?」


彼女は身を乗り出し、からかうように言った。


「それで? 王様が、あなた個人に宛てて?」


俺は誇らしげにうなずき、人差し指を天に向ける。


「もちろんです。“親愛なるエンジェルへ”って、ちゃんと書いてありました。」


ヴァルダは口元を押さえ、笑いを堪える。


「もう……可愛すぎるわ。」


「そんなこと、世界の理みたいに言うのね。」


「だって普通じゃないですか?」

俺はきょとんとして答える。

「王様、俺のこと気に入ってるんですよ。」


「“王国に若々しい活力をもたらす存在”だって。」


「……たぶん、“若い”って意味だと思います。」


「あはははっ!」


彼女はお腹を押さえるほど笑った。


「本当に、あなたはすごいわ、エンジェル。」


「狙っていないのに、こんなに面白いなんて。」


俺は肩をすくめる。


「生まれつきの才能です。」


彼女は目尻の涙をぬぐいながら、微笑んだ。


「ええ。その才能のおかげで……あなたがいると、とても心地いい。」


俺は照れくさくなり、首の後ろを掻く。


「あ、えっと……どうも?」


「いいえ、本心よ。」

ヴァルダは優しく言った。

「あなたといると、政治も、伝統も……少し忘れられる。」


俺は思わず顔を上げる。


「……なんか、すごく年寄りみたいな言い方ですね。」


「そうかもしれないわ。」

彼女は微笑む。

「でも、あなたは行く先々に光を連れてくる。」


俺は視線を逸らした。


「俺は……ただの俺です。」


ヴァルダはその背中を見つめ、楽しげに目を輝かせる。


「ええ。それが、あなたが“一緒にいて心地いい”理由よ。」


彼女は再び歩き出す。

俺は後ろで小さく呟いた。


「……“一緒にいて心地いい”って。」


「それ、“面白いバカ”って意味じゃないですか……?」


振り返らず、彼女はくすっと笑う。


「かもしれないわね。」


「でも、私は堅苦しい会話、あまり好きじゃないの。」


しばらくの間、宮殿の長い廊下には、

足音の反響と――軽やかな笑い声だけが、静かに溶け合っていた。


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