チャプター38 ― しまった…姫さま!
学院の正門をくぐった瞬間、こめかみに鋭い圧迫感が走った。
まるで見えない重りが頭蓋を内側から押し潰してくるかのようで、ざわめく会話と人の流れの中、その“存在”は真っ直ぐに俺を射抜いてきた。
――ヴァルダ姫。
堂々たる立ち姿。
左右寸分違わぬ白銀の髪。
青に紫を宿した瞳。
その放つ威圧的な気配は、比喩ではなく、本当に頭痛を引き起こすほどだった。
(……くそ……これは……無理だ……)
歯の間から小さく吐き捨てるように呟き、急激に膨れ上がる痛みに耐える。
周囲に視線を走らせると、ヴァイオレット、ブランシュ、エスター、エリー――
皆それぞれ会話に夢中で、こちらを見ていない。
……今だ。
―「……俺、ちょっと行ってくる。すぐ戻るから」
返事を待たず、小声でそう告げると、俺は集団から離れ、人混みの隙間を縫うように歩き出した。
挨拶も、好奇と称賛の混じった視線も、すべて無視する。
中央通路に響く自分の足音が、やけに重く感じられ、呼吸一つするたびに頭の奥が脈打った。
その背後で、ヴァルダはヴァイオレットに歩み寄り、柔らかな笑みを浮かべていた。
―「ヴァイオレット、久しぶりね。……ところで、エルフのエンジェルは見なかったかしら?」
ヴァイオレットは肩をすくめ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
―「ふふっ……もしかしてお姉ちゃん、目ついてないの? エンジェルなら――」
そう言いかけて、ふと気づく。
―「……あれ? ……いない?」
ヴァルダはわずかに眉をひそめ、心配そうに、しかし冷静に頷いた。
―「そう……。なら、探しましょう。必ず見つかるわ」
同時に、エリー、ブランシュ、エスターも俺の不在に気づき、振り返った。
―「エンジェル!」
―「エンジェルくん、どこ行ったのよ!」とヴァイオレット。
―「……消えた、というわけではなさそうね……」ブランシュの鋭い視線が人波を切り裂く。
―「なんでこういう時にいなくなるんだよ……」とエスターが苛立たしげに舌打ちした。
彼女たちは自然と散開し、学院の中庭、回廊、果ては屋上にまで目を向け始める。
―「エンジェル! どこ!?」
―「ここで突っ立ってる場合じゃないわ!」
―「慎重に、でも迅速に……具合が悪い可能性もある」
―「ったく……意味わかんねぇ……!」
その頃、俺は歴史上の女戦士の像の近く、植え込みの影に身を潜め、両手で頭を押さえていた。
深く呼吸し、脈打つ痛みを必死に抑え込む。
(エンジェル……落ち着け。これはただの偏頭痛だ。呪いでも何でもない。深呼吸しろ。後で合流すればいいだけだ)
だが外では騒ぎが増していく。
ヴァイオレットの声が何度も響き、エリーは険しい表情で辺りを見回し、ブランシュは一切の死角を見逃さない。
エスターでさえ、苛立ちを装いながら、どこか落ち着かない様子だった。
(……理解するまで時間かかりそうだな。俺がただ、頭割れそうで離れただけだって)
そう思いながら、人の流れに紛れるようにさらに奥へ進む。
やがて回廊の壁に背を預け、その場に座り込んだ。
冷たい石の感触が背中に伝わる。
頭痛はまるで太鼓の連打のように脳を叩き、息をするだけで圧が増す。
(……最悪のタイミングだろ……なんで今なんだよ)
歯を食いしばる。
(これはただの……頭痛だ。
牢獄だとか、閉じ込められた少女たちだとか、ヴァルダ姫だとか……関係ない)
――だが、否定しようとするほど、記憶と言葉が頭の中で衝突する。
ヴァイオレットの語った話。
ブランシュの確信に満ちた眼差し。
そして、ヴァルダの圧倒的な存在感。
すべてが、一つの結論を指し示そうとしていた。
(違う……違う違う。
俺は紫の目をした英雄のエルフなんかじゃない。最初から、そんな存在じゃない)
何度も繰り返す。
だがそのたび、頭痛は強くなり、まるで身体と精神が真逆の答えを突きつけてくるかのようだった。
(大げさなんだよ、みんな。
ヴァイオレットも、ブランシュも……そしてヴァルダ姫も。
俺が皆を救った? 六歳で? ……はっ)
こめかみを押さえる。
(馬鹿馬鹿しい。完全にあり得ない。
俺は関係ない。なりたくもない。
……なのに、なんでこんなに否定しづらいんだよ)
長く、乱れた息を吐いた。
(……考えるな。牢獄も、少女たちも、ヴァルダ姫の執着も。
全部忘れろ。意味不明だ。くだらない。これ以上考える価値もない)
それでも脳裏をよぎる、紫の瞳。
救われた少女たち。
“勇敢な小さなエルフ”。
俺は強く首を振り、目を閉じる。
(違う。全部、俺とは無関係だ。
俺は……ただのエンジェルだ。それでいい)
回廊は静まり返っていた。
壁にもたれ、目を閉じたまま、残滓のように疼く頭痛を感じる。
――だが、その静寂の中で、一筋の理屈が組み上がっていく。
(待て……冷静に考えろ、エンジェル)
ほとんど独り言のように、心の中で呟く。
(牢獄は聖地の近く……つまりソラリア王国か、獣人国家。
八年前……俺は六歳)
指先で壁をなぞりながら、計算する。
(六歳の頃、俺はヴォルタ近郊でエリーに出会った。
そこから目的地まで、徒歩なら最低でも一年半……宿や野営を考えれば二年はかかる)
(それに、六歳の俺に転移魔法?
移動魔法?
……一つも使えなかった)
深く息を吸う。
(仮に、仮にだ……誰かが転移させたとして。
六歳の子供に、あんな計画を壊させるほど親切な奴がいるか?
……いるわけない)
小さく、乾いた笑いが漏れた。
(はい、論破。
六歳の俺が救世主? 完全に却下だ)
その瞬間、理屈を受け入れたかのように、頭痛がゆっくりと引いていく。
俺は体を起こし、深く息をついた。
(……そうだ。
英雄の紫眼エルフなんていない。
いるのは、俺――エンジェルだけ)
ようやく、胸の奥に静かな安堵が広がる。
朝から続いていた重圧が、嘘のように消えていった。
俺は小さく微笑み、決意する。
この話は忘れる。
今を見る。
それでいい。
――そう、信じられるだけの静けさが、ようやく俺の中に戻ってきていた。
...
俺はまだ少し重たいまぶたのまま、1―A教室の扉を押し開けた。
朝の光が差し込む、いつもの右側の窓際――そこが俺の席だ。
窓枠にやわらかく当たる朝日を横目に、足元へ鞄を落とし、誰にも聞こえないように小さく息を吐く。
その直後、エスターが教室に入ってきた。
わずかに眉をひそめ、まっすぐ俺のほうを見る。
―「エンジェル……今朝、どこ行ってたの?」
少し困ったような声だった。
俺は気だるげに顔をこすり、椅子にもたれたまま答える。
―「トイレ。顔洗ってただけだ」
エスターは一度だけ頷き、どうやら納得した様子を見せた。
だが、すぐに気まずそうな笑みを浮かべて付け足す。
―「そ、そっか……でもさ。先に言っとくけど……今日は、ちょっと……印象に残る来客があるから」
俺は片眉を上げた。
その瞬間、こめかみが嫌な予感とともに脈打つ。
(……最高だな。またか)
心の中で盛大にため息をついた、その数分後――
教室の扉が、ゆっくりと開いた。
空気が変わる。
反射的に、胃の奥がきゅっと締めつけられた。
ヴォルタ王国第一王女――ヴァルダ姫が、教室へと足を踏み入れる。
氷のように研ぎ澄まされた威厳。
一挙手一投足すべてが計算され尽くした、王族の所作。
腰のあたりまで真っ直ぐに流れる白銀の髪は、左右寸分の狂いもなく揃い、
青に紫を溶かしたその瞳が、一直線に――俺を射抜いた。
思わず、背筋が粟立つ。
身体に沿う王族の装束は、鍛えられたしなやかな肢体を隠すことなく際立たせ、
力強さと優雅さを同時に感じさせる。
教室全体が、数秒間、完全に静止した。
後方の上級生たちでさえ、言葉を失っている。
ヴァルダ姫は一歩前へ出て、澄み切った、しかし絶対的な声で告げた。
―「エンジェル……少し、話があるわ」
――逃げ場は、なかった。




