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『天使と紫の炎』  作者: Bro_Be_Like_83
第3部 — 賑わう王都の中の天使。
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チャプター37 ― 騒がしい朝と、頭から離れない奇妙な記憶。

朝日がカーテンの隙間から差し込み始めた。

金色の光が、くしゃりと乱れたシーツと、ローテーブルに広げたままの本をやさしく撫でていく。

俺は大きく伸びをし、まだ少し重たい体を引き起こして、低く唸った。


「……うぐっ。六時……もうかよ」


机の上の時計に視線をやる。

長針は、ようやく十二を越えたばかりだった。


……はぁ。

選択肢はない。起きるしかない。

今日は忙しい一日になる。

それに――エリーのことだ。放っておいたら、罪悪感の欠片もなく正午まで眠り続けるに決まっている。


俺はベッドを出て、シャツを手早く羽織り、部屋を出た。

アパートの中は静かで、窓の隙間を抜ける風の音だけが響いている。

磨かれた木の匂いと、昨夜のコーヒーの残り香が、まだ空気に漂っていた。


隣の部屋の扉を、そっと開ける。


案の定だ。

エリーはまだ夢の世界にいた。

布団に半分埋もれ、髪はぐしゃぐしゃ、片脚がベッドからはみ出している。


「おい、エリー……起きろ。六時だぞ」


返事はない。

くぐもった唸り声が返ってきただけだ。


「ほんと、冬眠中の熊みたいな眠り方しやがって」


近づいて、布団を少し引く。

するとエリーは反射的にそれを掴み、頭から被り直した。


「……あと五分……」


「五分? それ昨日も一昨日も、その前の日も聞いた。で、その五分が毎回二時間になるんだろ」


「科学的なんだよ……脳はゆっくり浮上させないとバグる」


「バグってるのは脳じゃなくて、お前の時間感覚だ」


俺は枕を掴み、思い切り投げつけた。

エリーは飛び起き、ぶつぶつ言いながら、半分眠った目で俺を睨む。


「エンジェル……本気で窓から放り投げてほしいのか?」


「やってみろよ。目閉じてたら、どうせ外す」


エリーは目を擦り、ゆっくり起き上がると、顎が外れそうなほど大きくあくびをした。


「で、なんでこんな時間に起こすんだよ……九時まで予定ないだろ?」


「ない。六時って決めただろ。何年ぶりかに会う相手の日に、遅刻する気か?」


片眉を上げ、まだ重たい瞼のまま。


「……フード被ってた女の子たち?」


「そう、その子たち。そんな髪のまま来たら、正式に縁切る」


エリーは半分楽しそうに、半分挑発するように笑った。


「父親みたいなこと言うな」


「違う。責任感があって美しい弟だ」


「責任感? “どうなるか見たくて”禁制クラスのアーティファクトを空に投げた奴が?」


「戦略的だったし。何より、綺麗だった」


エリーは吹き出し、首を振る。


「ほんと、救いようがない」


「かもな。でも俺は起きてる」


腕を組み、睨み返す。

エリーは観念したように溜息をつき、ようやく立ち上がった。


「はいはい……起きますよ。で、朝飯はお前な」


「取引成立。ただし急げ」


「コーヒーもいるか?」


「先にお前だ。二秒目を離したら、またベッド戻るだろ」


「俺が? まさか」


「はいはい」


ゾンビのような足取りで浴室へ向かうエリーの背中を見送りながら、俺は苦笑した。


「なんで朝って存在するんだよ……」


「お前の寝起きの顔を見るためだ」


鏡越しに中指を立てられ、思わず笑いが漏れる。


「相変わらず品がいいな、兄貴」


文句を言いながらも、結局エリーは俺が起こすのを待っている。

いつも通りだ。


太陽は地平線を越え、朝が静かに始まっていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


アパートを出る頃には、ようやく全員の準備が整っていた。

肩に鞄を掛け、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。


時刻はまだ七時前。

空は淡い青に染まり、寒さはあるものの、晴れそうな気配を感じさせていた。


……ただ、街の様子が妙だった。


通りの至るところに、王国軍の兵士たちが立っている。

重要そうな建物の前、交差点、駅の入口――

煌めく鎧、整えられた兜、真っ直ぐに構えられた槍。

どの顔にも感情はなく、ただ張り詰めた緊張だけが漂っていた。


エリーは、そんな兵士たちの横を気にも留めずに通り過ぎる。


「なあ……何だよ、この幽霊軍団。朝から多すぎだろ」


「何かを警戒してるんだろ。俺はただ、怒られずに電車に乗りたいだけだ」


そのとき、横から足音が揃った。


ヴァイオレットとブランシュが、自然に俺たちの隣を歩いていた。

ヴァイオレットは王女にしては背が高いが、耳まで真っ赤にして、兵士の視線を気にしているのがはっきり分かる。

一方ブランシュは、いつも通り冷静で無表情。

だが――なぜか、俺を見る視線だけが、ほんの少しだけ鋭い。


エスターは周囲を見渡すふりをしていたが、その微妙に苛立った表情が、待たされるのを嫌っていることを雄弁に物語っていた。


やがて駅に到着する。

金色の柱、広い構内、ホームを見下ろす大きな窓――

すべてはいつも通り、完璧に整っている。


……それなのに、空気だけが重い。


通行人たちは兵士の前で視線を落とし、小声で囁き合っていた。

明らかに、何かを恐れている。


俺たちは列車に乗り込んだ。

この時間帯の車内は、まだ人も少ない。


窓際に座ると、ホームがゆっくりと遠ざかっていく。

向かいにはエリーが腰を下ろした。


「悪くない電車だな。でもさ……なんでみんな、こんなピリピリしてんだ?」


俺は眉をひそめ、外を眺めるふりをする。

そのとき――耳に、微かな囁きが届いた。


「……見ろ。あれが、ヴァルダ姫が言っていたエルフじゃないか?」


……は?


一瞬、身体が硬直する。

俺は思わずエリーを見た。


「なあ、今の聞いたか? “ヴァルダ姫が言ってたエルフ”って……」


「は?」

エリーは片眉を上げる。


身を乗り出して耳を澄ますが、その声はすぐにかき消された。

列車の扉が閉まり、金属音が響く。


心臓が、わずかに早鐘を打つ。

好奇心と、不安。

誰が俺のことを?

それも、今このタイミングで?


ヴァイオレットが眉を寄せ、俺を見た。


「どうしたの、エンジェルくん?」


「……いや。たぶん気のせいだ。ただ、兵士が俺のことを少し……」


ブランシュが、素早く俺を見る。

朝の光を受けて、青い瞳が静かに輝いた。


「……気になる、という顔ね」


「気になるっていうか……困惑してる」


「考えすぎよ」

エスターが溜息交じりに言う。

「電車は進むし、状況は勝手に変わる。今は流れに任せなさい」


俺は座り直し、窓の外に視線を戻した。

だが、胸の奥のざわつきは消えない。


ヴァルダ。

兵士たち。

この不自然な警戒。


……何かが、確実に動いている。


「……まあ」

俺は小さく呟いた。

「今日がどうなるか、見てみるしかないか」


列車が動き出し、静かな街並みが流れていく。

眠ったままのヴォルタの中心部へ向かって。


しばらくして、俺はふと皆を見渡し、真剣な声で口を開いた。


「なあ……聞きたいことがある。“ヴァルダ”って、誰だ?」


ヴァイオレットが、ぴたりと固まった。

目を見開き、息を呑み――まるで、世界一おかしな質問を聞いたかのような表情で俺を見る。


「……え?」

声が震えている。

「なんで……その名前を知ってるの?」


「知らない。ただ、さっき兵士が呟いたんだ。だから気になっただけ」


ヴァイオレットは小さく息を吐き、首を振ると、俺の方へ少し身を寄せた。


「ヴァルダは……私のお姉ちゃん。長女の王女よ」


一瞬間を置き、続ける。


「綺麗で、強くて、剣もすごくて……超かっこいいの。私と同じくらい運動神経も良くて……でも」


そこで、言葉が詰まった。


「……紫の瞳をしたエルフに、すごく執着してる」


……え?


「は?」

思わず声が出る。

「どういう意味だ?」


ヴァイオレットの視線が、鋭くなる。

だがそこには、責める色だけでなく、懐かしさも混じっていた。


「八年前……私と、ヴァルダお姉ちゃん、それに他の女の子たちは、正体不明の教団に捕まってたの」


胸が、ひくりと跳ねる。


「冷たい牢獄だった。暗くて、狭くて……私たちは実験台にされてた。特に、若い女の子が狙われて」


車内が、静まり返る。


「……そしてある日、紫の瞳をしたエルフが現れた」


俺は、無意識に拳を握っていた。


「そのエルフは、私たちを牢獄から出してくれた。

 それだけじゃない……私たちを蝕んでいた病気まで、治してくれたの」


頭を振る。

理解できない。


「……そんな話、聞いたこともない。俺は誰も助けてない。勘違いだ、ヴァイオレットさん」


だが彼女は、きっぱりと首を振った。


「違う。あれは、あなたよ。エンジェルくん」


そのとき、ブランシュが静かに口を開いた。


「……私も、そう思う」


俺は彼女を見る。


「私たちを救ったエルフ……紫の瞳。

 それは、あなた。エンジェルくん」


胃の奥が、きゅっと締め付けられる。


「無理だ……そんなの。俺には記憶がない」


「記憶がなくても、事実は消えない」

ブランシュは静かに言った。

「あなたは、私たちの英雄」


向かいで、エリーが楽しそうに笑う。


「いやー……知らないところで随分忙しかったんだな、お前」


俺は笑えなかった。


信じられない。

でも――否定しきれない。


彼女たちの目は、あまりにも真剣だった。


列車は走り続ける。

過去と現在を繋ぐように。


そして俺は、まだ知らなかった。

この一日が、俺の運命を大きく揺さぶることになると。


彼女たちの、揺るぎない確信に満ちた視線を受け止めながら、俺は一瞬だけ言葉を失った。

だが――その奥で、思わず鼻で笑っている自分がいた。


……本気で言ってるのか?

八年前の英雄?

牢獄に潜り込んで、実験にかけられていた少女たちを救い出した?

俺が?


……ないない。

さすがにそれは、出来すぎだ。


(はぁ……エンジェル。いい加減にしろよ。考えすぎだって。

 そんな話、あるわけないだろ。

 お前がそんな場所にいた記憶なんて、一ミリもないじゃないか)


唇を軽く噛みしめて、小さく吹き出しそうになるのを堪える。

視線は、流れていく車窓の景色へ。


(冷たい牢獄? 人体実験? 紫の瞳のエルフ?

 ……誰が信じるんだよ、そんな話。

 俺には関係ない。完全に、赤の他人だ)


そう思った瞬間、肩にのしかかっていた重みが、嘘みたいに消えた気がした。


(そうだ。忘れろ。

 変な話に首を突っ込む必要はない。

 俺は俺だ。英雄ごっこなんて、柄じゃない)


胸の奥で、可笑しさが込み上げる。


(……むしろ笑えるよな。

 俺が“救い主”?

 はは……冗談きつすぎだろ。

 面白いくらい、馬鹿げてる)


俺はシートに深く身を預け、口の端を少しだけ吊り上げた。

この話は、ここで終わりだ。


(よし。決めた。

 “奇跡の救出”だの、“英雄”だの――

 そんな過去、俺には存在しない)


(このまま、何事もなかったみたいに一日を過ごす。

 それでいい。

 それが一番、楽だ)


列車は静かに走り続ける。

朝の光に包まれたヴォルタの街並みが、何事もなかったかのように流れていった。


――そう。

俺は、このときまだ知らなかった。


この“笑い飛ばしたはずの話”が、

やがて俺自身を、否応なく現実へと引き戻すことになるということを。

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