チャプター37 ― 騒がしい朝と、頭から離れない奇妙な記憶。
朝日がカーテンの隙間から差し込み始めた。
金色の光が、くしゃりと乱れたシーツと、ローテーブルに広げたままの本をやさしく撫でていく。
俺は大きく伸びをし、まだ少し重たい体を引き起こして、低く唸った。
「……うぐっ。六時……もうかよ」
机の上の時計に視線をやる。
長針は、ようやく十二を越えたばかりだった。
……はぁ。
選択肢はない。起きるしかない。
今日は忙しい一日になる。
それに――エリーのことだ。放っておいたら、罪悪感の欠片もなく正午まで眠り続けるに決まっている。
俺はベッドを出て、シャツを手早く羽織り、部屋を出た。
アパートの中は静かで、窓の隙間を抜ける風の音だけが響いている。
磨かれた木の匂いと、昨夜のコーヒーの残り香が、まだ空気に漂っていた。
隣の部屋の扉を、そっと開ける。
案の定だ。
エリーはまだ夢の世界にいた。
布団に半分埋もれ、髪はぐしゃぐしゃ、片脚がベッドからはみ出している。
「おい、エリー……起きろ。六時だぞ」
返事はない。
くぐもった唸り声が返ってきただけだ。
「ほんと、冬眠中の熊みたいな眠り方しやがって」
近づいて、布団を少し引く。
するとエリーは反射的にそれを掴み、頭から被り直した。
「……あと五分……」
「五分? それ昨日も一昨日も、その前の日も聞いた。で、その五分が毎回二時間になるんだろ」
「科学的なんだよ……脳はゆっくり浮上させないとバグる」
「バグってるのは脳じゃなくて、お前の時間感覚だ」
俺は枕を掴み、思い切り投げつけた。
エリーは飛び起き、ぶつぶつ言いながら、半分眠った目で俺を睨む。
「エンジェル……本気で窓から放り投げてほしいのか?」
「やってみろよ。目閉じてたら、どうせ外す」
エリーは目を擦り、ゆっくり起き上がると、顎が外れそうなほど大きくあくびをした。
「で、なんでこんな時間に起こすんだよ……九時まで予定ないだろ?」
「ない。六時って決めただろ。何年ぶりかに会う相手の日に、遅刻する気か?」
片眉を上げ、まだ重たい瞼のまま。
「……フード被ってた女の子たち?」
「そう、その子たち。そんな髪のまま来たら、正式に縁切る」
エリーは半分楽しそうに、半分挑発するように笑った。
「父親みたいなこと言うな」
「違う。責任感があって美しい弟だ」
「責任感? “どうなるか見たくて”禁制クラスのアーティファクトを空に投げた奴が?」
「戦略的だったし。何より、綺麗だった」
エリーは吹き出し、首を振る。
「ほんと、救いようがない」
「かもな。でも俺は起きてる」
腕を組み、睨み返す。
エリーは観念したように溜息をつき、ようやく立ち上がった。
「はいはい……起きますよ。で、朝飯はお前な」
「取引成立。ただし急げ」
「コーヒーもいるか?」
「先にお前だ。二秒目を離したら、またベッド戻るだろ」
「俺が? まさか」
「はいはい」
ゾンビのような足取りで浴室へ向かうエリーの背中を見送りながら、俺は苦笑した。
「なんで朝って存在するんだよ……」
「お前の寝起きの顔を見るためだ」
鏡越しに中指を立てられ、思わず笑いが漏れる。
「相変わらず品がいいな、兄貴」
文句を言いながらも、結局エリーは俺が起こすのを待っている。
いつも通りだ。
太陽は地平線を越え、朝が静かに始まっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
アパートを出る頃には、ようやく全員の準備が整っていた。
肩に鞄を掛け、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
時刻はまだ七時前。
空は淡い青に染まり、寒さはあるものの、晴れそうな気配を感じさせていた。
……ただ、街の様子が妙だった。
通りの至るところに、王国軍の兵士たちが立っている。
重要そうな建物の前、交差点、駅の入口――
煌めく鎧、整えられた兜、真っ直ぐに構えられた槍。
どの顔にも感情はなく、ただ張り詰めた緊張だけが漂っていた。
エリーは、そんな兵士たちの横を気にも留めずに通り過ぎる。
「なあ……何だよ、この幽霊軍団。朝から多すぎだろ」
「何かを警戒してるんだろ。俺はただ、怒られずに電車に乗りたいだけだ」
そのとき、横から足音が揃った。
ヴァイオレットとブランシュが、自然に俺たちの隣を歩いていた。
ヴァイオレットは王女にしては背が高いが、耳まで真っ赤にして、兵士の視線を気にしているのがはっきり分かる。
一方ブランシュは、いつも通り冷静で無表情。
だが――なぜか、俺を見る視線だけが、ほんの少しだけ鋭い。
エスターは周囲を見渡すふりをしていたが、その微妙に苛立った表情が、待たされるのを嫌っていることを雄弁に物語っていた。
やがて駅に到着する。
金色の柱、広い構内、ホームを見下ろす大きな窓――
すべてはいつも通り、完璧に整っている。
……それなのに、空気だけが重い。
通行人たちは兵士の前で視線を落とし、小声で囁き合っていた。
明らかに、何かを恐れている。
俺たちは列車に乗り込んだ。
この時間帯の車内は、まだ人も少ない。
窓際に座ると、ホームがゆっくりと遠ざかっていく。
向かいにはエリーが腰を下ろした。
「悪くない電車だな。でもさ……なんでみんな、こんなピリピリしてんだ?」
俺は眉をひそめ、外を眺めるふりをする。
そのとき――耳に、微かな囁きが届いた。
「……見ろ。あれが、ヴァルダ姫が言っていたエルフじゃないか?」
……は?
一瞬、身体が硬直する。
俺は思わずエリーを見た。
「なあ、今の聞いたか? “ヴァルダ姫が言ってたエルフ”って……」
「は?」
エリーは片眉を上げる。
身を乗り出して耳を澄ますが、その声はすぐにかき消された。
列車の扉が閉まり、金属音が響く。
心臓が、わずかに早鐘を打つ。
好奇心と、不安。
誰が俺のことを?
それも、今このタイミングで?
ヴァイオレットが眉を寄せ、俺を見た。
「どうしたの、エンジェルくん?」
「……いや。たぶん気のせいだ。ただ、兵士が俺のことを少し……」
ブランシュが、素早く俺を見る。
朝の光を受けて、青い瞳が静かに輝いた。
「……気になる、という顔ね」
「気になるっていうか……困惑してる」
「考えすぎよ」
エスターが溜息交じりに言う。
「電車は進むし、状況は勝手に変わる。今は流れに任せなさい」
俺は座り直し、窓の外に視線を戻した。
だが、胸の奥のざわつきは消えない。
ヴァルダ。
兵士たち。
この不自然な警戒。
……何かが、確実に動いている。
「……まあ」
俺は小さく呟いた。
「今日がどうなるか、見てみるしかないか」
列車が動き出し、静かな街並みが流れていく。
眠ったままのヴォルタの中心部へ向かって。
しばらくして、俺はふと皆を見渡し、真剣な声で口を開いた。
「なあ……聞きたいことがある。“ヴァルダ”って、誰だ?」
ヴァイオレットが、ぴたりと固まった。
目を見開き、息を呑み――まるで、世界一おかしな質問を聞いたかのような表情で俺を見る。
「……え?」
声が震えている。
「なんで……その名前を知ってるの?」
「知らない。ただ、さっき兵士が呟いたんだ。だから気になっただけ」
ヴァイオレットは小さく息を吐き、首を振ると、俺の方へ少し身を寄せた。
「ヴァルダは……私のお姉ちゃん。長女の王女よ」
一瞬間を置き、続ける。
「綺麗で、強くて、剣もすごくて……超かっこいいの。私と同じくらい運動神経も良くて……でも」
そこで、言葉が詰まった。
「……紫の瞳をしたエルフに、すごく執着してる」
……え?
「は?」
思わず声が出る。
「どういう意味だ?」
ヴァイオレットの視線が、鋭くなる。
だがそこには、責める色だけでなく、懐かしさも混じっていた。
「八年前……私と、ヴァルダお姉ちゃん、それに他の女の子たちは、正体不明の教団に捕まってたの」
胸が、ひくりと跳ねる。
「冷たい牢獄だった。暗くて、狭くて……私たちは実験台にされてた。特に、若い女の子が狙われて」
車内が、静まり返る。
「……そしてある日、紫の瞳をしたエルフが現れた」
俺は、無意識に拳を握っていた。
「そのエルフは、私たちを牢獄から出してくれた。
それだけじゃない……私たちを蝕んでいた病気まで、治してくれたの」
頭を振る。
理解できない。
「……そんな話、聞いたこともない。俺は誰も助けてない。勘違いだ、ヴァイオレットさん」
だが彼女は、きっぱりと首を振った。
「違う。あれは、あなたよ。エンジェルくん」
そのとき、ブランシュが静かに口を開いた。
「……私も、そう思う」
俺は彼女を見る。
「私たちを救ったエルフ……紫の瞳。
それは、あなた。エンジェルくん」
胃の奥が、きゅっと締め付けられる。
「無理だ……そんなの。俺には記憶がない」
「記憶がなくても、事実は消えない」
ブランシュは静かに言った。
「あなたは、私たちの英雄」
向かいで、エリーが楽しそうに笑う。
「いやー……知らないところで随分忙しかったんだな、お前」
俺は笑えなかった。
信じられない。
でも――否定しきれない。
彼女たちの目は、あまりにも真剣だった。
列車は走り続ける。
過去と現在を繋ぐように。
そして俺は、まだ知らなかった。
この一日が、俺の運命を大きく揺さぶることになると。
彼女たちの、揺るぎない確信に満ちた視線を受け止めながら、俺は一瞬だけ言葉を失った。
だが――その奥で、思わず鼻で笑っている自分がいた。
……本気で言ってるのか?
八年前の英雄?
牢獄に潜り込んで、実験にかけられていた少女たちを救い出した?
俺が?
……ないない。
さすがにそれは、出来すぎだ。
(はぁ……エンジェル。いい加減にしろよ。考えすぎだって。
そんな話、あるわけないだろ。
お前がそんな場所にいた記憶なんて、一ミリもないじゃないか)
唇を軽く噛みしめて、小さく吹き出しそうになるのを堪える。
視線は、流れていく車窓の景色へ。
(冷たい牢獄? 人体実験? 紫の瞳のエルフ?
……誰が信じるんだよ、そんな話。
俺には関係ない。完全に、赤の他人だ)
そう思った瞬間、肩にのしかかっていた重みが、嘘みたいに消えた気がした。
(そうだ。忘れろ。
変な話に首を突っ込む必要はない。
俺は俺だ。英雄ごっこなんて、柄じゃない)
胸の奥で、可笑しさが込み上げる。
(……むしろ笑えるよな。
俺が“救い主”?
はは……冗談きつすぎだろ。
面白いくらい、馬鹿げてる)
俺はシートに深く身を預け、口の端を少しだけ吊り上げた。
この話は、ここで終わりだ。
(よし。決めた。
“奇跡の救出”だの、“英雄”だの――
そんな過去、俺には存在しない)
(このまま、何事もなかったみたいに一日を過ごす。
それでいい。
それが一番、楽だ)
列車は静かに走り続ける。
朝の光に包まれたヴォルタの街並みが、何事もなかったかのように流れていった。
――そう。
俺は、このときまだ知らなかった。
この“笑い飛ばしたはずの話”が、
やがて俺自身を、否応なく現実へと引き戻すことになるということを。




