チャプター35 ― 輝く月の静寂の下で 。
数分後、家に着いた俺は、鏡の前を通りながら黒いスーツの袖を整えた。
生地は肩の筋肉にぴったり沿い、襟元の固さや腰回りの細さを感じる……完璧だ。
視線は髪に落ちる。
いつも通り長く乱れた髪は、左右対称の二束が膝まで垂れ、中央には胸まで届く少し太めの束がある。
軽く頭を振り、すべてが所定の位置にあることを確認してから、微笑む。
エリーが俺を追い越す。彼のスーツは肩幅にぴったり合い、白いシャツは完璧にアイロンがけされている。
きつく結んだちょんまげを整え、正直……信じられないほど似合っている。
彼は俺を見て、いつもの笑顔でからかいを始めた。
「おい、美少年、膝まで届くその髪で誰かを感心させられると思ってるのか?まるで嵐の中のユニコーンみたいだぞ。」
俺は笑いながら髪に手を通す。
「はは、面白いじゃないか、兄さん。そして君はその侍ちょんまげで、話す前に心を斬るつもりか?」
エリーは笑い、首を横に振る。
「やられた!でも少なくとも、俺は起き上がるときに髪で絡まる心配はないからな、君とは違って。」
俺は彼に近づき、腰に手を当て、意地悪な笑みを浮かべる。
「なるほど……俺は髪が乱れていてもエレガントだってことか?褒めてくれてありがとう、兄さん。」
彼は腕を組み、片眉を上げる。
「完璧だ。さあ、謎めいた女性たちを俺たちの魅力で圧倒する……それとも五分以内に追い出されるか、どちらかだな。」
俺は笑い、ジャケットを肩にかける。
「見てみよう。でも俺が最初に彼女たちを驚かせると賭けるぜ。」
エリーは小さく笑い、首を振る。
「また早まった賭けをするな、小弟よ。だが……行こう、ユニコーン。」
「君は侍、完璧なスーツで足を取られないように気をつけろ。」
俺たちは笑い声を上げ、緊張と真剣さが日常のような親密さと混ざり合った。
この瞬間は完璧だった。
どんな困難が待っていようと、俺たちが一緒なら動揺することはないと感じた。
列車は静かに線路を滑り、俺は窓に寄りかかり、眼下に広がるヴォルタの景色を見つめる。
数時間前、混沌とした街に氷と化け物が溢れていたとは思えないほど、街は平穏を取り戻していた。
通行人は穏やかに歩き、話し、笑い、商店は再開し、窓は太陽に輝き、列車も問題なく運行していた。
俺はエリーを見た。
向かいに座る彼も、この落ち着きを楽しんでいるようだった。
「悪くないだろ?」と彼が笑みを浮かべる。
「ああ……蜘蛛狼が街中を走り回るよりはずっといい」と俺は笑いながら答え、反射的に大太刀に手を触れる。
「それでも楽しかったと言うんだろ?」とエリーは眉を上げて聞く。
俺は肩をすくめ、口元に微笑みを浮かべる。
「あの光景は確かに壮観だったが、殺されない街を歩く方がはるかにいい。」
列車は中心街の駅でゆっくり減速し、俺たちは降り、人混みをかき分ける。
街は賑やかだけど、どこか落ち着いていた。
子どもたちは遊び、焼きたてのパンや熱々のピザの香りが漂う。
太陽が石畳を柔らかく照らしていた。
ヴァイオレットとエスターは少し先を歩き、いつも通り優雅で気品がある。
俺はただその平穏な瞬間を見つめた。
いつもの大きな橋を渡る。水面は光を反射し、色とりどりの建物が揺らめく。
通行人は少し距離を取り、尊敬と好奇心が入り混じった視線を向ける。
エリーが俺を見て、いたずらっぽく笑った。
「おい、小さなエルフ、落ち着きを楽しんでるな……前回とは違うな。」
「その通り」と俺は答え、橋の向こうにそびえる建物に視線を向ける。
あの建物こそ、チーフが言っていた場所だ。
小柄な女性二人、薄手のコートにフードをかぶった姿が現れ、柔らかく優雅に一礼した。
「ようこそ、若き紳士たち」と二人は声を揃える。
その声は空気を撫でるように優しく、俺は息を呑む。
中の広間は巨大で豪華、黄金の柱が並び、長い赤い絨毯が壮大な階段まで続いている。
周囲の女性たちは静かに立ち、威厳を放っていた。
そして俺は彼女を見た。
視線が固まる。息が止まる。
一人、他の女性たちより高く、長身でしなやかな姿。
金色の髪は膝まで伸びる二つの束に分かれ、目は紫色に輝く。尖った耳がエルフの血を示し、身体は黒のノースリーブのドレスに包まれ、筋肉のラインを強調していた。
首元には俺が最初に贈った紫の天使の羽のペンダント。
心臓が跳ねた。
彼女だ……アンジェリーナ。
俺が数年前に救った、ずっと俺を待っていた少女。
「エンジェル…」とエリーが隣で息を漏らす。
アンジェリーナは一歩前に出る。
微笑みは誘惑と優しさを兼ね備え、視線は強烈に俺を見据える。
そのまっすぐな想いに、俺は思わず微笑んだ。
「魅力的な若者たち…」彼女は柔らかくも力強い声で言い、エリーと俺に視線を戻す。
「広間においで。」
俺は自然と近づき、エリーは意味ありげに笑った。
「本当に、アンジェリーナ?」俺は囁くように尋ねる。
彼女は軽く頭を傾け、神秘的な笑み。
「もちろん……私はずっとエンジェルのことを考えていたの。」
胸が温かく懐かしい気持ちでいっぱいになった。
彼女の俺への思いは、今も変わらないことを理解した。
「ふふ、小弟よ、どうやら君は“ナンバーワンファン”を取り戻したようだな」とエリーが肘で軽く突く。
俺は視線をアンジェリーナに戻す。
「ああ……そうみたいだな」と微笑む。
この出会いが、新しい章の始まりであることを確信した。
周囲の女性たちは静かに立ち尽くす。
黄金の広間、赤い絨毯、そしてアンジェリーナ……すべてが荘厳で、同時に親密な空気を作り出していた。
まるで過去に戻ったかのようで、同時により広く美しい世界にいるような気分だった
「お入りください、若き紳士たち」彼女は軽く頭を下げ、歓迎の意を示す。
「さあ、真剣に話をしましょう。」
俺は頷き、視線を彼女から逸らせない。
エリーも微笑み、俺と同じく、この瞬間の重要さを感じ取っていた。
夜風が髪を揺らす。髪は月光に青く光って反射している。
高いバルコニーから見下ろすヴォルタの街はほとんど現実離れしている。
三つの主要な塔が建物を囲み、街は静かに、夜の光にきらめく。遠くで列車のささやき、通行人の声、海の波音が届く。
アンジェリーナは手すりにもたれ、水平線を見つめる。
金色の髪が銀色の光に輝き、紫の瞳は落ち着いた強さを放つ。
俺は隣に立ち、手をポケットに入れ、月光に反射する塔を眺める。
エリーも黙って横に立ち、暗い髪を月が照らす。
「嵐の後の静けさだな」と俺は囁く。
「ええ」と彼女が柔らかく答える。
「でも知っているでしょ、エンジェル。この静けさはただの仮面。」
俺は首を少し傾ける。
―「攻撃のことか?」
彼女はゆっくり頷く。
―「その通り。二日間で三件の重大な事件……しかも王城の警備が巡回していない時間に起きたの。」
俺は眉をひそめる。
―「つまり……正午から16時の間?」
彼女はうなずき、指先で金色の手すりに触れる。
―「そう。これらのクリーチャーは偶然ではない。誰かが警備の時間を完璧に把握している。計算された襲撃よ。」
俺は息を吸う。
―「内部の人間を疑っているのか?」
アンジェリーナは視線を俺に戻す。
目に宿るのは、暗く、鋭い光。
「かもしれない。あるいは情報網の発達した人物かもしれない。」
彼女は少し間を置き、声を低くする。
「最初の襲撃、君は見ていない。昨日の朝、濃い煙が漂い、不安定で有害なマナを含んで広がった。私と他の六人が対応した。」
俺は黙って聞く。
「ステラ、ローザ、オーレリア、ルナ、クララ、ミア」彼女は続ける。
「全員が同じ感覚を覚えた:異常に揺れるマナ、安定させようとするとすぐに消える。拡散は防げたが痕跡は残った。」
俺は眉をひそめる。
「つまり魔法攻撃だな?」
「ええ。誰かが何か……あるいは誰かを試しているの。」
「そして昨日の夜のサイクロプスドラゴンだ」と俺は言い、恐ろしい光景を思い出す。
彼女はうなずく。
「制御不能だった。破壊される前に仕留めた。でもそのマナ……エンジェル、それは自然ではなかった。煙と同じマナだった。」
胸に緊張が走る。
「今日の蜘蛛狼と同じマナだな?」
彼女は俺の理解の早さに驚く。
「その通り。三件は関連している。そして考えれば考えるほど、これは実験だと確信している。誰かが悪魔のマナと古代の血を融合させようとしている。」
俺は髪に手を通しながら考える。
「つまり……ルドヴァーンが言っていたことか?リリスとその娘たちの血?」
彼女は少し目を伏せ、まぶたが震える。
「ええ。それを再現しようとしている。火遊びだわ。」
風が吹き、黒いドレスが揺れる静かな沈黙が訪れる。
「そして、君はどうやって耐えている?」と俺は静かに尋ねる。
彼女は疲れた笑みを浮かべる。
「もっと酷いこともあったわ。でも……仲間がいるから。」
俺は微笑む。
「つまり、姉妹たちか。」
彼女はうなずき、悪戯っぽく付け加える。
「そしてもちろん、あなたもね。たとえあなたは考える前に爆発させる傾向があるけど。」
俺は目をひそめる。
「ほら、事故だって言っただろ。街は無事だし。」
彼女は澄んだ笑いを漏らす。
「ええ、
でもあなたの引き起こした風で屋根150枚は落ち、街灯も一つの区画が消えたわ。」
「そんなことないさ……」と俺は笑う。
彼女は首を振り、微笑んでから真剣な口調に戻す。
「冗談はさておき、エンジェル……次の攻撃も終わっていないと思う。街のマナの変動はまだ落ち着いていない。」
俺は少し背を伸ばし、手すりに寄りかかる。
「なら次が来る前に行動だ。警備の時間が読めれば、次の襲撃も予測できる。」
アンジェリーナは腕を組む。
「その通り。パターンが繰り返されるなら、次は明日……正午前か16時以降。」
俺は少し考え、ゆっくりと頷く。
「じゃあ明日、俺たちは揃う。君、俺、エリー、そして他の仲間も。」
彼女は長く俺を見つめ、月光に輝く瞳。
「変わってないわね、常に狼の口に飛び込む覚悟。でもそれが、あなたを私の目に美しく見せるの。」
俺は微笑む。
「誰かがやらなきゃ、だろ?」
彼女は優しく微笑み、月光を見上げる。
「準備して、エンジェル。今回はただの襲撃じゃない。もっと大きな何かの始まりよ。」
冷たい風が肌を撫でる。俺は無言で月を見上げる。
胸の奥で、彼女の言う通りだと理解していた。
今夜、ヴォルタはまだ嵐の目に入ったばかりだ。




