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『天使と紫の炎』  作者: Bro_Be_Like_83
第3部 — 賑わう王都の中の天使。
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チャプター34 ― ピアノと旋律、そしてやさしい記憶。

狼蜘蛛との死闘。

狂気じみた髭面の学者。

そして、闇に蠢く秘密結社の男。


長い一日を終え、俺はただ――

頭を空っぽにしたくて、学院へと戻った。


音楽室は、ひどく静かだった。


誰もいない。

ただ、それだけ。


黄昏の光が大きな窓から差し込み、磨かれた床に、柔らかな影を落としている。

黒と白の鍵盤は、まるで真珠を並べたように整然と並び、

――俺を待っているかのようだった。


まだ、弾いていない。


それなのに。

音があった。


聴いたことのない音。

想像したことすらない音。


――《ジムノペディ第一番》。


名も、作曲家も知らない。

ただ、その旋律だけが、胸の奥で静かに、しかし確かに燃えていた。


簡素で。

それでいて――どこまでも優しい。


俺は、ピアノのすぐ前で立ち止まる。


指先が、わずかに震えていた。

この鍵盤に触れれば、

自分でも知らない“何か”を呼び覚ましてしまう気がして。


黒と白。

動かず、語らず、沈黙したままの鍵盤。


――それなのに。


旋律は、確かにそこにあった。


一音一音が、痛いほど鮮明に脳裏で鳴り響く。

音と音の隙間が、言葉にならない何かを囁いてくる。


「……どうしてだ……」


思わず、独り言が零れた。


弾いたことはない。

聴いたこともない。

なのに――知っている。


まるで、誰かが直接、俺の心に刻み込んだみたいに。


夕風が、半開きの窓から忍び込み、

髪を撫で、シャツ越しの腕に小さな震えを走らせた。


俺は、そっと手を上げる。

鍵盤に置く。


――そして、弾かない。


応えたのは、沈黙だけ。


だが、音楽は消えなかった。


遅く。

流れるように。

淡く、もの哀しく。


空っぽの音楽室に、絹糸のように張り巡らされ、

静かに、俺の血の中へと溶けていく。


目を閉じる。


紫の小さな炎のような音符が、空中を漂う幻が見えた。

胸から、息が引き抜かれる。

指先の奥まで、震えが走る。


「……綺麗だ……」


誰もいない。


再び、静寂。


それでも俺は、そこに立ち尽くしていた。

逃げられず、弾くこともできず。


――でも、分かっていた。


この音に、触れなければならない。

理解しなければならない。

頭の中の音を、ここへ――このピアノへ。


夕暮れの光が、少しずつ薄れていく。

室内は、親密な闇に包まれ始める。


影が、囁いた気がした。


――行け。エンジェル。


深く、息を吸う。


もう一度、ピアノを見る。


方法は分からない。

それでも――始めなければならない。


包帯を巻いた指が、鍵盤を掠めた。


その瞬間――

世界が、ほどけた。


ピアノは、すべてを知っていたかのように応えた。


音が、零れ落ちる。

遅く。

滑らかに。

完璧に。


旋律は、ずっと俺の中にあった。

ただ、この瞬間を待っていただけだ。


音が、空間を満たす。


最初は、かすかに。

やがて、確かな意志を持って。


軽く、儚く、

それでいて、心を強く打つ。


目を閉じる。


音楽は、もう頭の中だけではない。

壁に。

光に。

風に。


――息をしている。


考えるのを、やめた。

考えたくもなかった。


ただ、手に任せる。


沈黙も、間も、揺らぎも、

すべてが言葉だった。


知らなかった物語を、俺は今、音で語っている。


気づけば、微笑んでいた。


――完璧だ。


金色の残光が、鍵盤と指を撫でる。

その儚さが、胸を締めつけた。


こんなふうに弾いたことはない。

こんなふうに、音を感じたことも。


それでも――迷いはなかった。


一息。

宙に浮く和音。

最後の一音が、羽のように落ちる。


沈黙。


だが、それは空ではない。


満ちている。

音が語ったすべてで。

――俺自身で。


目を開ける。


ピアノが、静かに輝いていた。

背筋に、小さな震え。


「……弾けた……」


その瞬間、悟った。

もう、戻れない。


音楽が、俺を見つけた。

そして俺は――音楽の中に生まれた。


そのとき。


扉が、そっと開いた。


小さな軋み。

まだ、音が空気に残っている。


――ヴァイオレット。


扉口に立ち、涙を浮かべていた。


左右対称に流れる長い白髪。

現実離れしたほど繊細な輪郭。

青紫の瞳が、揺れながら輝いている。


「あぁ……きれい……」


吐息のような声。


彼女は、ゆっくりと近づく。

床さえ、彼女を引き止めているかのように。


その瞳にあるのは、恥ではない。

ただ、感嘆。

ただ――切なる願い。


「……お願い……続けて……」

「……もっと……聴かせて……」


俺は、一瞬、言葉を失う。


音に、心を預けきった瞳。


彼女は、待っていた。

ただ、それだけで。


息を吸う。

再び、指を落とす。


ピアノが、歌い出す。


遅く。

流れるように。

完璧に。


ヴァイオレットは、ほとんど跪くようにして聴いていた。

一音ごとに、身体が震える。


「……これ……ずっと……聴きたかった……」


音楽室は、さらに閉じた世界になる。

夕光が、彼女の白髪を照らし、非現実を際立たせる。


考えない。

ただ、弾く。


彼女は、そこにいる。


やがて――

距離が、消えた。


背後から、温もり。

そっと、しかし確かに――抱きしめられる。


白い髪が、肩に触れる。

体温が、溶け合う。


「……エンジェルくん……」

「……大好き……」


音?

空気?


「……全部……」


腕が、少し強くなる。


涙が、落ちる。

それでも、俺は弾き続けた。


止めたくなかった。

壊したくなかった。


「……やめないで……」


微笑む。


音が、優しく、深く、響く。


――完璧だった。


音。

彼女。

俺。


光と影の狭間で、

音楽と感情が、ひとつになる瞬間。


すべてが――そこにあった。

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