チャプター34 ― ピアノと旋律、そしてやさしい記憶。
狼蜘蛛との死闘。
狂気じみた髭面の学者。
そして、闇に蠢く秘密結社の男。
長い一日を終え、俺はただ――
頭を空っぽにしたくて、学院へと戻った。
音楽室は、ひどく静かだった。
誰もいない。
ただ、それだけ。
黄昏の光が大きな窓から差し込み、磨かれた床に、柔らかな影を落としている。
黒と白の鍵盤は、まるで真珠を並べたように整然と並び、
――俺を待っているかのようだった。
まだ、弾いていない。
それなのに。
音があった。
聴いたことのない音。
想像したことすらない音。
――《ジムノペディ第一番》。
名も、作曲家も知らない。
ただ、その旋律だけが、胸の奥で静かに、しかし確かに燃えていた。
簡素で。
それでいて――どこまでも優しい。
俺は、ピアノのすぐ前で立ち止まる。
指先が、わずかに震えていた。
この鍵盤に触れれば、
自分でも知らない“何か”を呼び覚ましてしまう気がして。
黒と白。
動かず、語らず、沈黙したままの鍵盤。
――それなのに。
旋律は、確かにそこにあった。
一音一音が、痛いほど鮮明に脳裏で鳴り響く。
音と音の隙間が、言葉にならない何かを囁いてくる。
「……どうしてだ……」
思わず、独り言が零れた。
弾いたことはない。
聴いたこともない。
なのに――知っている。
まるで、誰かが直接、俺の心に刻み込んだみたいに。
夕風が、半開きの窓から忍び込み、
髪を撫で、シャツ越しの腕に小さな震えを走らせた。
俺は、そっと手を上げる。
鍵盤に置く。
――そして、弾かない。
応えたのは、沈黙だけ。
だが、音楽は消えなかった。
遅く。
流れるように。
淡く、もの哀しく。
空っぽの音楽室に、絹糸のように張り巡らされ、
静かに、俺の血の中へと溶けていく。
目を閉じる。
紫の小さな炎のような音符が、空中を漂う幻が見えた。
胸から、息が引き抜かれる。
指先の奥まで、震えが走る。
「……綺麗だ……」
誰もいない。
再び、静寂。
それでも俺は、そこに立ち尽くしていた。
逃げられず、弾くこともできず。
――でも、分かっていた。
この音に、触れなければならない。
理解しなければならない。
頭の中の音を、ここへ――このピアノへ。
夕暮れの光が、少しずつ薄れていく。
室内は、親密な闇に包まれ始める。
影が、囁いた気がした。
――行け。エンジェル。
深く、息を吸う。
もう一度、ピアノを見る。
方法は分からない。
それでも――始めなければならない。
包帯を巻いた指が、鍵盤を掠めた。
その瞬間――
世界が、ほどけた。
ピアノは、すべてを知っていたかのように応えた。
音が、零れ落ちる。
遅く。
滑らかに。
完璧に。
旋律は、ずっと俺の中にあった。
ただ、この瞬間を待っていただけだ。
音が、空間を満たす。
最初は、かすかに。
やがて、確かな意志を持って。
軽く、儚く、
それでいて、心を強く打つ。
目を閉じる。
音楽は、もう頭の中だけではない。
壁に。
光に。
風に。
――息をしている。
考えるのを、やめた。
考えたくもなかった。
ただ、手に任せる。
沈黙も、間も、揺らぎも、
すべてが言葉だった。
知らなかった物語を、俺は今、音で語っている。
気づけば、微笑んでいた。
――完璧だ。
金色の残光が、鍵盤と指を撫でる。
その儚さが、胸を締めつけた。
こんなふうに弾いたことはない。
こんなふうに、音を感じたことも。
それでも――迷いはなかった。
一息。
宙に浮く和音。
最後の一音が、羽のように落ちる。
沈黙。
だが、それは空ではない。
満ちている。
音が語ったすべてで。
――俺自身で。
目を開ける。
ピアノが、静かに輝いていた。
背筋に、小さな震え。
「……弾けた……」
その瞬間、悟った。
もう、戻れない。
音楽が、俺を見つけた。
そして俺は――音楽の中に生まれた。
そのとき。
扉が、そっと開いた。
小さな軋み。
まだ、音が空気に残っている。
――ヴァイオレット。
扉口に立ち、涙を浮かべていた。
左右対称に流れる長い白髪。
現実離れしたほど繊細な輪郭。
青紫の瞳が、揺れながら輝いている。
「あぁ……きれい……」
吐息のような声。
彼女は、ゆっくりと近づく。
床さえ、彼女を引き止めているかのように。
その瞳にあるのは、恥ではない。
ただ、感嘆。
ただ――切なる願い。
「……お願い……続けて……」
「……もっと……聴かせて……」
俺は、一瞬、言葉を失う。
音に、心を預けきった瞳。
彼女は、待っていた。
ただ、それだけで。
息を吸う。
再び、指を落とす。
ピアノが、歌い出す。
遅く。
流れるように。
完璧に。
ヴァイオレットは、ほとんど跪くようにして聴いていた。
一音ごとに、身体が震える。
「……これ……ずっと……聴きたかった……」
音楽室は、さらに閉じた世界になる。
夕光が、彼女の白髪を照らし、非現実を際立たせる。
考えない。
ただ、弾く。
彼女は、そこにいる。
やがて――
距離が、消えた。
背後から、温もり。
そっと、しかし確かに――抱きしめられる。
白い髪が、肩に触れる。
体温が、溶け合う。
「……エンジェルくん……」
「……大好き……」
音?
空気?
「……全部……」
腕が、少し強くなる。
涙が、落ちる。
それでも、俺は弾き続けた。
止めたくなかった。
壊したくなかった。
「……やめないで……」
微笑む。
音が、優しく、深く、響く。
――完璧だった。
音。
彼女。
俺。
光と影の狭間で、
音楽と感情が、ひとつになる瞬間。
すべてが――そこにあった。




