チャプター32 ― ルドヴァーン……。
氷を孕んだ冷たい風が、路地と路地のあいだをなおも吹き抜け、凍りついた雪片をわずかに巻き上げていく。
足元の地面は、石一つ残らず霜に覆われ、踏みしめるたび、かすかな音を立てて軋んだ。
周囲には、異形の魔物たちが奇怪な姿のまま凍りついている。
歪められた四肢、歪曲した表情――
それらはすべて、ブランシュの力を物語る氷の彫像だった。
俺――エンジェルは、腕を組んだまま、落ち着いた足取りで進む。
視線を凍結した魔物から魔物へと巡らせながら。
エリーはしゃがみ込み、地面の痕跡を丹念に調べ、
エスターは周囲の壁や屋根を鋭く見回している。
そしてブランシュは、背筋を伸ばしたまま無言で立ち、周囲に張り巡らせた警戒の糸を緩めない。
しばらくして、俺は少し拗ねたように息を吐いた。
「なあ、ヴァイオレットさん……
さっき、俺のこと“バカなエルフ”って言っただろ。あれ、なんでだ?」
隣を歩いていたヴァイオレットが、ぴたりと足を止める。
頬が、みるみるうちに淡い赤に染まっていく。
彼女は腕を組み、ぷいっと顔を背け、ぼそぼそと呟いた。
「だ、だって……だって、そういうのはダメなの!
常識的に考えて!」
俺は片眉を上げ、面白そうに聞き返す。
「そういうの?」
「そ、そうよ!」
ヴァイオレットは俺を指差し、声を荒げる。
「理由もなく王女の頭を撫でるなんて、ありえないでしょ!
それも……ブランシュ様に対してなんて!」
少し離れた場所で、ブランシュがわずかに首を巡らせる。
冷たい視線がヴァイオレットに流れ――
だが、ほんの一瞬だけ、唇の端が緩やかに弧を描いた。
俺は肩をすくめ、わざとらしく無垢な声で言う。
「ふーん……つまり、無礼だったってことか。」
ヴァイオレットは勢いよく頷く。
赤くなった頬は、まだ元に戻らない。
「その通り! 無礼極まりないわ!
あれは……あれは、とても意味のある、親密な――」
そこで俺は、意地の悪い笑みを浮かべて遮った。
「じゃあさ。
ヴァイオレットさん、お前は……俺に頭を撫でられるの、嫌か?」
落ち着いた、からかうような声。
――よりにもよって、一番まずいタイミングで使う、あの笑い方だ。
ヴァイオレットが完全に固まった。
目が見開かれる。
一拍の沈黙。
次の瞬間――
「い、いいい――!
……じゃなくて! ち、違うの!
ああああもう!! エンジェル!!」
彼女は腕を振り回し、耳まで真っ赤になって混乱する。
俺は吹き出し、
それにつられてエリーが腹を抱えて笑い、
エスターも必死に平静を装おうとして失敗した。
「ははっ……もう、ヴァイオレット最高……」
エリーは涙目で呻く。
エスターが楽しげに言葉を添える。
「“エルフのバカ”かしら。
どう見ても、的確に急所を突いてるわね。」
ヴァイオレットはぷいっと背を向け、腕を組んで拗ねる。
「……最低。
全員、ほんっとに最低。」
俺はにやりと笑い、彼女の隣に並んで、軽く肩を叩いた。
「まあまあ、そんな顔するなって。王女様。」
半身だけ振り返り、ヴァイオレットは小さく舌打ちする。
「……どうせ、許してほしいだけでしょ。」
「さあな。」
俺はまた肩をすくめた。
その背後で、ブランシュが小さく息を吐く。
冷えた声に、かすかな愉悦が混じる。
「……あなたたち、その“恋愛喜劇”は終わった?
そろそろ、調査を再開したいのだけれど。」
エリーが笑いを噛み殺し、
俺は満面の笑みで答えた。
「はいはい、永遠の氷雪の王女様。再開します。」
ヴァイオレットはまだ視線を逸らしていたが、
その口元には、どうしても隠しきれない微笑が浮かんでいた。
――そして、再び探索が始まる。
凍てつく広場の中央で、抑えた笑い声を交えながら。
そのときだ。
感覚が、鋭く警鐘を鳴らす。
指のあいだに、かすかな乾いた音とともに短剣が滑り込む。
細身の刃には、想像もしたくない毒がまだ湿っていた。
俺は手の甲で弾き返す。
金属の閃光が、虚空へと消えた。
心臓が早鐘を打つ。
舌の奥に、アドレナリンの刺激。
だが――集中がすべてを上回る。
背後で、
ヴァイオレットが一歩退き、
ブランシュが身構え、
エリーは反射的に構えを取り、
エスターは剣の柄を強く握りしめた。
「――見事だな。
……エンジェル、だったか?」
影の中から、落ち着いた声が響く。
答える気はない。
俺は大太刀を構え、気配の間隙へと切っ先を向けた。
圧がある。
まるで、芝居を楽しむ殺し屋のそれだ。
男が前に出る。
フードが落ち、整った顔立ちが現れる。
濃い青の髪を後ろで結い、冷たい眼差し。
この惨状には、あまりにも“整いすぎている”。
彼は、満足そうに笑った。
「感知能力が異常に鋭い。
……暗殺者だろう?」
視線が、俺の大太刀へと移り、眉がわずかに動く。
「だが……大太刀とは。
暗殺者にしては、随分と趣味が違うな。」
ブランシュが、空気を断ち切るように告げる。
「――名を名乗りなさい。」
男は、かすかに頭を下げる。
礼儀正しい“ふり”をした仕草で。
「ほう? 私の名を?
いいだろう。では、特別に。」
彼はフードを完全に外した。
――ルドヴァーン。
挑発のように響く名。
浅く焼けた肌、無精ひげはなく、
深い蒼の瞳が、言葉とともに光を帯びる。
わざとらしく、付け加える。
「私の名は――ルドヴァーン。
綴りは Ludwyrn。
“w”はヴの音、“y”はウに近い。……念のため、な。」
俺は思わず、ぼやく。
「……ああ、分かったよ。英語圏っぽいやつな。」
彼は唇を歪め、楽しげに言う。
「さて……
誰が私の相手をしてくれる?」
芝居がかった仕草。
だが、俺は付き合わない。
ブランシュの余波で、広場の空気はさらに凍てつき、
肺が痛む。
「悪いな、ゴス野郎。」
俺は柄を握り締める。
「今はお前の自己陶酔に付き合う暇はない。
俺たちは、これを仕掛けた張本人を探してる。」
ルドヴァーンの笑みが、氷のように変質する。
「まず一つ。
私はゴシック趣味ではない。
そして二つ――」
彼は、静かに告げた。
「探している相手なら……
今、目の前にいる。」
沈黙。
言葉が、石のように落ちる。
俺は歯を食いしばり、周囲を探る。
「……目の前だと?」
「説明しろ。さもなくば黙らせる。」
ルドヴァーンは肩をすくめる。
「仕方ない。なら、具体的に。」
彼が、柱の影へと手を叩く。
最初は何も見えなかった。
だが――人影が現れる。
白髪混じりの男。
短く整えられた髭。
風に揺れる外套。
――塔の屋上で拍手していた、あの男だ。
ゆっくりと歩み寄り、軽く手を振る。
胃が、嫌な具合に締め付けられる。
「ずいぶん早く見つけましたね。」
髭の男は軽い口調で言う。
「お見事。」
ヴァイオレットが、息を詰めて叫ぶ。
「……あんた……!」
男は平然と肩をすくめた。
「私は、ただ実験を観察しただけです。
多少……刺激的ではありましたが。」
「観察だと!?」
エリーが吐き捨てる。
「街ごと吹き飛ばす気だったくせに!」
背後で、ルドヴァーンがくすりと笑う。
ブランシュが手を上げ、命じる。
「――動くな。
まずは、質問をする。」
髭の男は、従順そうに頭を下げた。
「どうぞ。
答える価値があれば、ですが。」
俺は前に出る。
「誰が資金を出した。
誰がこの実験を望んだ。
誰が、この街を沈めようとした?」
男は、子どもを見るような目で答えた。
「秩序が混沌から生まれると信じる人々です。
……あなた方が、今知る必要はありません。」
怒りが湧く。
だが、冷静に。
ルドヴァーンが、男に囁く。
「彼らは“首”を欲しがっている。
覚悟を示してやれ。」
男は、微笑んだ。
「では、尋ねましょう。
エンジェル――すべてを知る覚悟は、ありますか?」
俺は迷わず、大太刀を向けた。
「ある。今すぐだ。」
沈黙が、罠のように広場を覆う。
――そのとき、ルドヴァーンが言った。
「いいだろう。」
「では――始めよう。すべての“始まり”から。」




