チャプター31 ― 氷でできた世界の中で…
広場は、ほんの数秒で混沌へと変わった。
悲鳴。
倒れる荷車。
布地の屋台を舐めるように広がる炎。
人々の間を裂くように、異形の群れが溢れ出す。
狼と蜘蛛が混ざり合ったような――
速く、醜く、そして恐ろしい存在。
ヴァイオレット。
ブランシュ。
エリー。
エスター。
四人は、逃げ惑う群衆のただ中に取り残される。
その表情が、衝撃から――即座に、戦う者の集中へと切り替わった。
ヴァイオレットは、紫紺に輝く細身のレイピアの柄を強く握りしめる。
指先が白くなるほどに。
「下がって!
急いで! こっちよ!
民間人を北の通路へ押し出して!」
澄んだ、しかし命令の芯を持つ声。
逃げる途中、女がリンゴの籠をひっくり返す。
転がる果実。
泣き叫ぶ子供。
ヴァイオレットは一切の躊躇もなく、続ける。
「エスター、右側の民間人を!
エリー、私と一緒に三体を抑える!」
エリーは即座に剣を抜いた。
ミスリルとオリハルコンの合金刃。
導電性スライムで繋がれた特殊構造。
口元を歪め、楽しげに笑う。
「望むところだ。
実験は家でやれって、教えてやろうぜ。」
エスターは顔を強張らせながらも、すでに踏み出している。
「ふざけないで、エリー。
調子に乗ったら、道徳的罰金を科すわよ。」
ブランシュが、一歩前へ。
蒼氷色に澄んだレイピアを構え、群衆へ突進する異形へ向ける。
「通路を開けて。
後方は私が守る。
民間人を優先。」
最初の魔物が跳躍した。
ヴァイオレットが回転し、斬る。
紫の軌跡。
刃は蜘蛛脚の関節を裂き、甲高い悲鳴が響く。
踏み込み、体重を乗せ、
一体を屋台へと叩き飛ばした。
「汚い……!」
唸りながらも、声を張る。
「いいから押して!
通路を下がって!」
エリーが前へ跳ぶ。
剣が唸り、
ミスリルとオリハルコンが魔力の衝撃を吸収し、反射する。
斬り。
弾き。
剣腹で叩き落とす。
「耐えろ!
倒れた荷車に近づけるな!」
エスターは低い位置で、無駄がない。
扱いやすい実用剣が、
魔物の胸部基部を正確に貫く。
引き抜き、刃についた粘つく血を振り払う。
「……最悪。
誰よ、狼と蜘蛛を混ぜたの。」
ブランシュは氷のように冷静だった。
短く、鋭い指示で戦場を制御する。
「ヴァイオレットさま、直角。
エリー、援護。
エスター、避難!」
蒼氷色のレイピアが、外科手術のような弧を描く。
過剰な血飛沫はない。
だが、確実に四肢は落ち、群れは後退する。
周囲では人々が押し合い、
恐怖に駆られる者、
呆然と立ち尽くす者が混じる。
女商人が、子供を強く抱きしめながら後退する。
ヴァイオレットは一瞬だけ視線を送り、頷く。
「行って!
路地裏よ、急いで!」
エリーが、斬撃の合間に笑う。
「いい眺めだな。
鍛冶場から絵葉書送ってやろうぜ。」
「黙って殴りなさい!」
エスターが、子供に伸びた脚を叩き落とす。
「ほら!
立てる! 走って!」
連携は完璧だった。
訓練された、実戦の動き。
だが――
数が多い。
動きが読めない。
噴水方面へ跳び、石壁を登り始める個体。
鋭い遠吠え。
路地の影から、さらに歪んだ影が呼応する。
斜めから三体が、ヴァイオレットへ。
彼女は応じ、光の筋を引くが――
三体目が脚に噛みつき、柱へと叩きつけた。
転がる。
即座に立ち上がる。
「くそ……!
いつもより硬い!」
その声を聞き、
ブランシュが滑るように回転。
関節を断ち切り、脅威を排除する。
氷色の視線が、ヴァイオレットを捉える。
「大丈夫ですか、ヴァイオレットさま。」
口元の血を拭い、歪んだ笑み。
「ええ。
まだ平気。
……ちょっと冷たすぎよ、氷のたいまつみたい。」
ブランシュは、ほんの一瞬だけ微笑む。
「私は、火を灯す役ではありません。」
その時――
広場の反対側で、
より大きな個体が後脚で立ち上がった。
統率された咆哮。
街灯が揺れる。
市民の悲鳴。
店のシャッターが次々と閉まる。
燃える荷車が、群衆へ引きずられる。
エリーが叫ぶ。
「脚を落とせ!
荷車を近づけるな!」
同時攻撃。
魔力の火花。
金属音。
獣の絶叫。
それでも――減らない。
倒しても、
路地の影から次が現れる。
その時。
ヴァイオレットが刃を突き立て、息を整えた瞬間――
低く、重い振動。
下だ。
何かが、下を移動している。
戦場は、糸が絡むようになる。
押し返し。
守り。
後退。
再編。
ブランシュが叫ぶ。
「下がって!
出口を守らないと挟まれる!」
エスターが子供を引き寄せながら走る。
「援軍が来るまで持ちこたえる!」
エリーは頬の血を拭い、吠える。
「冷静なら生き残れる!」
――その頃。
上空、約五十メートル。
俺は、まだ降下中だった。
風が顔を叩く。
着地を集中して制御する。
まだ、地には触れていない。
上から見える光景。
秩序。
暴力。
恐怖。
具現化させた大太刀を、強く握る。
――今は、ただ落ちるだけだ。
最適な介入点を計算しながら。
その瞬間。
凍てつく風が、広場を覆った。
白く、純粋な霜が地面を包み、
午後の陽光の中で雪片が舞う。
蒼い蒸気が、地面から立ち昇る。
魔物たちは――
攻撃動作のまま、完全に停止した。
氷の彫像。
悲鳴は途中で断ち切られ、
歪んだ形のまま凍りつく。
中心に立つ、ブランシュ。
蒼氷色のレイピアを地に突き立て、
薄い魔力の霧を漂わせている。
金色の長髪が、冷気に揺れる。
冬の青を宿した瞳。
静かで、感情を見せない。
だが――
指先が、わずかに震えていた。
彼女は、ただ一言。
「クライオ。」
余韻が消え、
沈黙が落ちる。
風さえ、息を潜めた。
ヴァイオレット、エリー、エスターは、
指示どおり後方で立ち尽くす。
やがて、ヴァイオレットが呟く。
「……嘘でしょ。
全域、凍結……?」
エリーが、息を呑む。
「やば……
学院でも、こんなクライオマンシー見たことねえ。
民間人ゼロ被害……地面も無傷……」
エスターは、さらに小さく。
「……数秒で全部、計算したのね……」
その時。
空気を裂く音。
影が落ち――
俺は、ブランシュの数メートル前に、
霜を軋ませながら着地した。
雪煙が舞い上がる。
大太刀を手に、
目を見開く。
「……すご。
クリスタロマンシーか?
さすがだな、ブランシュさん!」
空気が、凍る。
ブランシュはわずかに顔を上げる。
残留魔力に光る青い瞳。
そして――
ほんのりと、頬が染まる。
「ありがとう、エンジェルくん……
でも、それは違います。」
静かに、続ける。
「これは、クライオマンシーです。
……結晶生成は、まだ完全ではありません。」
小さな、抑えきれない笑い。
視線を伏せる。
俺は無言で近づき、
そっと彼女の頭に手を置いた。
優しく、撫でる。
「それでも十分すごい。
本気で。
広場、全部救ったぞ。氷の姫。」
ブランシュは、最初、完全に固まる。
目を見開き――
そして、ゆっくり閉じた。
受け入れるように。
唇に、かすかな微笑。
背後。
エリーが爆笑する。
—「ちょ、待て待て待て!?
本当に撫でたぞ!?
ブランシュ姫の頭を!?」
エスターが呆然と呟く。
「……自殺志願者?」
ヴァイオレットは、無言。
頬を赤く染め、歯をきしらせる。
「あのバカなエルフ……」
だが、ブランシュは微笑んだまま。
声は冷たいが、柔らかい。
「……ありがとうございます、エンジェルくん。」
俺は手を離し、凍った戦場を見渡す。
「さて……
宴は終わりだな。」
大太刀を背へ戻し、
三人――と、エリーを見る。
「次は、これを放った連中だ。
街でこれを出すってことは……
もっと厄介な準備をしてる。」
ヴァイオレットが頷く。
「ああ。追うわ」
エスターは剣を収め、笑う。
「いつか教えなさいよ、エンジェル。
なんで姫様たちが、あなたの言うこと聞くのか。」
エリーが笑う。
「マジで。
秘密なんだよ?」
俺は天を仰ぐ。
「秘密?
……ピザだ。
チーズとはちみつ。」
ブランシュは、顔を逸らし、
小さく笑った。
「行きましょう。
一緒に。」
彼女は、きしむ霜の上を進む。
夕光に照らされる、金色の背。
俺は、その後ろを歩きながら――
少しだけ、誇らしそうに目を細めた。




