チャプター30 ―「エンジェル……それで、合ってる?」
パチ……
パチ……
パチ……
向かいのバルコニー――
まるで舞台劇の幕が上がるかのように、影の中から一人の男が姿を現した。
白銀がかった乱れ髪。無精気味に整えられた顎髭。風をはらんで翻る長い黒のコート。
青い瞳は、どこか愉快そうで――同時に、正気とは言い難い光を宿している。
男はゆっくりと拍手を続けながら、口元に笑みを浮かべた。
「見事だ……実に見事。手首の返し、刃の制御……まさに神業だよ」
俺は眉をひそめる。
「へえ、そりゃどうも。
でさ、あんたってのは――自分の部下がぶっ飛ばされたら、毎回拍手する趣味でもあんのか? 老いぼれさん」
男はくつくつと喉を鳴らして笑った。
低く、落ち着いた、妙に温かみのある笑い声。
「いやいや、違う違う。
“部下”なんて大層なものじゃない。強いて言えば……研修生、かな?
少々不器用だったが、やる気だけはあったよ」
俺は大きくため息をつく。
「はいはい。やっぱり研修生ね。納得だわ」
男は一歩前に出て、手袋に包まれた両手を手すりに置いた。
「それで……君が噂の『紫眼のエルフ』か。
裏通りでは随分と有名らしいじゃないか。評判は伊達ではないな」
「うわ、裏通り。ずいぶん格好いい言い方だな」
肩をすくめて返す。
「わざわざそこまで来て、ホームレス界隈で有名だって言いに来たのか? 光栄だね」
男は腹を抱えて大笑いした。
「ははは! いいね、その物言い!
特別だとは聞いていたが……なるほど、これは確かに面白い」
俺は気だるげに、肩に担いだ大太刀を軽く乗せ直す。
「で? あんた何者だよ。
テロ予備軍のコーチ? 都市爆破の顧問?」
男は芝居がかった仕草で軽く一礼した。
「“均衡の探究者”と呼んでくれ。
まあ要するに……破壊魔術を扱う愚か者たちに、“授業の途中で街を吹き飛ばさない方法”を教えているだけさ」
「結果見る限り、まだ修行が足りねえな」
男はさらに愉快そうに笑い、ふっと手を上げた。
「君は鋭い。実に狡猾だ。
ところで――あのアーティファクトの性質、回収する前から理解していたのかい?」
俺は肩をすくめる。
「もちろん。起動の仕方まで教えてやった」
男が一瞬、言葉を失う。
「……は?」
俺は指先に残る球体を掲げ、これ以上ないほど無邪気な顔で言った。
「俺が使い方を説明したんだよ。
あいつ、完全に迷子だったからさ」
沈黙。
風の音だけが、二人の間を抜けていく。
そして次の瞬間――
「ははははははは!!」
男は腹の底から笑い出した。
「信じられん! 指示まで出しただと!?
最高だ! 君は天才か、それとも完全な狂人だ!」
「……たぶん両方だな」
球体を掲げたまま答える。
男は満足そうに頷いた。
「エンジェル……それで、合ってる?
実に興味深い。気に入ったよ、坊や。
また会える日を楽しみにしている」
俺は片眉を上げ、警戒したまま返す。
「悪いけど、遠慮しとく。
次に会う時も塔が壊れてて、拍手しに来るつもりなら――
その“謎の師匠ムーブ”、勘弁してくれ」
男は最後に一度だけ笑い、影の奥へと下がっていった。
「心配はいらないさ……小さな天使」
眉をひそめた瞬間、
彼の姿はすでに闇に溶け、跡形もなく消えていた。
俺はしばらく無言で虚空を見つめ、やがて首の後ろに手をやって深く息を吐く。
「……マジでさ。
普通の一日ってのは、俺には無理なのか?
ピザ食いたいだけなのに……」
風が吹き、大太刀は白い霧のように掻き消える。
まだ微かに温かいアーティファクトを見つめ、ぼやく。
「さて……次の研修生が爆破したがる前に、隠し場所探さねえとな。最悪だ」
俺は目を細め、下の通りを見下ろす。
そこには――
文明都市にあってはならない異形が蠢いていた。
狼と蜘蛛が混ざったような歪な獣。
黒く湿った毛皮、異様に多い脚が石畳を叩く。
牙が鈍く光り、顎が鉄の罠のように開閉する。
俺は思わず顔をしかめた。
「……うっわ、きっっっしょ……」
声を張り上げる。
「おい! そのクソ実験、家でやれよ!!」
影の中から、あの男の愉快そうな声が返ってくる。
「いやいや!
世界に成果を共有するのも、科学者の務めだろう?」
俺は呆れて眉を上げる。
「科学、今ちょっと……視覚的にアウトだぞ」
男は見世物小屋の子供のように歓声を上げた。
「素晴らしいじゃないか!
狼蜘蛛だ! ああ、なんて芸術的なんだ!」
――その瞬間、怒りがこみ上げた。
キメラだからじゃない。
人がいる場所で、平然とやっているからだ。
風に髪を叩かれながら、身を乗り出す。
「いい加減にしろ。
今すぐ消えろ。
狂った学者ごっこは勝手にやれ――だが人命を巻き込むな」
返事の代わりに、男は大仰な一礼をし、
次の瞬間、その姿は完全に影へと溶けた。
嫌な予感が背筋を走る。
――最悪だ。
下では獣たちが倒れた荷車に近づき、血の匂いを嗅ぎ取る。
悲鳴。逃げ惑う人々。
迷っている暇はない。
俺は大きく息を吸い、足元に集まるマナの火花を感じる。
跳躍の準備だ。
距離はある。風も強い。
だが、足裏に爆発を集中させれば――届く。
歯を食いしばる。
「……さて。
あの“科学”、俺を見てもまだ“素晴らしい”って言えるかな?」
そう呟き――
俺は身を沈め、膝を曲げ、
そして――跳んだ。




